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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS


2018/03/29 13:00:00 地球儀を俯瞰 (ふかん) して熱帯を歩く (1)

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted by住田 育法
 北回帰線を越えました。

 2018年3月25日 (日)、北回帰線を越えて、熱帯の太陽光線が珊瑚の砂浜に照りかえる台湾南部の髙雄琉球郷 (俗称:小琉球) を訪れました(参照:新幹線地図)。

 地球の気候は、北回帰線と南回帰線に挟まれて、熱帯になります。高価な作物のコーヒーや砂糖黍、カカオなどが屋外で育つ気候です。

 南半球のブラジルでは、太陽光線が北から南へ差すため、人の影は南にできます (写真)。いま訪問している台湾では太陽光線は南から差しますので影は北側にできます。影のできる側が、ブラジルでは南、台湾では北です。磁石が無くても日が出ていれば方向が分かるのですが、うっかり間違えると、180度、逆に移動することになります。私は、過去、1度、ブラジルのレシーフェで間違えたことがあります。大西洋の望めるレシーフェでは、海が東、陸地が西、太陽は北、影は南。これを北と思って、逆に向かって歩き続けたのです。

 台湾南部の島、琉球郷を歩くと、日本では温室でしか育たないマンゴーが、あちこちで花と実をつけていました。バナナも豊かな房をたわわに下げていました。熱帯の自然の中に居ると、ここ台湾では、ブラジルの感覚が蘇り、太陽の位置を北方にあると、間違えそうになります。台湾では、太陽は日本と同じく南です。

 さて、熱帯の夜空の話です。太陽の影は、台湾とブラジルでは異なりますが、月の満ち欠けはは同じです。

 春分の日を終えた3月25日の月は、上弦 (写真) です。1週間後の3月31日 (土)が満月となりますね。そうです。翌日の日曜日がカトリックの重要な行事、復活祭 (ポ語:Páscoa/英語:Easter)です。同じ熱帯でも、北半球の台湾と南半球のブラジルでは、太陽光線の差し方は異なりますが、月の変化は同じです。もちろん、温帯の日本でも変わりません。

 ポルトガルの友人が過去、次のように教えてくれました。

「住田、月は嘘つきだ。」
「どうして。」
「大きくなるの語、crescerのCの形のときは小さくなる。」
「小さくなるの語、decrescerのDの形のときは、大きくなる。」

 夜空の月を眺めて、キリスト教のことを考えながら、南米の熱帯のことを思い出しています。

 44年前の1974年にブラジルで体験した「春分の日」の後の満月の後の最初の日曜日の復活祭は4月14日でした。ブラジルでは今年も復活祭の行事が開催されます
  • 国の中央が北回線。その南が熱帯。
  • ブラジルのコパバーナ海岸の風景。影は南に。
  • 満月に向けて大きくなるDの形の上弦の月。

2018/03/13 23:30:00 『菜の花の沖』の船と南蛮の船 (Ⅱ)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 小説の時間は19世紀となりました。享和 (きょうわ) 元年、つまり1801年です。
 『菜の花の沖 (四)』で蝦夷地や船の話をたっぷり提供し、第五巻はこの1801年の春から始まります。司馬遼太郎のわくわくするような筆運びをそのまま紹介しましょう。「林蔵」は間宮林蔵のことです。

 林蔵
 海が春になった。
 その朝、昇りはじめた陽が兵庫の和田岬の松原を隈 (くま) 深く照らしたが、そのまま陽が高くなっても雲がさえぎらず、吹きつづけている微風は、真綿のようにやわらかい。
 生まれたばかりの八艘の船が、すでに兵庫の浦風のなかで、帆柱と船尾(とも)をそろえてならんでいる。
 出港の準備はおわっていた。


 具体的な船の内容を続けます。

 このうち五艘が、官船であった。そのことは、帆柱まで赤く塗られていることでもわかるが、五艘のうちの高官座乗用の柔遠丸・瑞穂 (みずほ) 丸 (ともに350石積) は関船(せきぶね) 防御用の戦闘船) だけに、猫がねずみをねらうときの姿勢のように、船首(みよし) は低く、船尾は高く、いかにも精悍 (せいかん) な感じがした。


