ポルトガルのニュース
2017/03/09 20:40:00 南蛮空間、京都を歩く(1)
- ポルトガルのニュース
- 住田 育法
京都は南蛮、とくにポルトガルの古い歴史の香りを楽しめる街です。
そこで バスや電車などの無かった南蛮時代の人びとのように、この街をひたすら二本の足で歩いてみましょう。
まず、古代「風水」の龍の頭、もしくは「四神」の玄武にあたると説かれる、北区船岡山の辺りを出発点として、南東に向けて歩きましょう。船岡山には南蛮キリシタンを保護した信長を祀る建勲神社がありますが、山麓を背に、西陣と堀川を越えます。そして、京都御所の西、上京区油小路通元誓願寺西南角にやってきました。蹴鞠の守護神を祀る白峯神宮のすぐ南です。
そこに以下の内容の案内版があります。
此付近慶長天主堂跡 (このふきんけいちょうてんしゅどうあと)
この付近に、慶長九年 (1604) 頃に復興されたヤソ会の天主堂教会があった。京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正十五年 (1587) 豊臣秀吉が宣教師追放令をしき、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。
関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天主堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行われた。付近には学校も設けられた。
しかし慶長十七年 (1612) 、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われてしまった。慶長天主堂が立ったのは、十年に足りない期間であった。 京都市
慶長9年の1604年は、フランシスコ・ザビエル(1506 - 52年)が入洛した天文18年の1550年から54年目です。ポルトガルは1580年にスペインに併合され、1582年には本能寺の変で信長も自害しています。遙か413年の昔に、この油小路通元誓願寺付近の空間に南蛮キリシタンの日常が存在していたのです。
この場所から東に歩き、京都御苑の手前で烏丸通りを下がります。途中、旧二条城跡を抜けます。それはちょうど、京都の<東西の通り名の唄>の丸太町通りから蛸薬師通りに至る空間です。
まる:丸太町通り
たけ:竹屋町通り
えびす:夷川通り
に:二条通り
おし:押小路通り
おいけ:御池通り
あね:姉小路通り
さん:三条通り
ろっかく:六角通り
たこ:蛸薬師通り
にしき:錦小路通り
この中京区蛸薬師通室町西入に着きました。するとここには、以下の内容の南蛮寺跡の案内があります。
此付近南蛮寺跡 (このふきんなんばんじあと)
織田信長の時代に、耶蘇 (ヤソ)会 (イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった「南蛮寺」は、この北側、姥柳町 (うばやなぎちょう) の辺りにあったといわれている。
戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄 (えいろく) 二年 (1559) から本格化し、永禄四年 (1561) にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害に逢 (あ) いながらも、宣教師は布教に努め、織田信長の保護もあって信者は増加した。天正四年 (1576)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝 (むらいさだかつ) の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、七月十六日に献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では珊太満利亜(さんたまりあ)上人(じょうじん)の寺とも呼ばれた。
しかし、天正十五年 (1587) 六月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地に復興されなかった。 京都市
当時を略年表で確認してみましょう。
1549年 ザビエル薩摩に上陸。
1550年 ザビエル入洛。ザビエル離京。ビレラ将軍に謁見。
1559年 京都でのキリスト教布教本格化
1560年 ビレラ将軍に謁見、布教の許可を得る。
1561年 京都最初の礼拝堂建設。
1576年 礼拝堂再建。
1578年 ポルトガル王セバスティアン戦死。
1580年 スペイン国王、ポルトガル王位を継承し併合。
1582年 本能寺の変、信長自害。
1587年 豊臣秀吉、宣教師追放令をしき、弾圧
1596年 宣教師・信者に対する大規模な迫害始まる。
中京区蛸薬師通室町西入の南蛮寺は京都におけるキリスト教布教が盛んであった時代の1つの証となっています。
