マカオのニュース
2018/01/17 01:50:00 『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (4)
- マカオのニュース
- 住田 育法
『阿片戦争』についての、このブログ (1) で紹介したように、19世紀の世界においては、イギリスが、強力な海軍力と大量のモノの取引によって、世界経済を支配していました。同時にこのイギリスは英語では British Empire、日本語では「イギリス帝国」もしくは「大英帝国」と表現されてきました。
小説第五部の「逝く年」で陳舜臣は清国を「独裁君主制の国家」と呼んでいます。
ということで、ここで興味深い歴史の偶然に気がつきます。それは、阿片戦争を闘う英国も清国も、ともに強力なヒエラルキーに基づく帝国であったことです。さらに、パクス・ブリタニカに組み込まれていた、マカオを支配するポルトガルの植民地であった、1822年に独立を果たしたブラジルも、帝政下の「独裁君主制の国家」であったのです。
要するに、イギリス、中国、ポルトガル、そしてブラジルは、中央集権的なエリートが指導する、トップダウンの命令系統による権威主義体制の国々でありました。
さて暦のことを考えてみましょう。小説で呼ぶ「新暦」とは、当時の英国と今日の日本が用いている西洋暦です。
第三部
「断章 Ⅲ」
道光 19 年 (1839年) の大晦日は、新暦では 2月2日にあたる。英国政府が出兵を決意したころ (1840年2月) である。
以下は新暦です。
第四部
「艦隊北上」
ブラーマー准将の率いる主力艦隊は、6月21日 (1840年) にマカオ沖に到着し、翌22日、広州封鎖を宣言した。
21世紀の今もそうですが、中国は大晦日と元旦を旧暦で祝っています。2018年は2月16日が中国の元旦、つまり春節だそうです。『阿片戦争』では西洋暦である日本の新暦を基本として中国の旧暦も使っています。
ところで今から177年まえの正月1月7日に、英軍による清国の要塞に対する激しい攻撃がありました。
第四部
「一月七日」
1841年1月7日は、旧暦ではまだ道光20年の12月15日である。
小説『阿片戦争』では、架空の中心人物の連維材は、この情報を事前に入手し、新しい総督に伝えます。しかし、その展開は以下のような残念なものでした。
伍紹栄は、彩蘭のまえで手紙を開封した。
― マカオより急報あり。英軍は本日、川鼻 (せんぴ) 方面を攻撃することに決せりという。すみやかに総督に謁し、援兵を該方面に派遣されんことを乞われたし。......
署名はなかったが、伍紹栄は手紙の行間に、連維材の熱っぽい息づかいを感じた。
「よろしい」と彼は彩蘭にむかって言った。
(略)
官署の門衛は、幕客にとりついだ。
「緊急の用件というが、なにごとじゃな?」
ひげをはやした幕客は、眼をこすりながら出てきて、伍紹栄を見下ろすように訊いた。
(略)
「総督閣下のことばを、そのまま伝える、いいな?......わしは林則徐とはちがう。総督たる身で、夷情のことにいちいち頭をつっこんではおれない。......そうおっしゃられたのだ」
伍紹栄はしずかに頭を垂れた。
この戦争で、英軍は珠江の沙角要塞と大角要塞を陥落させ、清国軍の戦死292名、負傷者463名、死傷者のうち、将校は44名であったと報告されています。これにくらべて、英軍に戦死者はなく、負傷者もすくなかったそうです。この連絡を受けたマカオ沖にいた英国商務総監督のエリオット大佐は「貿易再開」のための交渉が進むと思ったようです。しかし、北京の皇帝は平和のための交渉に向けた態度を硬化させます。
1841年の1月20日には、このエリオット大佐率いるイギリス軍が香港島を占領し、翌1842年に香港がイギリスに永久割譲されます。しかし、1997年に香港が中国に返還された21世紀の今、その歴史を振りかえると、皇帝をはじめとする中国人の熱く強靱な魂を感じることができます。ポルトガル語の字幕で1997年の中国映画『鸦片战争 The Opium War』を鑑賞しました。155年後に返還を実現させたのです。映画のラストシーンでは清国の皇帝が号泣します。
陳舜臣の小説『阿片戦争』は第六部まで続き、「完」となります。
小説第五部の「逝く年」で陳舜臣は清国を「独裁君主制の国家」と呼んでいます。
ということで、ここで興味深い歴史の偶然に気がつきます。それは、阿片戦争を闘う英国も清国も、ともに強力なヒエラルキーに基づく帝国であったことです。さらに、パクス・ブリタニカに組み込まれていた、マカオを支配するポルトガルの植民地であった、1822年に独立を果たしたブラジルも、帝政下の「独裁君主制の国家」であったのです。
