マカオのニュース
2019/04/13 22:10:00 ポルトガル語圏研究のすすめ (7)
- マカオのニュース
- 住田 育法
ポルトガル語圏研究のすすめ(7)
はるか400余年の時空の「旅」を、フロイス著『日本史』と共に、もう少し楽しんでみましょう。27年前の1992年に、NHKの大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』の監修を松田毅一先生がつとめて、第45回「地球は丸い」ではフロイスと信長の対話が描かれています。
今回のブログで扱うのは信長の時代の後です。具体的な「時」は1587年です。学生の皆さんに伝えたいのは歴史家の豊かな想像力です。
本学付属図書館所蔵のフロイス自筆署名の古文書に記されている年が1587年です (写真)。そしてこの1587年には、豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が発せられ、バテレンたるpadre (カトリックの司祭の意) フロイスにとっては、生死にかかわる一大事となっていたのです。
本学付属図書館は、1975年4月10日に日本関係イエズス会古文書を4点購入しています。この古文書を、故松田毅一先生の指導のもと、川崎桃太先生、故ろじゃ・めいちん先生、そして、筆者の住田が共同して、解題・翻訳などを行いました。筆者の担当は、文献学の専門家である英国人のめいちん先生と協力して、ルイス・フロイスの文書の写本文字を読み、活字に表記する (写真) ことでした。虫喰いの箇所は、[ ] 内に入れて示しました。内容は『研究論叢』第19号 (1979年)、第20号 (1980年)、第21号 (1981年) 、第22号 (1982年) に「京都外国語大学付属図書館所蔵日本関係イエズス会文書」と題して掲載されています。
川崎名誉教授は、『フロイスの見た戦国日本』で文書について次のように書いています。
パードレと呼ばれたこの一団は、ヨーロッパの大学で学んだ当時の知識人たちから編成されていた。(略) 現在日本の一部の大学図書館に、稀覯(きこう)本として架蔵されている『エボラ書簡集』や『コインブラ書簡集』は、往時の代表的刊行物の名残である。
(略)
巡察師ヴァリニャーノが初めて来日したのは、1579年(天正7) のことであった。(略)
1582年(天正10) 、巡察師に伴われてヨーロッパに旅立つことになる、四人の少年使節がいた。
ヴァリニャーノが二度目に来日したのは、8年後の1590年(天正18) のことであった。ポルトガル、スペイン、イタリアを歴訪し、それらの国の国王、諸侯から熱烈な歓迎を受けた使節たちは、すでに逞しい青年に成長していた。(略)
伴天連追放令が発布されている最中での巡察師の訪日である。(略)
その二年後の1592年(文禄元)、ヴァリニャーノはマカオに帰還した。フロイスは彼の秘書となって同行した。そのときフロイスの手には、彼が心血を注いでそれまでに書き上げた『日本史』の原稿が握られていた。一刻も早くそれらが印刷されて、ヨーロッパで読まれることを彼は念願していたからである。しかし、巡察師の彼への態度は冷たかった。(略) ヴァリニャーノは1598年(慶長3) 、三度目の来日を果たした。到着した一月後、太閤が世を去り、長い付き合い相手であったフロイスもその前年長崎に葬られていた。偉才ヴァリニャーノは1606年(慶長11) マカオで病没した。
このように400年余り前の経緯を遡ると、本学付属図書館所蔵の文書の存在が、奇跡に近い幸運に思えてきます。『研究論叢』第19号 (1979年)の内容の一部を紹介しましょう。
第一文書は、その内容、およびローマ・イエズス会文書館に現存する別の写本から、ルイス・フロイスによる1587年度第二日本年報であると断定できる (略)
文書は、1587年8月5日付で、平戸(諸島) から、ルイス・フロイスがローマのイエズス会総長クラウディア・アクアヴィーヴァに宛てて執筆した1587年度の第二日本年報の第二、もしくは第三便とみなされるもので、本文は同僚が清書し、フロイスが署名を付したOliginalia である、と言うことができる。(略)
1592年10月に日本を離れ、1595年まで約三ヵ月間、南シナのマカオに住んだ。(略) 長崎に戻り、(略) 1597年3月15日付で「二十六聖人殉教事件」に関する長文の特別報告書を書きあげた後、同年7月8日(慶長2年5月27日)、六十五歳をもって病いのため長崎で息をひきとった。
少し内容を紹介しましょう。この付属図書館所蔵のルイス・フロイス執筆日本関係イエズス会文書 (1587年8月5日付、平戸発信) は、『フロイス 日本史 8』訳者 松田毅一 川崎桃太 1978年12月20日発行 中央公論社の158~167ページの一部に一致します。