そこで バスや電車などの無かった南蛮時代の人びとのように、この街をひたすら二本の足で歩いてみましょう。
まず、古代「風水」の龍の頭、もしくは「四神」の玄武にあたると説かれる、北区船岡山の辺りを出発点として、南東に向けて歩きましょう。船岡山には南蛮キリシタンを保護した信長を祀る建勲神社がありますが、山麓を背に、西陣と堀川を越えます。そして、京都御所の西、上京区油小路通元誓願寺西南角にやってきました。蹴鞠の守護神を祀る白峯神宮のすぐ南です。
そこに以下の内容の案内版があります。
此付近慶長天主堂跡 (このふきんけいちょうてんしゅどうあと)
この付近に、慶長九年 (1604) 頃に復興されたヤソ会の天主堂教会があった。京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正十五年 (1587) 豊臣秀吉が宣教師追放令をしき、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。
関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天主堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行われた。付近には学校も設けられた。
しかし慶長十七年 (1612) 、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われてしまった。慶長天主堂が立ったのは、十年に足りない期間であった。 京都市
慶長9年の1604年は、フランシスコ・ザビエル(1506 - 52年)が入洛した天文18年の1550年から54年目です。ポルトガルは1580年にスペインに併合され、1582年には本能寺の変で信長も自害しています。遙か413年の昔に、この油小路通元誓願寺付近の空間に南蛮キリシタンの日常が存在していたのです。
この場所から東に歩き、京都御苑の手前で烏丸通りを下がります。途中、旧二条城跡を抜けます。それはちょうど、京都の<東西の通り名の唄>の丸太町通りから蛸薬師通りに至る空間です。
まる:丸太町通り
たけ:竹屋町通り
えびす:夷川通り
に:二条通り
おし:押小路通り
おいけ:御池通り
あね:姉小路通り
さん:三条通り
ろっかく:六角通り
たこ:蛸薬師通り
にしき:錦小路通り
この中京区蛸薬師通室町西入に着きました。するとここには、以下の内容の南蛮寺跡の案内があります。
此付近南蛮寺跡 (このふきんなんばんじあと)
織田信長の時代に、耶蘇 (ヤソ)会 (イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった「南蛮寺」は、この北側、姥柳町 (うばやなぎちょう) の辺りにあったといわれている。
戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄 (えいろく) 二年 (1559) から本格化し、永禄四年 (1561) にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害に逢 (あ) いながらも、宣教師は布教に努め、織田信長の保護もあって信者は増加した。天正四年 (1576)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝 (むらいさだかつ) の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、七月十六日に献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では珊太満利亜(さんたまりあ)上人(じょうじん)の寺とも呼ばれた。
しかし、天正十五年 (1587) 六月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地に復興されなかった。 京都市
当時を略年表で確認してみましょう。
1549年 ザビエル薩摩に上陸。
1550年 ザビエル入洛。ザビエル離京。ビレラ将軍に謁見。
1559年 京都でのキリスト教布教本格化
1560年 ビレラ将軍に謁見、布教の許可を得る。
1561年 京都最初の礼拝堂建設。
1576年 礼拝堂再建。
1578年 ポルトガル王セバスティアン戦死。
1580年 スペイン国王、ポルトガル王位を継承し併合。
1582年 本能寺の変、信長自害。
1587年 豊臣秀吉、宣教師追放令をしき、弾圧
1596年 宣教師・信者に対する大規模な迫害始まる。
中京区蛸薬師通室町西入の南蛮寺は京都におけるキリスト教布教が盛んであった時代の1つの証となっています。
2017/02/21 10:10:00 CPLPを知っていますか(3)