要するに、イギリス、中国、ポルトガル、そしてブラジルは、中央集権的なエリートが指導する、トップダウンの命令系統による権威主義体制の国々でありました。
さて暦のことを考えてみましょう。小説で呼ぶ「新暦」とは、当時の英国と今日の日本が用いている西洋暦です。
第三部
「断章 Ⅲ」
道光 19 年 (1839年) の大晦日は、新暦では 2月2日にあたる。英国政府が出兵を決意したころ (1840年2月) である。
以下は新暦です。
第四部
「艦隊北上」
ブラーマー准将の率いる主力艦隊は、6月21日 (1840年) にマカオ沖に到着し、翌22日、広州封鎖を宣言した。
21世紀の今もそうですが、中国は大晦日と元旦を旧暦で祝っています。2018年は2月16日が中国の元旦、つまり春節だそうです。『阿片戦争』では西洋暦である日本の新暦を基本として中国の旧暦も使っています。
ところで今から177年まえの正月1月7日に、英軍による清国の要塞に対する激しい攻撃がありました。
第四部
「一月七日」
1841年1月7日は、旧暦ではまだ道光20年の12月15日である。
小説『阿片戦争』では、架空の中心人物の連維材は、この情報を事前に入手し、新しい総督に伝えます。しかし、その展開は以下のような残念なものでした。
伍紹栄は、彩蘭のまえで手紙を開封した。
― マカオより急報あり。英軍は本日、川鼻 (せんぴ) 方面を攻撃することに決せりという。すみやかに総督に謁し、援兵を該方面に派遣されんことを乞われたし。......
署名はなかったが、伍紹栄は手紙の行間に、連維材の熱っぽい息づかいを感じた。
「よろしい」と彼は彩蘭にむかって言った。
(略)
官署の門衛は、幕客にとりついだ。
「緊急の用件というが、なにごとじゃな?」
ひげをはやした幕客は、眼をこすりながら出てきて、伍紹栄を見下ろすように訊いた。
(略)
「総督閣下のことばを、そのまま伝える、いいな?......わしは林則徐とはちがう。総督たる身で、夷情のことにいちいち頭をつっこんではおれない。......そうおっしゃられたのだ」
伍紹栄はしずかに頭を垂れた。
この戦争で、英軍は珠江の沙角要塞と大角要塞を陥落させ、清国軍の戦死292名、負傷者463名、死傷者のうち、将校は44名であったと報告されています。これにくらべて、英軍に戦死者はなく、負傷者もすくなかったそうです。この連絡を受けたマカオ沖にいた英国商務総監督のエリオット大佐は「貿易再開」のための交渉が進むと思ったようです。しかし、北京の皇帝は平和のための交渉に向けた態度を硬化させます。
1841年の1月20日には、このエリオット大佐率いるイギリス軍が香港島を占領し、翌1842年に香港がイギリスに永久割譲されます。しかし、1997年に香港が中国に返還された21世紀の今、その歴史を振りかえると、皇帝をはじめとする中国人の熱く強靱な魂を感じることができます。ポルトガル語の字幕で1997年の中国映画『鸦片战争 The Opium War』を鑑賞しました。155年後に返還を実現させたのです。映画のラストシーンでは清国の皇帝が号泣します。
陳舜臣の小説『阿片戦争』は第六部まで続き、「完」となります。
2018/01/13 23:30:00 『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (3)
- マカオのニュース
- 住田 育法
阿片戦争の始まる第三部に登場する「マカオ」ということばの使用は 101 個でした。
第三部ではマカオ商館の英国商務総監督のエリオットのおしゃべりが面白いですね。
「発端」の箇所:
英国がわは、もし戦端をひらこうとする場合、最大の弱点をもっていた。
道義の問題である。
― 阿片のための戦争。
もう一つ、「マカオ退去」の箇所の清国経済官僚に対する広州経済人伍紹栄の語り:
― イギリスが世界最強の国になったのは、その財力による。国富は商工業や外国貿易によって、積まれた。
さて、1839年8月24日、欽差大臣の林則徐は、ポルトガル当局に、イギリス商人とその家族のマカオからの追放を命じました。チャイニーズ・レポジトリーは、イギリス人は「男も女も子どもたちも、すべて同じように、彼らの住所からあわただしく、自国の船へ安全な退去を求めて急いだ」と報じています。
マカオは、その北が中国大陸、南が海、東が香港島に向かう珠江、西が大陸 (写真) の小さな半島です。