 すでに小説の説明を借りて解説しているように、これらの和船は、南蛮の船、つまりヨーロッパの複数の帆を使った航海のための大船ではありません。徳川の日本が、そうした大船の建造を家康以来の祖法によって禁じていました。
 しかし、15世紀の大航海時代が始まるとき、ポルトガル人たちが東方の技術を集積して大海原を航海できる画期的な大船を発明した(15世紀の技術革新誕生を説明した写真を参照) その熱い思いのように、高田屋嘉兵衛の注文を受けた徳川日本の船大工も、制限のある中で、誇りをもって優れた船を作ったようです。
 少し紹介してみましょう。第四巻の「択捉十五万石」の箇所です。

 すでに、吉左衛門に、
 三百五十石 (新造後の船名・柔遠(じゅうえん)丸
 三百五十石 (同・瑞穂(みずほ) 丸)
 七百石 (同・寧済(ねいさい) 丸)
 七百石 (同・福祉(ふくし) 丸)
 七百石 (同・安焉(あんえん) 丸)
 という五艘の官船を造らせている。
 それと材質・技術上同思想のものを同じ棟梁につくらせるというのは、嘉兵衛の思いどおりの船を得る上で便利であり、かつ材料集めの上で安価にもなる。
(略)
 辰吉(しんきつ)丸 (千七百石)
 貞宝丸 (千四百石)
 辰運丸 (七百石)

の三艘であった。

 これらの船は日本近海の長距離航海に使いました。日本ではりっぱな船だったのですが、19世紀にはすでに大型のフリゲート (写真) が珍しくなかったのです。小銃もすでに火縄銃は終わり、新しいマスケット銃 (写真)の時代になっていました。
  • 15世紀のポルトガルで生まれた造船のための技術革新。リスボン海軍博物館にて。
  • 19世紀ヨーロッパ・ポルトガルの大型帆船のレプリカ。リスボン海軍博物館にて。筆者撮影。
  • 火縄銃以後のマスケット銃。リスボン海軍博物館にて。筆者撮影。

2018/03/09 23:30:00 『菜の花の沖』のことば (3)

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田 育法
 高田屋嘉兵衛のことばである日本語によって発せられる号令が、ロシア人の乗組員に通じたそうです。
 この不思議な現象は、暴風雨のもとで、しかも座礁の危険のある状況のなかで起こりました。『菜の花の沖 (六)』の「北へ」の箇所です。

 しかしその号令を発している男が、艦長でも当直将校でもなく、捕虜にしたばかりの日本人であるということに、ロシアの水兵たちは違和感を抱かなかったのであろうか。
 抱かなかったらしいことは、何人もが勇敢にマストに登りはじめたことでも察せられる。おそらくかれらは、前日から嘉兵衛を見て、ごく自然に「隊長」とよんでいたことでもわかるように、海を棲処 (すみか) としてすぐれた指揮能力をもつ男ということが、かんで理解できていたのかとおもえる。
 

 嘉兵衛の相手のリコルドもすごい。

 リコルドは、異国の人名、地名、あるいは物の名をきけば、すぐ憶えられるという異能をもっていた。
 嘉兵衛と部屋を同じくしていて、嘉兵衛が持っている日本語が、単語のかたちでリコルドの脳にしみついてゆく。
 嘉兵衛も、リコルドが喋るロシア語を憶えようとしていた。両人は、日本語やロシア語というそれぞれ何千万人が使っている普遍的な言語世界があるとは考えず、嘉兵衛はリコルド・コトバとしてロシア語を、一方、リコルドは嘉兵衛 (かこ)・コトバとして日本語をおぼえようとした。
 互いに、単語だけで十分だった。単語をいくつかならべれば、相手は勝手に頭の中で文脈をつくってつなぎあわせるように努力するのである。それには、日常起居をともにしているということが、有利だった。


 ことばは平和のシンボルですが、南蛮人と呼ばれたポルトガル人が伝えた鉄砲は、国内統一という「パックス」をもたらしました。しかしその火縄銃は、当時すでに時代遅れであったと、『菜の花の沖』で司馬遼太郎が記述しています。
 
 嘉兵衛はロシアのコザック兵が持つ小銃を観察していたようです。
 
 火縄は用ひず、火燧 (ひうちいし) の由に候。

 この嘉兵衛の観察に続けて、日本に鉄砲が伝来した1543年の前の1515年に歯車式激発法が発明され、この原理に火打石が用いられ、全ヨーロッパにまたたくうちに広まったと、小説は綴っています。この武力差でもし闘えば、日本は一瞬にして敗北したでしょう。