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ポルトガル語圏諸国共同体CPLPの民族や文化について考えてみましょう。
この加盟9か国の民族や文化の繋がりを理解するためのキーワードは、「異種族混淆」と「多様性」です。ブラジルの歴史家のセルジオ・ブアルケ・デ・オランダがその著『真心と冒険―ラテン的世界―』でポルトガル人を「真心と冒険の民」と表現しますが、これが、ポルトガル語圏の「異種族混淆」の社会を形成するのです。
「異種族混淆」はポルトガル語ではmiscigenaçãoを用います。先住民、黒人、白人が混ざり合ったブラジルの混血社会を意味します。理論としては、社会人類学者のジルベルト・フレイレが名著『大邸宅と奴隷小屋』で論じたことに重なります。これは1930年代の研究書ですが、近年では、ダルシー・リベイロが『ブラジル人』で民族の混淆として説明しています。
ポルトガル語圏の人口の8割を超えるブラジルは、混淆によって誕生した寛容の民の国ですが、そのメリットは、違いを認める多様性 diversidade への理解です。そのルーツがヨーロッパのポルトガルにあるのです。
このように2億を超えて、人口数でCPLPをリードするブラジルは、移民の国ですから、その民族は、欧州系(約48%)、アフリカ系(約8%)、東洋系(約1.1%)、混血(約43%)、先住民(約0.4%)(ブラジル地理統計院、2010年)です。言語はポルトガル語です。宗教はカトリック約65%、プロテスタント約22%、無宗教8%(ブラジル地理統計院、2010年)です。
一方、植民地時代の宗主国であったヨーロッパのポルトガルの言語は、もちろんポルトガル語、宗教はカトリック教徒が圧倒的多数を占めています。しかし、人口はブラジルの二十分の一以下です。この現実が、異種族混淆の真心のある寛容なCPLPを育てたのです。
アフリカ のアンゴラの民族 (地図参照)は、バントゥー系民族に属するオヴィンブンドゥ族(37%)、キンブンドゥ族(25%)、バコンゴ族(15%)などです。言語はポルトガル語が公用語、その他ウンブンドゥ語などが用いられます。宗教はアフリカの在来宗教(47%)、(38%)、プロテスタント(15%)です。
カーボヴェルデの民族はポルトガル人とアフリカ人の混血が約70%。言語はポルトガル語(公用語)、クレオール語です。宗教は、キリスト教(カトリック)
です。
ギニアビサウの民族は、バランタ、フラ、マンジャカ、マンディンカ、パペウなどです。言語はポルトガル語が公用語、宗教は原始宗教とイスラム教、キリスト教です。
モザンビークの民族 (地図参照)は、マクア・ロムウェ族など43部族からなります。言語はポルトガル語、宗教はキリスト教(41%)、イスラム教(17.8%)、原始宗教です。
サントメ・プリンシペの民族はバンツー系及びポルトガル人との混血です。言語はポルトガル語、宗教はキリスト教です。現在のCPLPの事務総長がこの国の人です。
赤道ギニアの民族は、ファン族、ブビ族、コンベ族、ベレンゲ族など、言語はスペイン語(公用語)、仏語(第2公用語)、ポルトガル語(第3公用語)、ファン語、ブビ語です。宗教はキリスト教(99%)と伝統宗教です。
最後に、アジアの東ティモールの民族は、テトゥン族等大半がメラネシア系。その他マレー系、中華系等、ポルトガル系を主体とする欧州人及びその混血などです。言語は、国語がテトゥン語及びポルトガル語です。実用語に、インドネシア語及び英語。その他多数の部族語が使用されています。宗教はキリスト教99.1%(大半がカトリック)、イスラム教0.79%です。
この加盟9か国の民族や文化の繋がりを理解するためのキーワードは、「異種族混淆」と「多様性」です。ブラジルの歴史家のセルジオ・ブアルケ・デ・オランダがその著『真心と冒険―ラテン的世界―』でポルトガル人を「真心と冒険の民」と表現しますが、これが、ポルトガル語圏の「異種族混淆」の社会を形成するのです。
「異種族混淆」はポルトガル語ではmiscigenaçãoを用います。先住民、黒人、白人が混ざり合ったブラジルの混血社会を意味します。理論としては、社会人類学者のジルベルト・フレイレが名著『大邸宅と奴隷小屋』で論じたことに重なります。これは1930年代の研究書ですが、近年では、ダルシー・リベイロが『ブラジル人』で民族の混淆として説明しています。
ポルトガル語圏の人口の8割を超えるブラジルは、混淆によって誕生した寛容の民の国ですが、そのメリットは、違いを認める多様性 diversidade への理解です。そのルーツがヨーロッパのポルトガルにあるのです。
このように2億を超えて、人口数でCPLPをリードするブラジルは、移民の国ですから、その民族は、欧州系(約48%)、アフリカ系(約8%)、東洋系(約1.1%)、混血(約43%)、先住民(約0.4%)(ブラジル地理統計院、2010年)です。言語はポルトガル語です。宗教はカトリック約65%、プロテスタント約22%、無宗教8%(ブラジル地理統計院、2010年)です。