英商館 (旧東インド会社) はマカオの東海岸、現在の南湾街にあった。その一帯が、グランド・ランディング・プレースである。現在、香港通いの船は西海岸のナンバーのついた突堤で発着するが、そのあたりが、むかしスモール・ランディング・プレースと呼ばれていたのだ。海関監督のマカオ出張所は、そちらがわにあった。清国当局の強硬姿勢は西海岸の海関主張所から出て、東海岸の英商館を圧迫したわけである。
そのイギリス人の追放から2ヵ月余りのちの11月3日の川鼻海戦によって阿片戦争が始まった、とするのが定説とのことです。そして、英国政府が出兵を決定したのは、翌1840年2月でした。
第三部の最後の「火攻」で描かれているインド・パールシー族の金貸しの娘で連維材の愛人、西玲 (シーリン) をながめてみましょう。陳舜臣のことばの「魔術」です。すてきです。
南から湿気を含んだ風が、かなり強く吹いている。
広東の 6 月は真夏で、夜もほとんど湿度がさがらない。
ジャンクのなかで、西玲は孔雀羽の扇を、しきりにうごかしていた。
「水のうえに出ると、すこしはすずしくなるなんて、言ってたけど......」
彼女は、そばで寝そべっている弟の誼譚にむかって、不服そうに言った。
「ぜいたくを言っちゃいけねえよ、姉さん。これでも、陸 (おか) よりはましなんだぜ」
ここは磨刀洋の水のうえである。銅鼓湾 (どうこわん) とマカオの中間にあり (略)
このとき、英船焼打ちの作戦が行われたのです。
この夜、副将李賢 (りけん) を総指揮とする 400余名の官兵が動員されました。そして、このイギリス船に対する攻撃の際、西玲と誼譚の姉弟が夕涼みのために雇ったジャンクが、闇船と間違われて、林則徐の軍から火箭 (かせん) の攻撃をうけて、しかたなく二人は海の水にのがれたのです。
彼女 (西玲) は濡れた衣服をぬぎはじめた。
裸になって、彼女はタオルでつよくからだをこすった。体内に凍りついた血が、ゆるやかに溶けて、再び流れはじめるのがかんじられた。
彼女は自分のからだを、くびれた腰のあたりを、惚れ惚れと見おろした。
そしてまた、
「誼譚が......」と呟く。
だんだんと靄 (もや)がはれて行く頭のなかに、連維材、伍紹栄、李芳 (りほう)、銭江 (せんこう)たち、そして逃亡した買弁鮑鵬 (ほうほう) まで、いろんな男の顔がうかんだ。
彼女の心は、さまざまな形をした波のあいだに、難破していた。
やがて、ドアがあいて、一人の西洋婦人がはいってきた。遠洋航海の艦船の高級船員は、夫人を同伴した時代である。
西玲は、とっさに手にしていた服で、からだのまえをかくした。
西洋婦人は微笑みながら、何か英語で話しかけた。
この磨刀洋の火攻のほぼ 2 週間後に、ジョン・ゴルドン・ブレマー (John Gordon Bremer) 准将の率いる遠征艦隊の主力が、マカオに到着するのです。
第三部ではマカオ商館の英国商務総監督のエリオットのおしゃべりが面白いですね。
「発端」の箇所:
英国がわは、もし戦端をひらこうとする場合、最大の弱点をもっていた。
道義の問題である。
― 阿片のための戦争。
もう一つ、「マカオ退去」の箇所の清国経済官僚に対する広州経済人伍紹栄の語り:
― イギリスが世界最強の国になったのは、その財力による。国富は商工業や外国貿易によって、積まれた。
さて、1839年8月24日、欽差大臣の林則徐は、ポルトガル当局に、イギリス商人とその家族のマカオからの追放を命じました。チャイニーズ・レポジトリーは、イギリス人は「男も女も子どもたちも、すべて同じように、彼らの住所からあわただしく、自国の船へ安全な退去を求めて急いだ」と報じています。
マカオは、その北が中国大陸、南が海、東が香港島に向かう珠江、西が大陸 (写真) の小さな半島です。
英商館 (旧東インド会社) はマカオの東海岸、現在の南湾街にあった。その一帯が、グランド・ランディング・プレースである。現在、香港通いの船は西海岸のナンバーのついた突堤で発着するが、そのあたりが、むかしスモール・ランディング・プレースと呼ばれていたのだ。海関監督のマカオ出張所は、そちらがわにあった。清国当局の強硬姿勢は西海岸の海関主張所から出て、東海岸の英商館を圧迫したわけである。
そのイギリス人の追放から2ヵ月余りのちの11月3日の川鼻海戦によって阿片戦争が始まった、とするのが定説とのことです。そして、英国政府が出兵を決定したのは、翌1840年2月でした。
第三部の最後の「火攻」で描かれているインド・パールシー族の金貸しの娘で連維材の愛人、西玲 (シーリン) をながめてみましょう。陳舜臣のことばの「魔術」です。すてきです。
南から湿気を含んだ風が、かなり強く吹いている。