第一文書訳文
地上の教会がつねに対立する道を辿ることになりましたのは、デウスの御命令によることであり、初代教会の始めから、その永遠の御知恵の揺がぬ決定に負うものであります。(略)
昨年、副管区長 (ガスパル・コエリョ) 師は都から帰ってこられ、豊後に着くと、立派な贈物を携えて、(豊後国主の) 嫡子義統 (ヨシムネ) を訪れ、さらにその母堂および妻子、弟たちにも逢いましたが、義統は (これにつき) 司祭に対しては深い満足の意を表しました。その後司祭は多くの伝言を通じて義統に、自分の主君である関白殿の特許上 (に書かれていること) を実行に移すようにと交渉しましたが、(その関白殿の特許は、) デウスの教えが何人にも妨害されることなく、当 (日本) 地方のあらゆる国々において宣教されることを許可する (との内容でした)。司祭は、(イエスズ) 会としては何びとをも (キリシタン宗門に改宗するよう) 強制する考えはなく、その特許状の写しを教会の戸口に掲げておく(に留める) ので、嫡子は、自発的にキリシタンになりたいという者が出た場合、それを妨げないようにと (嫡子) に申されました。(略)
NHKの大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』第45回「地球は丸い」では既述のとおりフロイスと信長の対話が描かれていますね。そして、フロイス死後の17世紀のバテレンの姿に想像力を発揮した日本文学の傑作が遠藤周作の『沈黙』でした。この作品に基づいた米国映画『沈黙―サイレンス―』が2017年に日本で公開されました。1587年から430年経っています。
最後に、本学ラテンアメリカ研究所において日本関係イエズス会古文書研究会 (仮)をスタートさせ、第1回「フロイスを読む」を2019年3月13日(水)に筆者、住田が発表したことをお知らせします。
はるか400余年の時空の「旅」を、フロイス著『日本史』と共に、もう少し楽しんでみましょう。27年前の1992年に、NHKの大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』の監修を松田毅一先生がつとめて、第45回「地球は丸い」ではフロイスと信長の対話が描かれています。
今回のブログで扱うのは信長の時代の後です。具体的な「時」は1587年です。学生の皆さんに伝えたいのは歴史家の豊かな想像力です。
本学付属図書館所蔵のフロイス自筆署名の古文書に記されている年が1587年です (写真)。そしてこの1587年には、豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が発せられ、バテレンたるpadre (カトリックの司祭の意) フロイスにとっては、生死にかかわる一大事となっていたのです。
本学付属図書館は、1975年4月10日に日本関係イエズス会古文書を4点購入しています。この古文書を、故松田毅一先生の指導のもと、川崎桃太先生、故ろじゃ・めいちん先生、そして、筆者の住田が共同して、解題・翻訳などを行いました。筆者の担当は、文献学の専門家である英国人のめいちん先生と協力して、ルイス・フロイスの文書の写本文字を読み、活字に表記する (写真) ことでした。虫喰いの箇所は、[ ] 内に入れて示しました。内容は『研究論叢』第19号 (1979年)、第20号 (1980年)、第21号 (1981年) 、第22号 (1982年) に「京都外国語大学付属図書館所蔵日本関係イエズス会文書」と題して掲載されています。
川崎名誉教授は、『フロイスの見た戦国日本』で文書について次のように書いています。
パードレと呼ばれたこの一団は、ヨーロッパの大学で学んだ当時の知識人たちから編成されていた。(略) 現在日本の一部の大学図書館に、稀覯(きこう)本として架蔵されている『エボラ書簡集』や『コインブラ書簡集』は、往時の代表的刊行物の名残である。
(略)
巡察師ヴァリニャーノが初めて来日したのは、1579年(天正7) のことであった。(略)
1582年(天正10) 、巡察師に伴われてヨーロッパに旅立つことになる、四人の少年使節がいた。
ヴァリニャーノが二度目に来日したのは、8年後の1590年(天正18) のことであった。ポルトガル、スペイン、イタリアを歴訪し、それらの国の国王、諸侯から熱烈な歓迎を受けた使節たちは、すでに逞しい青年に成長していた。(略)
伴天連追放令が発布されている最中での巡察師の訪日である。(略)