一方、植民地時代の宗主国であったヨーロッパのポルトガルの言語は、もちろんポルトガル語、宗教はカトリック教徒が圧倒的多数を占めています。しかし、人口はブラジルの二十分の一以下です。この現実が、異種族混淆の真心のある寛容なCPLPを育てたのです。
アフリカ のアンゴラの民族 (地図参照)は、バントゥー系民族に属するオヴィンブンドゥ族(37%)、キンブンドゥ族(25%)、バコンゴ族(15%)などです。言語はポルトガル語が公用語、その他ウンブンドゥ語などが用いられます。宗教はアフリカの在来宗教(47%)、(38%)、プロテスタント(15%)です。
カーボヴェルデの民族はポルトガル人とアフリカ人の混血が約70%。言語はポルトガル語(公用語)、クレオール語です。宗教は、キリスト教(カトリック)
です。
ギニアビサウの民族は、バランタ、フラ、マンジャカ、マンディンカ、パペウなどです。言語はポルトガル語が公用語、宗教は原始宗教とイスラム教、キリスト教です。
モザンビークの民族 (地図参照)は、マクア・ロムウェ族など43部族からなります。言語はポルトガル語、宗教はキリスト教(41%)、イスラム教(17.8%)、原始宗教です。
サントメ・プリンシペの民族はバンツー系及びポルトガル人との混血です。言語はポルトガル語、宗教はキリスト教です。現在のCPLPの事務総長がこの国の人です。
赤道ギニアの民族は、ファン族、ブビ族、コンベ族、ベレンゲ族など、言語はスペイン語(公用語)、仏語(第2公用語)、ポルトガル語(第3公用語)、ファン語、ブビ語です。宗教はキリスト教(99%)と伝統宗教です。
最後に、アジアの東ティモールの民族は、テトゥン族等大半がメラネシア系。その他マレー系、中華系等、ポルトガル系を主体とする欧州人及びその混血などです。言語は、国語がテトゥン語及びポルトガル語です。実用語に、インドネシア語及び英語。その他多数の部族語が使用されています。宗教はキリスト教99.1%(大半がカトリック)、イスラム教0.79%です。
2017/02/17 03:10:00 CPLPを知っていますか(2)
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- 住田 育法
大西洋を挟んだアフリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカのポルトガル語圏に注目してみましょう。
CPLP加盟の9か国のうち、アジアの東ティモールを除く8か国が、大西洋を挟んだアフリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカに位置しています(地図を参照)。さらに興味深いのは、ヨーロッパを除くすべてのポルトガル語圏のアンゴラ、ブラジル、カーボヴェルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、サントメ・プリンシペ、赤道ギニア、そして東ティモールが、北回線と南回帰線の間の「熱帯」に属しています。世界地図の青い部分のAfが熱帯雨林気候、Amが熱帯モンスーン気候、Awがサバナ気候です。
これら熱帯の国々の産業を確認しましょう。
アンゴラの主要産業は、鉱業は石油、ダイヤモンド、農業はとうもろこし、フェイジョン豆、砂糖、コーヒー、サイザル麻です。人口は2,214万人(2014年)。
ブラジルの主要産業は、製造業をはじめとして、鉱業は鉄鉱石など、農牧業は砂糖、オレンジ、コーヒー、大豆などです。人口は2億784万人(2015年)。
カーボヴェルデはバナナ,サトウキビです。人口は52.1万人(2015年)。
ギニアビサウは落花生、カシューナッツです。人口は184万人(2015年)。
モザンビークの産業は、農林業がとうもろこし、砂糖、カシューナッツ、綿花、たばこ、丸太・木材、漁業がエビ、鉱工業がアルミ、石炭、天然ガです。人口は2,722万人(2014年)。
サントメ・プリンシペはカカオ豆です。人口は19万人(2015年)。
赤道ギニアはココアが主要産業でしたが、1992年に石油・天然ガス生産が開始されて以来、石油が主要輸出品となっています。人口は90万人(2016年)。
東ティモールの主要産業は、農業は、コメ、とうもろこし、イモ類、ココナッツなど、輸出用作物としては特にコーヒー。人口は118.3万人(2015年)。
大航海時代に、アフリカに面したイベリア半島のポルトガルが熱帯の土地を「発見」し、その豊かな産物を世界に伝えました。アボガドやピーナッツ、バニラ、グアバ、トマトは中米原産、パイナップルやカジューは南米、チョコレートの原料のカカオはカリブ海に面した南米、パッションフルーツは中南米、パパイアがアンデス地域の原産と伝えられています。