広東の 6 月は真夏で、夜もほとんど湿度がさがらない。
ジャンクのなかで、西玲は孔雀羽の扇を、しきりにうごかしていた。
「水のうえに出ると、すこしはすずしくなるなんて、言ってたけど......」
彼女は、そばで寝そべっている弟の誼譚にむかって、不服そうに言った。
「ぜいたくを言っちゃいけねえよ、姉さん。これでも、陸 (おか) よりはましなんだぜ」
ここは磨刀洋の水のうえである。銅鼓湾 (どうこわん) とマカオの中間にあり (略)
このとき、英船焼打ちの作戦が行われたのです。
この夜、副将李賢 (りけん) を総指揮とする 400余名の官兵が動員されました。そして、このイギリス船に対する攻撃の際、西玲と誼譚の姉弟が夕涼みのために雇ったジャンクが、闇船と間違われて、林則徐の軍から火箭 (かせん) の攻撃をうけて、しかたなく二人は海の水にのがれたのです。
彼女 (西玲) は濡れた衣服をぬぎはじめた。
裸になって、彼女はタオルでつよくからだをこすった。体内に凍りついた血が、ゆるやかに溶けて、再び流れはじめるのがかんじられた。
彼女は自分のからだを、くびれた腰のあたりを、惚れ惚れと見おろした。
そしてまた、
「誼譚が......」と呟く。
だんだんと靄 (もや)がはれて行く頭のなかに、連維材、伍紹栄、李芳 (りほう)、銭江 (せんこう)たち、そして逃亡した買弁鮑鵬 (ほうほう) まで、いろんな男の顔がうかんだ。
彼女の心は、さまざまな形をした波のあいだに、難破していた。
やがて、ドアがあいて、一人の西洋婦人がはいってきた。遠洋航海の艦船の高級船員は、夫人を同伴した時代である。
西玲は、とっさに手にしていた服で、からだのまえをかくした。
西洋婦人は微笑みながら、何か英語で話しかけた。
この磨刀洋の火攻のほぼ 2 週間後に、ジョン・ゴルドン・ブレマー (John Gordon Bremer) 准将の率いる遠征艦隊の主力が、マカオに到着するのです。
2018/01/10 12:20:00 『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (2)
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- 住田 育法
前回の (1) で紹介した小説のはじまりの「望潮山房の主人」は、陳舜臣が本作品でクローズアップしている商人、連維材です。ただし陳舜臣が創作した架空の人物です。
さて商人とは、平たく言えば、モノを取引して利益を得る人たちです。つまり、はるかな昔より今日に至るまで、「時間」と「空間」を超えて異なっているモノの価格差を利用して、安く入手して、高く売って利益を得てきた人たちです。
ポルトガルの商人やフランシスコ・ザビエルら宣教師は南蛮時代に、中国で安く生糸を仕入れて、日本で高く売る、また日本からは、銀を安く入手し中国で高く売る、という取引で儲けたのです。
産業革命を経験したイギリスは、自国の商品である工業製品を、18世紀にはポルトガルに高く売り、ポルトガルからはワインを購入、結果として発生した貿易収支の赤字を、ポルトガル人はブラジルから得た大量の金で補ったのです。19世紀には中国でお茶などを安く手に入れて、イギリス人は利益を得ようとしていました。しかし、高価なお茶の購入で、取引は赤字でした。この対策として、インドで安く入手できる阿片を中国で高く売って、暴利を得ようとしたのです。ところが当初は、中国の識者の阿片に反対する動きによって、イギリス人は思い通りに交易を独占できませんでした。
そこで、自由な貿易圏のマカオが登場するのです (写真)。阿片戦争の5~6年前の第一部では、数えると作品の中の綴られた「マカオ」のことばは 73 個にのぼっています。
陳舜臣のマカオ観は以下のように厳しいものです。25回目の「マカオ」の場面です。
マカオは大きな屑籠だった。人びとは、やけくそにものを棄てるたのしみにふける。
珠江 (しゅこう) 河口デルタの南端にあるこの街は、なにも生産しない。広州で活躍する貿易関係者の足場であり、休憩の場であり、そして密輸阿片の中継地である。
大西洋に面したブラジルではポルトガル王室の王子によって1822年に独立が実現し、自国の工業製品をブラジルで販売したいイギリスが、賃金労働体制の実現に向けて、ブラジルの黒人奴隷貿易に反対していたころです。写真の絵は、リオの遺跡の隅に掲げられている埠頭を描いたヨハン・モーリッツ・ルゲンダス(Johann Moritz Rugendas) の作品です (写真)。2017年7月にこのリオの埠頭跡地はユネスコの世界文化遺産に登録されました。