その二年後の1592年(文禄元)、ヴァリニャーノはマカオに帰還した。フロイスは彼の秘書となって同行した。そのときフロイスの手には、彼が心血を注いでそれまでに書き上げた『日本史』の原稿が握られていた。一刻も早くそれらが印刷されて、ヨーロッパで読まれることを彼は念願していたからである。しかし、巡察師の彼への態度は冷たかった。(略) ヴァリニャーノは1598年(慶長3) 、三度目の来日を果たした。到着した一月後、太閤が世を去り、長い付き合い相手であったフロイスもその前年長崎に葬られていた。偉才ヴァリニャーノは1606年(慶長11) マカオで病没した。
このように400年余り前の経緯を遡ると、本学付属図書館所蔵の文書の存在が、奇跡に近い幸運に思えてきます。『研究論叢』第19号 (1979年)の内容の一部を紹介しましょう。
第一文書は、その内容、およびローマ・イエズス会文書館に現存する別の写本から、ルイス・フロイスによる1587年度第二日本年報であると断定できる (略)
文書は、1587年8月5日付で、平戸(諸島) から、ルイス・フロイスがローマのイエズス会総長クラウディア・アクアヴィーヴァに宛てて執筆した1587年度の第二日本年報の第二、もしくは第三便とみなされるもので、本文は同僚が清書し、フロイスが署名を付したOliginalia である、と言うことができる。(略)
1592年10月に日本を離れ、1595年まで約三ヵ月間、南シナのマカオに住んだ。(略) 長崎に戻り、(略) 1597年3月15日付で「二十六聖人殉教事件」に関する長文の特別報告書を書きあげた後、同年7月8日(慶長2年5月27日)、六十五歳をもって病いのため長崎で息をひきとった。
少し内容を紹介しましょう。この付属図書館所蔵のルイス・フロイス執筆日本関係イエズス会文書 (1587年8月5日付、平戸発信) は、『フロイス 日本史 8』訳者 松田毅一 川崎桃太 1978年12月20日発行 中央公論社の158~167ページの一部に一致します。
第一文書訳文
地上の教会がつねに対立する道を辿ることになりましたのは、デウスの御命令によることであり、初代教会の始めから、その永遠の御知恵の揺がぬ決定に負うものであります。(略)
昨年、副管区長 (ガスパル・コエリョ) 師は都から帰ってこられ、豊後に着くと、立派な贈物を携えて、(豊後国主の) 嫡子義統 (ヨシムネ) を訪れ、さらにその母堂および妻子、弟たちにも逢いましたが、義統は (これにつき) 司祭に対しては深い満足の意を表しました。その後司祭は多くの伝言を通じて義統に、自分の主君である関白殿の特許上 (に書かれていること) を実行に移すようにと交渉しましたが、(その関白殿の特許は、) デウスの教えが何人にも妨害されることなく、当 (日本) 地方のあらゆる国々において宣教されることを許可する (との内容でした)。司祭は、(イエスズ) 会としては何びとをも (キリシタン宗門に改宗するよう) 強制する考えはなく、その特許状の写しを教会の戸口に掲げておく(に留める) ので、嫡子は、自発的にキリシタンになりたいという者が出た場合、それを妨げないようにと (嫡子) に申されました。(略)
NHKの大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』第45回「地球は丸い」では既述のとおりフロイスと信長の対話が描かれていますね。そして、フロイス死後の17世紀のバテレンの姿に想像力を発揮した日本文学の傑作が遠藤周作の『沈黙』でした。この作品に基づいた米国映画『沈黙―サイレンス―』が2017年に日本で公開されました。1587年から430年経っています。
最後に、本学ラテンアメリカ研究所において日本関係イエズス会古文書研究会 (仮)をスタートさせ、第1回「フロイスを読む」を2019年3月13日(水)に筆者、住田が発表したことをお知らせします。
2019/03/21 21:20:00 ポルトガル語圏研究のすすめ(3)
- マカオのニュース
- 住田 育法
これまで、学生の皆さんの研究には、参考文献を読んで出会うキーワードが大切だと説明しました。
今回は、参考文献で獲得する、あるいは、「芸ごとのコツ」のように「ぬすむ」 (参考: 梅棹忠夫著『知的生産の技術』岩波新書、1969年、1ページ) ことができる「技術」の話をしましょう。
取り上げる重要参考文献は、次の訳注本 (写真) です。
『フロイス 日本史 8』訳者 松田毅一 川崎桃太 1978年12月20日発行 中央公論社 (東京都中央区京橋2-8-7)
この訳注本の158~167ページは、京都外国語大学付属図書館が1975年4月10日に入手したルイス・フロイス執筆の日本関係イエズス会文書 (1587年8月5日付、平戸発信) の一部と一致します。