興味深いのは、現在ではブラジルを代表するバナナやココヤシ、マンゴー、サトウキビの原産地が、実際には東南アジアだということです。つまりポルトガル人は大航海時代に、新世界の産物を旧世界へ、旧世界の産物を新世界へ運んだのです。植物のみではなく、家畜などの動物も、そして人も運び、接触させ、発展させたのです。
CPLPの本部はリスボンにありますが、創設20周年の2016年にブラジルで首脳会談が開催され、新しいCPLPの事務総長にサントメ・プリンシペの元首相が選出されました。
CPLP加盟の9か国のうち、アジアの東ティモールを除く8か国が、大西洋を挟んだアフリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカに位置しています(地図を参照)。さらに興味深いのは、ヨーロッパを除くすべてのポルトガル語圏のアンゴラ、ブラジル、カーボヴェルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、サントメ・プリンシペ、赤道ギニア、そして東ティモールが、北回線と南回帰線の間の「熱帯」に属しています。世界地図の青い部分のAfが熱帯雨林気候、Amが熱帯モンスーン気候、Awがサバナ気候です。
これら熱帯の国々の産業を確認しましょう。
アンゴラの主要産業は、鉱業は石油、ダイヤモンド、農業はとうもろこし、フェイジョン豆、砂糖、コーヒー、サイザル麻です。人口は2,214万人(2014年)。
ブラジルの主要産業は、製造業をはじめとして、鉱業は鉄鉱石など、農牧業は砂糖、オレンジ、コーヒー、大豆などです。人口は2億784万人(2015年)。
カーボヴェルデはバナナ,サトウキビです。人口は52.1万人(2015年)。
ギニアビサウは落花生、カシューナッツです。人口は184万人(2015年)。
モザンビークの産業は、農林業がとうもろこし、砂糖、カシューナッツ、綿花、たばこ、丸太・木材、漁業がエビ、鉱工業がアルミ、石炭、天然ガです。人口は2,722万人(2014年)。
サントメ・プリンシペはカカオ豆です。人口は19万人(2015年)。
赤道ギニアはココアが主要産業でしたが、1992年に石油・天然ガス生産が開始されて以来、石油が主要輸出品となっています。人口は90万人(2016年)。
東ティモールの主要産業は、農業は、コメ、とうもろこし、イモ類、ココナッツなど、輸出用作物としては特にコーヒー。人口は118.3万人(2015年)。
大航海時代に、アフリカに面したイベリア半島のポルトガルが熱帯の土地を「発見」し、その豊かな産物を世界に伝えました。アボガドやピーナッツ、バニラ、グアバ、トマトは中米原産、パイナップルやカジューは南米、チョコレートの原料のカカオはカリブ海に面した南米、パッションフルーツは中南米、パパイアがアンデス地域の原産と伝えられています。
興味深いのは、現在ではブラジルを代表するバナナやココヤシ、マンゴー、サトウキビの原産地が、実際には東南アジアだということです。つまりポルトガル人は大航海時代に、新世界の産物を旧世界へ、旧世界の産物を新世界へ運んだのです。植物のみではなく、家畜などの動物も、そして人も運び、接触させ、発展させたのです。
CPLPの本部はリスボンにありますが、創設20周年の2016年にブラジルで首脳会談が開催され、新しいCPLPの事務総長にサントメ・プリンシペの元首相が選出されました。
2017/02/16 17:20:00 CPLPを知っていますか(1)
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CPLPはポルトガル語の Comunidade dos Países de Língua Portuguesa の略語です。ポルトガル語圏諸国共同体と訳しています。加盟国はポルトガル語圏の9か国です。
アンゴラ、ブラジル、カーボヴェルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、ポルトガル、サントメ・プリンシペ、東ティモール,赤道ギニア
オブザーバーは日本を加えて、非ポルトガル語圏6か国です。
日本、ジョージア、モーリシャス、ナミビア、セネガル、トルコ、ハンガリー、スロバキア、チェコ、ウルグアイ
日本の外務省によれば、日本の取組は次のとおりです。
2014年5月、安倍総理大臣が、現職の総理大臣として史上初めてポルトガルを訪問した際、日本のCPLPへのオブザーバー参加申請の意向を表明し、同年,7月のCPLPサミットにて、日本のオブザーバー参加が全会一致で承認されました。日本のオブザーバー参加を通じて、民主化、経済成長、開発協力等幅広い分野においてCPLPメンバー国との更なる協力が期待されます。2015年3月にポルトガルのコエリョ首相は来日に際して「日本がポルトガル語圏諸国共同体(CPLP)の会合にオブザーバーとして参加する方針も歓迎」し、日本は「ブラジルを含む2億2千万人の同国語圏に発信する機会を広げる狙い」であると紹介されました。
設立の経緯は以下のとおりです。