陳舜臣の語りをさらに、のぞいてみましょう。
第一部
暗殺拳
当時 (1833年) のマカオや広州には、中国市場をめざして、世界各地から商人があつまっていた。
いうまでもなく、英国人がもっとも多かった。
つぎにポルトガル人。彼らはマカオに特殊居住権をえて、英人が中国貿易に進出するまでは、中国市場で覇をとなえていたのである。
スペイン人は、占領したフィィピンを基地として、中国貿易に進出した。中国人はスペインのことを『大呂宋 (ルソン)国』ともいう。彼らは中国市場にスペイン・ドル銀貨を導入し、これがのちに中国で『洋銀』として流通通貨の役をはたした。
作品では、さらにオランダやフランス、アメリカ、オーストリア、プロシア、スエーデンの商人のことを挙げています。
小説の第一部が終わる1834年 (写真) の場面を紹介しましょう。新たにできた駐清国商務総監督の首席である軍人外交官ネーピア卿の死の場面です。
9月26日、ネーピア一行はマカオに到着し、ネーピアは担架にのせられて上陸した。
マカオでは、英国皇帝ウィリアム四世の代表たるにふさわしい待遇をうけた。マカオはやたらにカトリック教会の多い土地である。ポルトガル当局は、ネーピアの病状に気をつかって、各教会の鐘をとめた。
しかし15日後、病勢にわかにあらたまって、ネーピアは息絶えた。
投獄されていた商人の連維材も1834年10月3日に出獄するところで、戦争3年前の1836年の第二部、そして「阿片禁絶」の決定を清国がくだす戦争前夜の1838年に小説の話が進みます。
さて商人とは、平たく言えば、モノを取引して利益を得る人たちです。つまり、はるかな昔より今日に至るまで、「時間」と「空間」を超えて異なっているモノの価格差を利用して、安く入手して、高く売って利益を得てきた人たちです。
ポルトガルの商人やフランシスコ・ザビエルら宣教師は南蛮時代に、中国で安く生糸を仕入れて、日本で高く売る、また日本からは、銀を安く入手し中国で高く売る、という取引で儲けたのです。
産業革命を経験したイギリスは、自国の商品である工業製品を、18世紀にはポルトガルに高く売り、ポルトガルからはワインを購入、結果として発生した貿易収支の赤字を、ポルトガル人はブラジルから得た大量の金で補ったのです。19世紀には中国でお茶などを安く手に入れて、イギリス人は利益を得ようとしていました。しかし、高価なお茶の購入で、取引は赤字でした。この対策として、インドで安く入手できる阿片を中国で高く売って、暴利を得ようとしたのです。ところが当初は、中国の識者の阿片に反対する動きによって、イギリス人は思い通りに交易を独占できませんでした。
そこで、自由な貿易圏のマカオが登場するのです (写真)。阿片戦争の5~6年前の第一部では、数えると作品の中の綴られた「マカオ」のことばは 73 個にのぼっています。
陳舜臣のマカオ観は以下のように厳しいものです。25回目の「マカオ」の場面です。
マカオは大きな屑籠だった。人びとは、やけくそにものを棄てるたのしみにふける。
珠江 (しゅこう) 河口デルタの南端にあるこの街は、なにも生産しない。広州で活躍する貿易関係者の足場であり、休憩の場であり、そして密輸阿片の中継地である。
大西洋に面したブラジルではポルトガル王室の王子によって1822年に独立が実現し、自国の工業製品をブラジルで販売したいイギリスが、賃金労働体制の実現に向けて、ブラジルの黒人奴隷貿易に反対していたころです。写真の絵は、リオの遺跡の隅に掲げられている埠頭を描いたヨハン・モーリッツ・ルゲンダス(Johann Moritz Rugendas) の作品です (写真)。2017年7月にこのリオの埠頭跡地はユネスコの世界文化遺産に登録されました。
陳舜臣の語りをさらに、のぞいてみましょう。
第一部
暗殺拳
当時 (1833年) のマカオや広州には、中国市場をめざして、世界各地から商人があつまっていた。
いうまでもなく、英国人がもっとも多かった。
つぎにポルトガル人。彼らはマカオに特殊居住権をえて、英人が中国貿易に進出するまでは、中国市場で覇をとなえていたのである。
スペイン人は、占領したフィィピンを基地として、中国貿易に進出した。中国人はスペインのことを『大呂宋 (ルソン)国』ともいう。彼らは中国市場にスペイン・ドル銀貨を導入し、これがのちに中国で『洋銀』として流通通貨の役をはたした。
作品では、さらにオランダやフランス、アメリカ、オーストリア、プロシア、スエーデンの商人のことを挙げています。
小説の第一部が終わる1834年 (写真) の場面を紹介しましょう。新たにできた駐清国商務総監督の首席である軍人外交官ネーピア卿の死の場面です。