皆さんに紹介したい「コツ」とは、まずこの『フロイス 日本史 8』の最後の引用参考文献目録を丁寧に読むことから学ぶことができる偉大な先人の知恵です。
参考にしたいのは、参考文献の書き方です。
備考を紹介します。
1. 邦文献と欧文献に分け、前者は著訳編者名を五十音順に、後者は著者名をABC順に配列し、古文献などは書名を冒頭に置いた。
2. 訳書は、原則的には、訳者名の箇所に掲げた。原著は欧文の部を参照されたい。
この後、邦文献が、348~363ページまで。欧文献が、363~367まで載っています。
今から44年前の『京都新聞』に掲載された記事を本学付属図書館のネット情報から読むことができます。
その一部を紹介します。学生の皆さんが、学びの「コツ」に近づくためのヒントになれば幸いです。
京都新聞 昭和50(1975)年5月5日(月)
ポルトガルの宣教師 ルイス・フロイス著「日本史」
京外大図書館で全巻復元
以下、記事の引用です。
戦国時代末期の激動を記録したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの『日本史』全巻が京都外国語大学付属図書館 (森田嘉一館長) で復元された。執筆から四百余年、世界各地を転々とし、その一部は一次、行え不明となるなど数奇な経路と内容を秘めた著作が本家・日本で初めて完全に復元されたわけで、わが国の中世研究の貴重な史料として注目される。
(中略)
この『日本史』原稿は、その後、マカオ (写真) に送られたが、19世紀に焼失 (写真)。ところが、その前の18世紀半ばに宣教師モンターニャによって写本三通が完成しており、この写本は、ポルトガル (リスボン) 、マニラ、スペイン、フランスなどを転々。今から80年前にやっとその一部がポルトガルの図書館で発見され、全巻が出そろうのは昭和6年まで待たねばならなかった。ところが、その後また、83~87年の部分が行方不明となり、全巻の復元ができない状態となった。
この数奇な書物の解明に努力している同大学の川崎桃太教授が昨秋、留学先のポルトガル国立図書館で欠陥部分を発見し、マイクロ・フィルムに転写。共同研究者の松田毅一教授が所蔵している他の部分のマイクロ・フィルムと合わせ、この4月に全巻復元が成った。
(以下省略)
今回は、参考文献で獲得する、あるいは、「芸ごとのコツ」のように「ぬすむ」 (参考: 梅棹忠夫著『知的生産の技術』岩波新書、1969年、1ページ) ことができる「技術」の話をしましょう。
取り上げる重要参考文献は、次の訳注本 (写真) です。
『フロイス 日本史 8』訳者 松田毅一 川崎桃太 1978年12月20日発行 中央公論社 (東京都中央区京橋2-8-7)
この訳注本の158~167ページは、京都外国語大学付属図書館が1975年4月10日に入手したルイス・フロイス執筆の日本関係イエズス会文書 (1587年8月5日付、平戸発信) の一部と一致します。
皆さんに紹介したい「コツ」とは、まずこの『フロイス 日本史 8』の最後の引用参考文献目録を丁寧に読むことから学ぶことができる偉大な先人の知恵です。
参考にしたいのは、参考文献の書き方です。
備考を紹介します。
1. 邦文献と欧文献に分け、前者は著訳編者名を五十音順に、後者は著者名をABC順に配列し、古文献などは書名を冒頭に置いた。
2. 訳書は、原則的には、訳者名の箇所に掲げた。原著は欧文の部を参照されたい。
この後、邦文献が、348~363ページまで。欧文献が、363~367まで載っています。
今から44年前の『京都新聞』に掲載された記事を本学付属図書館のネット情報から読むことができます。
その一部を紹介します。学生の皆さんが、学びの「コツ」に近づくためのヒントになれば幸いです。
京都新聞 昭和50(1975)年5月5日(月)
ポルトガルの宣教師 ルイス・フロイス著「日本史」
京外大図書館で全巻復元
以下、記事の引用です。
戦国時代末期の激動を記録したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの『日本史』全巻が京都外国語大学付属図書館 (森田嘉一館長) で復元された。執筆から四百余年、世界各地を転々とし、その一部は一次、行え不明となるなど数奇な経路と内容を秘めた著作が本家・日本で初めて完全に復元されたわけで、わが国の中世研究の貴重な史料として注目される。
(中略)
この『日本史』原稿は、その後、マカオ (写真) に送られたが、19世紀に焼失 (写真)。ところが、その前の18世紀半ばに宣教師モンターニャによって写本三通が完成しており、この写本は、ポルトガル (リスボン) 、マニラ、スペイン、フランスなどを転々。今から80年前にやっとその一部がポルトガルの図書館で発見され、全巻が出そろうのは昭和6年まで待たねばならなかった。ところが、その後また、83~87年の部分が行方不明となり、全巻の復元ができない状態となった。