 日本の火縄銃は、その伝来のときから、形式が古くなっていたのである。
 
 武器ではなく平和の「ことば」で繋がった二人に、やがて函館において別離が訪れます。

 函館好日
「函館、函館」
 嘉兵衛は船尾 (とも) に立って、何度もつぶやき、涙が流れてとまらなかった。
 嘉蔵や金兵衛たちが小舟で迎えにきた。
(略)
 前艦長ゴローニン少佐は、艦長室にもどった。嘉兵衛がながい期間、そこに横たわっていたベッドに腰をおろし、リカルドが注いだ帰還最初のウオッカを少しずつ飲んだ。
 逆風がしずまった日本暦9月29日、リコルドは出港用意の信号をあげた。
(略)
 やがてディアナ号は湾口に出たとき、風の中で鳴るようにして帆を展 (ひら) いた。そのとき、リコルド以下すべての乗組員が甲板に整列し、曳綱を解いて離れてゆく嘉兵衛にむかい、
 
 ウラァ、タイショウ

 と、三度叫んだ。嘉兵衛は不覚にも顔中が涙でくしゃくしゃになった。一閑張(いっかんばり) の遠めがねを高くあげ、足もとをよろめかせながら、

 ウラァ、ぢあな

 と、何度もわめいた。やがてディアナ号は、水平線のかなたに没した
 
  • 海上自衛隊の護衛艦や掃海艇の浮かぶ現在の函館港。筆者撮影
  • 函館ハリスト正教会。筆者撮影
  • ロシア人墓地から望む津軽海峡の日没。筆者撮影

2018/03/09 11:40:00 『菜の花の沖』のことば (2)

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田 育法
 日本人の嘉兵衛がロシア人のディアナ号艦長リコルドに捕まりました。
 そして、二人の互いのことばによる交流が始まります。
 たいへん面白い内容です。

 小説は以下のように描写します。

 両者のあいだに、通訳はいない。
 ただ艦長リコルド少佐は、さきに艦にもどらなかった通訳良左衛門 (五郎次) から、この島までの航海中、日本語の手ほどきを受けた。


 リコルドをロシア語 (Рикорд)で紹介すると以下のようになります。

 Пётр Иванович Рикорд (29 января [9 февраля] 1776, Торопец — 16 [28] февраля 1855, Санкт-Петербург) — российский адмирал, путешественник, учёный, дипломат, писатель, кораблестроитель, государственный и общественный деятель.

 母語が異なる二人のコミュニケーション開始は、相手をどのように呼ぶかでした。

 リコルドの日本語:
 高田屋嘉兵衛 = タカダイ・カヒ
 船頭・船持 = シンド・フナモチ
 
 リコルドが理解していた、日本社会の身分制
 百姓人 = フャクショ・シト
 商人や職人などの町人 = マヂノ・シト
 嘉兵衛を尊んで呼ぶ = コマンディル
  指揮官、司令官、隊長、艦長

 司馬遼太郎が綴る次のやりとりが面白い。

「隊長」
 と、リコルドは嘉兵衛を称 (よ) んだ。
 リコルドは、手持ちのごくわずなかな日本の単語を、懸命にならべた。
「オロスヤ、オロスヤ」
 と言い、自分を指さし、さらに嘉兵衛を指さして、
「行く」
 ということばを繰りかえした。
「海。冬」
 リコルドがいった。やがてこの海に冬がくる。来るまでにカムチャッカまで逃げのびてそこで冬営せねばならない、とリコルドはいう。
 嘉兵衛はリコルドの表情を見つめている。表情もまた言語である。リコルドはよく心得ていて、舞台俳優のように表情の変化を大げさにした。
「ガロヴニン」
 と、ゴローニンその人の名を、この部屋で何十回くりかえしたろう。
(略)
嘉兵衛は、リコルドの喋ることばを、ききつづけた。このロシア人の唇からころがり出るふしぎな日本語の単語は、うかうかすると、シャボン玉のように空 (くう) に消えてしまう。嘉兵衛にすれば、その一つ一つをつかんで、数珠 (じゅず) のように緒 (お) を通して文章にしなければならない。(略) われわれと一緒にロシアへ行こう。
 嘉兵衛は一息置き、うなずいた。
「ようがす」


 ロシア側の嘉兵衛たち日本人拉致の目的は、そのゴローニンの救済であると嘉兵衛は気がつきます。
 ところでグローバルな展開を見ると、ブラジル研究者の筆者、住田にとって実に興味深いのは、このゴローニンが世界一周の航海を始めて、南米の最南端からアフリカの最南端の喜望峰へ移動した1808年に、ナポレオン軍に追われたポルトガルの王室がブラジルへ逃れたのです。掲載の地図を参照してください。
 