9月26日、ネーピア一行はマカオに到着し、ネーピアは担架にのせられて上陸した。
マカオでは、英国皇帝ウィリアム四世の代表たるにふさわしい待遇をうけた。マカオはやたらにカトリック教会の多い土地である。ポルトガル当局は、ネーピアの病状に気をつかって、各教会の鐘をとめた。
しかし15日後、病勢にわかにあらたまって、ネーピアは息絶えた。
投獄されていた商人の連維材も1834年10月3日に出獄するところで、戦争3年前の1836年の第二部、そして「阿片禁絶」の決定を清国がくだす戦争前夜の1838年に小説の話が進みます。
2018/01/08 00:00:00 『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (1)
- マカオのニュース
- 住田 育法
イベリア半島のポルトガルは、1143年にアフォンソ・エンリケスが国王として認められて王国の建設を果たし、1415年の北アフリカのセウタ占領で始まった大航海時代をリードしました。1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見、1500年のブラジル発見など輝かしい歩みが続きます。しかし重商主義と絶対王政の18世紀には植民地ブラジルともども、経済的に対英従属のシステムに組み込まれ、19世紀の1808年にはナポレオン軍の国土侵略に追われて、英国艦隊の護衛によって1万5千人の臣下たちとブラジルへ王室は逃れました。そして南米のブラジルのリオデジャネイロ (以下、リオと略す) に海洋帝国ポルトガルの新しい首都を置いたのです。
このようなユニークで脆弱 (ぜいじゃく) な本国ポルトガルの支配下にあって、極東アジアのマカオは、東西交流の間で独自の発展を遂げてゆきます。
さて私は2018年の正月、陳舜臣著2015年新装版の『阿片戦争』を読んでいます。小説のはじまりを私はいつも、著者のことばを辿りながら楽しみます。ちょうど新年1月に始まったNHKの大河ドラマ「西郷どん(SEGODON)」の時代が1840年の「阿片戦争」に重なっています。NHKでは薩摩と琉球、小説『阿片戦争』ではマカオと中国と欧米の繋がりでしょうか。
第一部
望潮山房主人
清の道光 (どうこう) 12 年 (1832) 3月 2日は、太陽暦で4月2日にあたる。
亜熱帯の福建省厦門 (アモイ) の町は、朝からすでにきびしい日ざしを浴びていた。
厦門は岩石の島である。島内の名勝、大儒朱熹 (たいじゅしゅぎ) ゆかりの白鹿洞 (はくろくどう) や大虚法師開基 (たいきょほうしかいき) の南普陀寺 (なんふだじ) など、いずれも奇岩怪石で名高い。
市城東郊に、一軒の豪壮な邸宅があったがその庭にも、いろんな形状の岩がちりばめられていた。
邸の正面に大門があり、2 つの扁額 (へんがく) がならんでかかっている。
鴻園
飛鯨書院 (ひげいしょいん)
達筆とはいえなかった。なぐり書いたような文字は、むしろ悪筆というべきか。隅に、『定庵 (ていあん)書』と署名されていた。
台湾の西に位置する中国の厦門は、北回帰線が国の中央を走る台湾と同じく、熱帯に属しています。砂糖キビやマンゴー、バナナなどが育ちます。ポルトル人が支配したマカオは、さらに少し南。阿片戦争 (a guerra do ópio) の舞台となる香港とは珠江を挟んで海に面しています。
21世紀の今、中国がシルクロードの現代版とも言える「一帯一路」と呼ぶ陸上と海上の東西交流の地理的発展を提示していますが、19世紀においては、イギリスが、強力な海軍力と大量のモノの取引によって、世界経済を支配していました。
このようなユニークで脆弱 (ぜいじゃく) な本国ポルトガルの支配下にあって、極東アジアのマカオは、東西交流の間で独自の発展を遂げてゆきます。
さて私は2018年の正月、陳舜臣著2015年新装版の『阿片戦争』を読んでいます。小説のはじまりを私はいつも、著者のことばを辿りながら楽しみます。ちょうど新年1月に始まったNHKの大河ドラマ「西郷どん(SEGODON)」の時代が1840年の「阿片戦争」に重なっています。NHKでは薩摩と琉球、小説『阿片戦争』ではマカオと中国と欧米の繋がりでしょうか。
第一部
望潮山房主人
清の道光 (どうこう) 12 年 (1832) 3月 2日は、太陽暦で4月2日にあたる。
亜熱帯の福建省厦門 (アモイ) の町は、朝からすでにきびしい日ざしを浴びていた。