この数奇な書物の解明に努力している同大学の川崎桃太教授が昨秋、留学先のポルトガル国立図書館で欠陥部分を発見し、マイクロ・フィルムに転写。共同研究者の松田毅一教授が所蔵している他の部分のマイクロ・フィルムと合わせ、この4月に全巻復元が成った。
(以下省略)
2018/10/23 14:30:00 2018年10月24日、マカオと香港結ぶ大橋ついに開通
- マカオのニュース
- 住田 育法
「まさか」の話題がなんと「ほんまもん」になりました。
ターボジェットで 1 時間かかる距離。そこに橋を架けるというのは、「話だけ」ぐらいに思っていました。
ポルトガル語で、a Ponte Hong Kong-Zhuhai-Macau、英語でHong Kong–Zhuhai–Macau Bridge、中国語で港珠澳大橋 (写真)。
10月23日に中国本土の広東省珠海と、中国に返還された香港、そしてマカオを結ぶ上記の海上橋の開通式が珠海で開かれ、24日にいよいよ一般車両の開通となります。海底トンネルなどを含めた全長は55キロメートルで、海上橋としては世界最長です(参照: 地図)。23日の記念式は中国の習近平 (シー・ジンピン) 国家主席が出席して、珠海で開催されました。
マカオのテレビも 23日の記念式をニュースで報じています。
この本学のブログで、『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (5)と題して、以下のように書きました。
第五部「奇襲の夜」
西玲のからだには、二つの民族の血が流れている。中国人として育ったが、貿易港の広州や外国人の多いマカオで暮らしてきた。彼女はつねに、どっちつかずの位置にいた。
マカオは、中国への復帰後の2005年に、東洋と西洋の文化が融合・共存してきた歴史地区が、ユネスコの世界遺産に登録されます。この東西文化の出会いが、19世紀の阿片戦争のときにも、マカオで起こっていました。さらに香港はイギリスの植民地となりますが、マカオはポルトガルの植民地としてではなく、居住と交易の許可を与えられた永久居留地として、阿片戦争以後も歴史を紡ぎました。その食文化のひとつが混ざり合いの文化の果実「アフリカンチキン」です。
さらに21世紀の今、中国返還後の香港とマカオをつなぐ巨大な港珠澳大橋 (Hong Kong–Zhuhai–Macau Bridge) が完成します。これもまさに、平和な交流の姿の反映でしょう。
大橋建設のプロジェクトは平和な経済開発の姿ですね。
日本経済新聞も、「米国との貿易戦争が深刻になる中、ハイテク企業が集まる深圳や自動車産業の中心地である広州と金融・物流センターの香港を結びつけて、経済のけん引役としたい考えだ」と紹介しています。
数字を見ると、総工費は1千億元 (約1兆6千億円)を超えるそうです。中国資本ですね。時間では船 (ターボジェット) で1時間かかっていたマカオ香港が大幅に短縮されて車で30分ぐらいとなるようです。
日本の関西空港からマカオ空港にマカオ航空で行く方法もありますが、私はいつも予約を取れず、香港国際空港経由での旅行でした。これからは、香港からマカオ (写真) への移動はバスを利用することになるでしょう。
ターボジェットで 1 時間かかる距離。そこに橋を架けるというのは、「話だけ」ぐらいに思っていました。
ポルトガル語で、a Ponte Hong Kong-Zhuhai-Macau、英語でHong Kong–Zhuhai–Macau Bridge、中国語で港珠澳大橋 (写真)。
10月23日に中国本土の広東省珠海と、中国に返還された香港、そしてマカオを結ぶ上記の海上橋の開通式が珠海で開かれ、24日にいよいよ一般車両の開通となります。海底トンネルなどを含めた全長は55キロメートルで、海上橋としては世界最長です(参照: 地図)。23日の記念式は中国の習近平 (シー・ジンピン) 国家主席が出席して、珠海で開催されました。
マカオのテレビも 23日の記念式をニュースで報じています。
この本学のブログで、『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (5)と題して、以下のように書きました。
第五部「奇襲の夜」
西玲のからだには、二つの民族の血が流れている。中国人として育ったが、貿易港の広州や外国人の多いマカオで暮らしてきた。彼女はつねに、どっちつかずの位置にいた。