 さて、ロシアへ連行される決定の後、嘉兵衛が弟たちへ書いた手紙の冒頭が残っています。

 拙者(せっしゃ) 儀、此度 (このたび)、天運つき候や、異国へ参り候。

 楽しい出来事もあります。異文化交流の瞬間です。

「観世丸の水夫に、私の艦を見学させたいというのか」
 かれ (リコルド) も手まねをまじえていうと、嘉兵衛は、そうだ、と答えた。
(略)
 リコルドは、嘉兵衛の申し入れを言下に承知した。かれは当直将校を呼び、
「日本の水夫全員に、本艦を見学させる。みなで歓迎するように」
 と、命じた。
(略)
 リコルドは、係に命じ、艦長室の椅子にすわった日本人たちに、銀の酒器でロシアのウォッカを飲ませた。この強い酒のおかげで、かれらはいっそう打ちとけた。艦長室で振舞いをうけたかれらは、甲板上にもどると、ロシアの水兵をつかまえては、手ぶりで話しかけた。
 
  • 日本人が描いたディアナ号 ウィキペディアより。
  • 老年のリコルド (Ricord = Рикорд: 1776 – 1855) ウィキペディアより。
  • ディアナ号によるゴローニンの世界一周航海。1808年から1811年 (青色)

2018/03/08 17:30:00 『菜の花の沖』のことば (1)

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田 育法
 学生のころ繰返し読んだ『坂の上の雲』(文藝春秋) も『菜の花の沖』と同じく全六巻でした。

 『坂の上の雲 一』1969年

 懐かしい、司馬遼太郎の「語り」です。

 春や昔
 まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。
 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐 (さぬき)、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑 (ゆう) は松山。
 城は松山城という。

 『坂の上の雲 二』1969年
 『坂の上の雲 三』1970年
 『坂の上の雲 四』1971年
 『坂の上の雲 五』1972年
 『坂の上の雲 六』1972年

 ちょうど『坂の上の雲 六』最終巻刊行10年後の1982年に『菜の花の沖 (六)』が出版され、今、当時読んだものが手元にあります。

 さて、主人公の高田屋嘉兵衛が函館に拠点を置く商人だったので、小説のことばは日本語と北の国のロシア語です。そして『菜の花の沖 (六)』はナポレオン軍がモスクワへ兵を進めて敗北したロシア戦役の1812年から始まっています。

 遭遇
 リコルド少佐は、不期の戦いも覚悟していた。毎日の緊張が、目の下の肉を削 (そ) ぎとってしまった。かれがひきいる軍艦ディアナ号と護送艦ゾーチック号が、ともすれば霧が出て視界を乳色にしてしまう南千島の海域をうろつきはじめたのは、ロシア暦の八月中旬 (1812年・文化九年) のことである。
 霧のほか、風も潮流もすべて操船に都合 (つごう) が悪かった。
(略)
 霧の中の軍艦ディアナ号の「目」のほうが早く、嘉兵衛がディアナ号を見るよりさきに観世丸みつけた。
「大型日本船が」
と、艦長リコルド少佐は書いている。
「外海からまともな湾内に入って来るのを認めた」
 といって、べつに戦時ではないのである。観世丸が、なにごともないはずの自分の海域を帆走していて、油断していたのに対し、ディアナ号のほうは日本船をとらえるべく鵜 (う) の目鷹 (たか) の目になっていた。そういう姿勢のちがいはあるが、ほかに日本船が高いマストに見張りを置いていないということもある。さらに決定的なのは、日本船の伝統では、ほとんど訓練がほどこされていないということにあったろう。
(略)
 イギリスで発達した商船、私掠船 (しりゃくせん 戦時の通商破壊の私的な船)、さらには海軍の伝統にあっては、乗組員というものは、陸 (おか) の世間に住む人間とはずいぶんちがっていた。かれらは合理化されぬいた役割を個々に自覚し、それにともなう激しい訓練をうけ、かつ各員の役割についてはきびしい倫理観で裏打ちされていた。
 そういうシステムによって訓練されたロシア海軍にあっては、見張りの者の能力一つとっても日本船とはけたはずれにすぐれていた。

 司馬遼太郎の目線から、19世紀瀬戸内生まれの商人、高田屋嘉兵衛の北の国のリコルドとのことばの交流を小説を読みながら取り上げてみましょう。 
  • 1812年ロシア戦役 (ナポレオン戦争) における戦闘の1つボロジノの戦い。絵はウィキペディアより。
  • 函館の高田屋嘉兵衛の銅像。筆者撮影。
  • 函館の高田屋嘉兵衛の住居跡と筆者。

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