厦門は岩石の島である。島内の名勝、大儒朱熹 (たいじゅしゅぎ) ゆかりの白鹿洞 (はくろくどう) や大虚法師開基 (たいきょほうしかいき) の南普陀寺 (なんふだじ) など、いずれも奇岩怪石で名高い。
市城東郊に、一軒の豪壮な邸宅があったがその庭にも、いろんな形状の岩がちりばめられていた。
邸の正面に大門があり、2 つの扁額 (へんがく) がならんでかかっている。
鴻園
飛鯨書院 (ひげいしょいん)
達筆とはいえなかった。なぐり書いたような文字は、むしろ悪筆というべきか。隅に、『定庵 (ていあん)書』と署名されていた。
台湾の西に位置する中国の厦門は、北回帰線が国の中央を走る台湾と同じく、熱帯に属しています。砂糖キビやマンゴー、バナナなどが育ちます。ポルトル人が支配したマカオは、さらに少し南。阿片戦争 (a guerra do ópio) の舞台となる香港とは珠江を挟んで海に面しています。
21世紀の今、中国がシルクロードの現代版とも言える「一帯一路」と呼ぶ陸上と海上の東西交流の地理的発展を提示していますが、19世紀においては、イギリスが、強力な海軍力と大量のモノの取引によって、世界経済を支配していました。
2017/02/02 12:10:00 東アジア南蛮空間の旅(6)
- マカオのニュース
- 住田 育法
2017年1月最後の土曜日28日に、映画「沈黙―サイレンス―」を京都の映画館で見ました。
映画終了時の館内の雰囲気は、沈黙状態でした。ショックを受けて観客がおしゃべりできないような沈黙の理由が映画にあったとすれば、日本人キリシタンが侍に首を切られ、血の流れる首が地面を転がるとか、助けを求める女たちが簀巻きにされて海に投げ込まれ溺死するような酷い場面があるのに、ロドリゴが「転び」、最後は「仏教徒」になる、というようなストーリーへの驚きと悔しさでしょう。
映画を見ながら私は、登場人物の誰に感情移入すべきか、途中で悩みました。監督の意図は、裏切り者のキチジローを許した、「転んだ」神父のロドリゴの本当の「こころ」を理解させることでしょうから、当然、悩める若き宣教師ロドリゴでしょう。「転ぶ」とは、キリスト教を捨てることではなく、起き上がれば元に戻ることを意味すると、マーティン・スコセッシ監督が来日の際の映画紹介のコメントで述べています。
異教徒の日本人の立場では、「人間は自らの宗教を容易に改めることはできない」と理解することになるのでしょう。例えば、仏教徒としては、「日本人は、キリシタンになっても、それはうわべだけで、本当は日本の信仰を持ち続けた」と思うことも許されるでしょう。つまり、自らのこととしてよりも、あの「キリシタン」たち、あの「宣教師」たちというまなざしです。しかし、キリスト教の世界と呼べる欧米の人たちは、自らに問いかける映画となったようです。
米国映画「沈黙―サイレンス―」を米国の映画館で米国人に対してマーティン・スコセッシ監督は、異文化理解の視点よりも、監督の全人生とキリスト教の関係、という自身の内面への思いを語っています。これを知ることで、東アジア人の私には、まさに異文化理解を認識できました。
映画の中で「転ぶ」ことを勧める奉行井上筑後守(ちくごのかみ)の言葉が、遠藤周作の作品『沈黙』で丁寧に描かれています。映画では特にこの奉行に感情移入をしなかったのですが、今静かに思い返しながら、この人物に不思議な親しみを覚えます。以下の引用が、小説に描かれた彼の言葉です。
「パードレが万里の外に使いとして、険阻(けんそ)艱難(かんなん)をへてここに来られる志の堅さに我々とていたく心を動かされる。さぞ、今日まで辛(つら)かったことであろうな」
「我々とて、それを知るゆえに、職務とは申せこうして取り調べるのは心苦しい」
「パードレの宗旨、そのものの正邪をあげつろうておるのではない。エスパニアの国、ホルトガル国、その他諸々(もろもろ)の国には、パードレの宗旨はたしかに正とすべきであろうが、我々が切支丹を禁制にしたのは重々、勘考の結果、その教えが今の日本国には無益(むえき)と思うたからである」
この奉行の姿勢が、東アジアの日本人の文化の1つである、と見ることもできるのでしょう。もちろん、ずる賢い奴だ、という見方もあるでしょう。
キリスト教徒であった原作者遠藤周作は、裏切りを繰り返したキチジローを取上げて、つぎのように纏めています。最後の「役人日記」の箇所、これの前の終わりの描写を引用しましょう。
「怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが、やがて体を動かし去って行った。自分は不遜(ふそん)にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟(ひせき)をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒瀆(ぼうとく)の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日(こんにち)までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」
映画では、さらにロドリゴの仏式の火葬の場面が続きますが、これはぜひ、映画館で見てください。ラストシーンの映像と暗転の語りに、キリシタンの不屈の「こころ」が示されています。
映画終了時の館内の雰囲気は、沈黙状態でした。ショックを受けて観客がおしゃべりできないような沈黙の理由が映画にあったとすれば、日本人キリシタンが侍に首を切られ、血の流れる首が地面を転がるとか、助けを求める女たちが簀巻きにされて海に投げ込まれ溺死するような酷い場面があるのに、ロドリゴが「転び」、最後は「仏教徒」になる、というようなストーリーへの驚きと悔しさでしょう。
映画を見ながら私は、登場人物の誰に感情移入すべきか、途中で悩みました。監督の意図は、裏切り者のキチジローを許した、「転んだ」神父のロドリゴの本当の「こころ」を理解させることでしょうから、当然、悩める若き宣教師ロドリゴでしょう。「転ぶ」とは、キリスト教を捨てることではなく、起き上がれば元に戻ることを意味すると、マーティン・スコセッシ監督が来日の際の映画紹介のコメントで述べています。
異教徒の日本人の立場では、「人間は自らの宗教を容易に改めることはできない」と理解することになるのでしょう。例えば、仏教徒としては、「日本人は、キリシタンになっても、それはうわべだけで、本当は日本の信仰を持ち続けた」と思うことも許されるでしょう。つまり、自らのこととしてよりも、あの「キリシタン」たち、あの「宣教師」たちというまなざしです。しかし、キリスト教の世界と呼べる欧米の人たちは、自らに問いかける映画となったようです。
米国映画「沈黙―サイレンス―」を米国の映画館で米国人に対してマーティン・スコセッシ監督は、異文化理解の視点よりも、監督の全人生とキリスト教の関係、という自身の内面への思いを語っています。これを知ることで、東アジア人の私には、まさに異文化理解を認識できました。
映画の中で「転ぶ」ことを勧める奉行井上筑後守(ちくごのかみ)の言葉が、遠藤周作の作品『沈黙』で丁寧に描かれています。映画では特にこの奉行に感情移入をしなかったのですが、今静かに思い返しながら、この人物に不思議な親しみを覚えます。以下の引用が、小説に描かれた彼の言葉です。
「パードレが万里の外に使いとして、険阻(けんそ)艱難(かんなん)をへてここに来られる志の堅さに我々とていたく心を動かされる。さぞ、今日まで辛(つら)かったことであろうな」
「我々とて、それを知るゆえに、職務とは申せこうして取り調べるのは心苦しい」
「パードレの宗旨、そのものの正邪をあげつろうておるのではない。エスパニアの国、ホルトガル国、その他諸々(もろもろ)の国には、パードレの宗旨はたしかに正とすべきであろうが、我々が切支丹を禁制にしたのは重々、勘考の結果、その教えが今の日本国には無益(むえき)と思うたからである」
この奉行の姿勢が、東アジアの日本人の文化の1つである、と見ることもできるのでしょう。もちろん、ずる賢い奴だ、という見方もあるでしょう。
キリスト教徒であった原作者遠藤周作は、裏切りを繰り返したキチジローを取上げて、つぎのように纏めています。最後の「役人日記」の箇所、これの前の終わりの描写を引用しましょう。
「怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが、やがて体を動かし去って行った。自分は不遜(ふそん)にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟(ひせき)をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒瀆(ぼうとく)の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日(こんにち)までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」
映画では、さらにロドリゴの仏式の火葬の場面が続きますが、これはぜひ、映画館で見てください。ラストシーンの映像と暗転の語りに、キリシタンの不屈の「こころ」が示されています。