マカオは、中国への復帰後の2005年に、東洋と西洋の文化が融合・共存してきた歴史地区が、ユネスコの世界遺産に登録されます。この東西文化の出会いが、19世紀の阿片戦争のときにも、マカオで起こっていました。さらに香港はイギリスの植民地となりますが、マカオはポルトガルの植民地としてではなく、居住と交易の許可を与えられた永久居留地として、阿片戦争以後も歴史を紡ぎました。その食文化のひとつが混ざり合いの文化の果実「アフリカンチキン」です。
さらに21世紀の今、中国返還後の香港とマカオをつなぐ巨大な港珠澳大橋 (Hong Kong–Zhuhai–Macau Bridge) が完成します。これもまさに、平和な交流の姿の反映でしょう。
大橋建設のプロジェクトは平和な経済開発の姿ですね。
日本経済新聞も、「米国との貿易戦争が深刻になる中、ハイテク企業が集まる深圳や自動車産業の中心地である広州と金融・物流センターの香港を結びつけて、経済のけん引役としたい考えだ」と紹介しています。
数字を見ると、総工費は1千億元 (約1兆6千億円)を超えるそうです。中国資本ですね。時間では船 (ターボジェット) で1時間かかっていたマカオ香港が大幅に短縮されて車で30分ぐらいとなるようです。
日本の関西空港からマカオ空港にマカオ航空で行く方法もありますが、私はいつも予約を取れず、香港国際空港経由での旅行でした。これからは、香港からマカオ (写真) への移動はバスを利用することになるでしょう。
2018/01/23 01:30:00 『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (6)
- マカオのニュース
- 住田 育法
『阿片戦争』の新装版 4 冊のすべてを読み終えました。
第六部の「生と死」の場面に、マカオで暮らしてきた連維材の愛人の西玲 (シーリン) が登場します。異種族混淆文化のマカオ (写真) の延長線上の世界です。
めまいがしたので、連維材は次の部屋にさがって、椅子に腰をおろした。
黙琴が彼のあとについてきて、すべるように部屋を出た。そして、椅子の肘かけにすがるようにして坐っている連維材のそばへ寄って、彼女はかがみこんだ。
「このようなときに、こんなことをおしらせしていいかどうかわかりませんが......さきほど、西玲さんに女の子が生まれましたの」
黙琴は連維材の耳に、そう囁いた。
「生まれた?」
(略)
「どんな赤ん坊が生まれたのか、お知りになりたくありませんの?」
「知りたい」
連維材は、すなおに答えた。
「髪は栗色です。色の白い、瞳は青みがかった赤ん坊。お星さまみたいに光る瞳です」
「西玲は?」
「お元気です。」
(略)
「......そうか、あの子は天からさずかったようなものだ。星の如し......如星 (ルーシン) 、これがいいではないか?」
「如星......きれいな名前です」
(略)
「姓は連ですね?」
連維材はうなずいて、
「そうだ、如星は私の子だ」
と答えた。
小説は第一部「望潮山房主人」の亜熱帯の福建省厦門 (アモイ) の町からはじまりましたが、おわりは、遙か北の中原 (ちゅうげん) でした。阿片戦争 (歴史地図) が終わるとき、連維材、王挙志、林則徐の三人のおしゃべりが盛りあがり、陳舜臣の小説は「完」となります。
第六部
「訣別」
道中の風景は、連維材たち南方人の眼にはまるで別世界だった。
「これが中原ですね」
王挙志は黄河流域の黄色っぽい風景を指さして、しみじめと言った。
(略)
9月6日(旧8月2日)の夜、蘭州道の林則徐の宿舎で、三人 (連維材、王挙志、林則徐)はテーブルを囲んだ。
(略)
連維材は気を取り直したように言った。―
「しかし、わが国はひろいですね。こんどの旅行でつくづくそう思いました。ここにいると、広州のことなど、まるで夢のようです」
台湾に統文、香港に承文、上海に理文。―それぞれ遠く離れている。怒濤の時代に立ち向かう若い人たちのことを思い、連維材は老いをかんじた。
話し合っているあいだに、三人はだいぶ酒をのんだ。三人とも酒が好きであった。
「時代がかわります」
と、王挙志が言った。
(略)
三人ともわかっていた。―
この三人がそれぞれちがった道にはいって、新しい時代を迎える。―いや、新しい時代をつくろうとするだろうことを。
21世紀の2018年。中国発の「新しい時代」が続きます。
一帯一路で東西を結ぶ21世紀のシルクロード。
ブラジルを加えた新興国BRICSの21世紀の跳躍。
南蛮の足跡マカオ世界文化遺産 (2005年登録)。
第六部の「生と死」の場面に、マカオで暮らしてきた連維材の愛人の西玲 (シーリン) が登場します。異種族混淆文化のマカオ (写真) の延長線上の世界です。
めまいがしたので、連維材は次の部屋にさがって、椅子に腰をおろした。
黙琴が彼のあとについてきて、すべるように部屋を出た。そして、椅子の肘かけにすがるようにして坐っている連維材のそばへ寄って、彼女はかがみこんだ。
「このようなときに、こんなことをおしらせしていいかどうかわかりませんが......さきほど、西玲さんに女の子が生まれましたの」
黙琴は連維材の耳に、そう囁いた。
「生まれた?」
(略)
「どんな赤ん坊が生まれたのか、お知りになりたくありませんの?」
「知りたい」
連維材は、すなおに答えた。
「髪は栗色です。色の白い、瞳は青みがかった赤ん坊。お星さまみたいに光る瞳です」
「西玲は?」
「お元気です。」
(略)
「......そうか、あの子は天からさずかったようなものだ。星の如し......如星 (ルーシン) 、これがいいではないか?」
「如星......きれいな名前です」
(略)
「姓は連ですね?」
連維材はうなずいて、
「そうだ、如星は私の子だ」
と答えた。
小説は第一部「望潮山房主人」の亜熱帯の福建省厦門 (アモイ) の町からはじまりましたが、おわりは、遙か北の中原 (ちゅうげん) でした。阿片戦争 (歴史地図) が終わるとき、連維材、王挙志、林則徐の三人のおしゃべりが盛りあがり、陳舜臣の小説は「完」となります。
第六部
「訣別」
道中の風景は、連維材たち南方人の眼にはまるで別世界だった。
「これが中原ですね」
王挙志は黄河流域の黄色っぽい風景を指さして、しみじめと言った。
(略)
9月6日(旧8月2日)の夜、蘭州道の林則徐の宿舎で、三人 (連維材、王挙志、林則徐)はテーブルを囲んだ。
(略)
連維材は気を取り直したように言った。―
「しかし、わが国はひろいですね。こんどの旅行でつくづくそう思いました。ここにいると、広州のことなど、まるで夢のようです」
台湾に統文、香港に承文、上海に理文。―それぞれ遠く離れている。怒濤の時代に立ち向かう若い人たちのことを思い、連維材は老いをかんじた。
話し合っているあいだに、三人はだいぶ酒をのんだ。三人とも酒が好きであった。
「時代がかわります」
と、王挙志が言った。
(略)
三人ともわかっていた。―
この三人がそれぞれちがった道にはいって、新しい時代を迎える。―いや、新しい時代をつくろうとするだろうことを。
21世紀の2018年。中国発の「新しい時代」が続きます。
一帯一路で東西を結ぶ21世紀のシルクロード。
ブラジルを加えた新興国BRICSの21世紀の跳躍。
南蛮の足跡マカオ世界文化遺産 (2005年登録)。
2018/01/20 18:10:00 『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (5)
- マカオのニュース
- 住田 育法
京都外国語大学にブラジルポルトガル語学科が創設された1967年に、『阿片戦争 (上) 滄海篇』と『阿片戦争 (中) 風雷篇』が11月に、『阿片戦争 (下) 天涯篇』が12月に刊行されました。私は過去、学生のころ、これを近所の貸本屋さんで借りて読みました。ベトナム戦争のころでした。その後、1973年に同じく3分冊で文庫本が発行され、私の本棚の隅に、上巻のみがありました。そして、今回、2015年に4分冊で新装版『阿片戦争 (一)』、『阿片戦争 (二)』、『阿片戦争 (三)』、『阿片戦争 (四)』が発行されていますので、これを購入して、読んでいます。
『阿片戦争』では残酷な戦場の場面が詳細に描かれています。死を恐れない、勇敢な猛将、関天培の最期は壮絶です。『阿片戦争 (三)』第五部の「戦旗墜つ」の場面です。
上陸した英軍は、むやみに小銃を撃ちながら、砲台をかけめぐっている。
関天培は軍刀の柄に唾をかけて、肩を怒らせた。
(略)
「よし!」
彼は大きくうなずいて、司令官の建物まで行き、その壁に自分の背をあずけた。
「死ぬにもつっかい棒が要る」
彼は笑った。
英兵の赤い帽子や金モールつきの軍服が、石垣や階段のまがり角にちらつきはじめた。
司令部の壁に、パシッパシッと、銃弾のはじける音がした。それにまじって鈍い音もきこえるが、おそらく泥塗りの脆 (もろ)いところに、弾ががめりこむのであろう。
(略)
関提督らしい高級将校の死体が指令部のまえで発見されたというしらせは、たちまち上陸英軍ぜんたいに伝わった。
関天培が闘って死ぬ場面は中国映画の締めくくりの場面でも見せています。音声スペイン語版です。しかし私は、以下のような平和な場面が好きです。もう一度、蓮維材の愛人、西玲 (シーリン)を陳舜臣の語りで味わってみましょう。
『阿片戦争 (四)』第五部
「小康」
西玲 (シーリン)は自分がなにをしているかわからなかった。
頬に血のひびきをかんじた。逞しい男の胸の鼓動である。それは、なじみぶかいリズムだった。
(連維材の胸だわ......)
蓮維材に抱かれているのだ。どうして?それがわからない。
三元里の夜が明けたことは、かすかにおぼえている。じっとしていたのか、それとも歩きまわったのか?からだの疲れ工合からすると、一と晩じゅう歩いたのかもしれない。
(略)
― そして、乾いたからだに、なにもつけていないのである。
「気がついたね?」
と、蓮維材がきいた。
西玲は男の胸から顔をはなし、まぶしそうに見上げた。
彼女はこくりとうなずいた。
今回とくに、マカオについての記述を興味深くながめています。新装版『阿片戦争 (三)』から『阿片戦争 (四)』に続く第五部では、マカオということばの登場は少なく、わずかに 16 でした。マカオが阿片戦争の戦場にはならなかったためでしょうが、陳舜臣の世界に浸りながら、平和な異種族混淆のマカオ空間の知的散策を楽しんでいます。
第五部
「奇襲の夜」
西玲のからだには、二つの民族の血が流れている。中国人として育ったが、貿易港の広州や外国人の多いマカオで暮らしてきた。彼女はつねに、どっちつかずの位置にいた。
マカオは、中国への復帰後の2005年に、東洋と西洋の文化が融合・共存してきた歴史地区が、ユネスコの世界遺産に登録されます。この東西文化の出会いが、19世紀の阿片戦争のときにも、マカオで起こっていました。さらに香港はイギリスの植民地となりますが、マカオはポルトガルの植民地としてではなく、居住と交易の許可を与えられた永久居留地として、阿片戦争以後も歴史を紡ぎました。その食文化のひとつが混ざり合いの文化の果実「アフリカンチキン (写真)」です。
さらに21世紀の今、中国返還後の香港とマカオをつなぐ巨大な港珠澳大橋 (Hong Kong–Zhuhai–Macau Bridge) (写真) が完成します。これもまさに、平和な交流の姿の反映でしょう。
第五部の最後の「小康」に、中国の林則徐 (写真) が敗戦の責任をとって新疆 (シンキョウ) へ流され、イギリスのチャールズ・エリオットも、国家よりも商人の利益を優先したと判断されてロンドンのポーマストン外相によって罷免されます。
『阿片戦争』では残酷な戦場の場面が詳細に描かれています。死を恐れない、勇敢な猛将、関天培の最期は壮絶です。『阿片戦争 (三)』第五部の「戦旗墜つ」の場面です。
上陸した英軍は、むやみに小銃を撃ちながら、砲台をかけめぐっている。
関天培は軍刀の柄に唾をかけて、肩を怒らせた。
(略)
「よし!」
彼は大きくうなずいて、司令官の建物まで行き、その壁に自分の背をあずけた。
「死ぬにもつっかい棒が要る」
彼は笑った。
英兵の赤い帽子や金モールつきの軍服が、石垣や階段のまがり角にちらつきはじめた。
司令部の壁に、パシッパシッと、銃弾のはじける音がした。それにまじって鈍い音もきこえるが、おそらく泥塗りの脆 (もろ)いところに、弾ががめりこむのであろう。
(略)
関提督らしい高級将校の死体が指令部のまえで発見されたというしらせは、たちまち上陸英軍ぜんたいに伝わった。
関天培が闘って死ぬ場面は中国映画の締めくくりの場面でも見せています。音声スペイン語版です。しかし私は、以下のような平和な場面が好きです。もう一度、蓮維材の愛人、西玲 (シーリン)を陳舜臣の語りで味わってみましょう。
『阿片戦争 (四)』第五部
「小康」
西玲 (シーリン)は自分がなにをしているかわからなかった。
頬に血のひびきをかんじた。逞しい男の胸の鼓動である。それは、なじみぶかいリズムだった。
(連維材の胸だわ......)
蓮維材に抱かれているのだ。どうして?それがわからない。
三元里の夜が明けたことは、かすかにおぼえている。じっとしていたのか、それとも歩きまわったのか?からだの疲れ工合からすると、一と晩じゅう歩いたのかもしれない。
(略)
― そして、乾いたからだに、なにもつけていないのである。
「気がついたね?」
と、蓮維材がきいた。
西玲は男の胸から顔をはなし、まぶしそうに見上げた。
彼女はこくりとうなずいた。
今回とくに、マカオについての記述を興味深くながめています。新装版『阿片戦争 (三)』から『阿片戦争 (四)』に続く第五部では、マカオということばの登場は少なく、わずかに 16 でした。マカオが阿片戦争の戦場にはならなかったためでしょうが、陳舜臣の世界に浸りながら、平和な異種族混淆のマカオ空間の知的散策を楽しんでいます。
第五部
「奇襲の夜」
西玲のからだには、二つの民族の血が流れている。中国人として育ったが、貿易港の広州や外国人の多いマカオで暮らしてきた。彼女はつねに、どっちつかずの位置にいた。
マカオは、中国への復帰後の2005年に、東洋と西洋の文化が融合・共存してきた歴史地区が、ユネスコの世界遺産に登録されます。この東西文化の出会いが、19世紀の阿片戦争のときにも、マカオで起こっていました。さらに香港はイギリスの植民地となりますが、マカオはポルトガルの植民地としてではなく、居住と交易の許可を与えられた永久居留地として、阿片戦争以後も歴史を紡ぎました。その食文化のひとつが混ざり合いの文化の果実「アフリカンチキン (写真)」です。
さらに21世紀の今、中国返還後の香港とマカオをつなぐ巨大な港珠澳大橋 (Hong Kong–Zhuhai–Macau Bridge) (写真) が完成します。これもまさに、平和な交流の姿の反映でしょう。
第五部の最後の「小康」に、中国の林則徐 (写真) が敗戦の責任をとって新疆 (シンキョウ) へ流され、イギリスのチャールズ・エリオットも、国家よりも商人の利益を優先したと判断されてロンドンのポーマストン外相によって罷免されます。