1996年、ポルトガルの首都リスボンでサミット開催、CPLPを正式に設立。今から20年前でした。
1989年、サルネイ・ブラジル大統領 (当時) の呼びかけにより、ポルトガル語圏諸国の元首が設立に合意。各加盟国が持ち回りで2年に1度、首脳会談を開催。閣僚 (外相) 会合は毎年開催。
世界のポルトガル語の話者数は、約2億3千万人です。近年は、ブラジル、アンゴラ、モザンビーク、東ティモールなどの目覚ましい経済成長と資源に対する関心の高まりとともに、CPLPの国際社会での存在感も高まりつつあり、特にアフリカでの影響力を強めています。
活動例
① 開発協力(警察・司法、医療、教育など)、
② 民主化への相互協力、
③ 大学間交流、文化事業、
④ 査証・移民問題への取組、
⑤ 加盟国の接点を活かした民間企業の対外進出促進支援。
ブラジルはBRICSで世界と繋がり、ポルトガルはEUでヨーロッパに加わっています。この両者がCPLPで積極的に働くことで、ポルトガル語圏がグローバルなプレゼンスを高めていると言えましょう。
アンゴラ、ブラジル、カーボヴェルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、ポルトガル、サントメ・プリンシペ、東ティモール,赤道ギニア
オブザーバーは日本を加えて、非ポルトガル語圏6か国です。
日本、ジョージア、モーリシャス、ナミビア、セネガル、トルコ、ハンガリー、スロバキア、チェコ、ウルグアイ
日本の外務省によれば、日本の取組は次のとおりです。
2014年5月、安倍総理大臣が、現職の総理大臣として史上初めてポルトガルを訪問した際、日本のCPLPへのオブザーバー参加申請の意向を表明し、同年,7月のCPLPサミットにて、日本のオブザーバー参加が全会一致で承認されました。日本のオブザーバー参加を通じて、民主化、経済成長、開発協力等幅広い分野においてCPLPメンバー国との更なる協力が期待されます。2015年3月にポルトガルのコエリョ首相は来日に際して「日本がポルトガル語圏諸国共同体(CPLP)の会合にオブザーバーとして参加する方針も歓迎」し、日本は「ブラジルを含む2億2千万人の同国語圏に発信する機会を広げる狙い」であると紹介されました。
設立の経緯は以下のとおりです。
1996年、ポルトガルの首都リスボンでサミット開催、CPLPを正式に設立。今から20年前でした。
1989年、サルネイ・ブラジル大統領 (当時) の呼びかけにより、ポルトガル語圏諸国の元首が設立に合意。各加盟国が持ち回りで2年に1度、首脳会談を開催。閣僚 (外相) 会合は毎年開催。
世界のポルトガル語の話者数は、約2億3千万人です。近年は、ブラジル、アンゴラ、モザンビーク、東ティモールなどの目覚ましい経済成長と資源に対する関心の高まりとともに、CPLPの国際社会での存在感も高まりつつあり、特にアフリカでの影響力を強めています。
活動例
① 開発協力(警察・司法、医療、教育など)、
② 民主化への相互協力、
③ 大学間交流、文化事業、
④ 査証・移民問題への取組、
⑤ 加盟国の接点を活かした民間企業の対外進出促進支援。
ブラジルはBRICSで世界と繋がり、ポルトガルはEUでヨーロッパに加わっています。この両者がCPLPで積極的に働くことで、ポルトガル語圏がグローバルなプレゼンスを高めていると言えましょう。
2016/12/16 17:40:00 カモンイス院の国際文化活動(2)
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ポルトガルの彩色タイル―アズレージョへの誘い
ポルトガルの首都リスボン彩色タイル名所上位10選
1. アズレージョ博物館
1500年代の壮大な建物に囲まれたこの博物館は、15世紀から現在までの芸術とタイルの成果を展示しています。
2. フロンテイラ侯宮殿
この宮殿の卓越したタイルコレクションのほとんどは、1660年から1670年の間に建てられたもので、内装の多くと印象的な庭園の外側を覆っています。
3. サンヴィセンテ・デ・フォーラ修道院
この修道院は、ラ・フォンテーヌの寓話を示す38のパネルからなる好奇心が強い一連のバロック・タイルの世界的コレクションをもっています。
4. サンターナ工場
それは、国の主要工場(1741年に設立された)の1つで、訪問することができ、手塗りのプロセスにおいてアーティストを見ることができます。
5. ラメーゴ未亡人工場
ラメーゴ未亡人工場は、リスボンとその周辺にある無数のタイルの大部分を生産しています。
6. カルダス修道院
この修道院は、1692年に建てられた11の比喩的な青と白のタイルの重要な作品群を所有しています。
7. シントラ国立宮殿
これは世界で数少ない現存している中世王室宮殿の一つであり、ヨーロッパにおいてはスペインのセヴィーリャからのスペイン系アラブスタイルの最大のコレクションを擁しています。
8. ピメンタ宮殿
18世紀に建てられたピメンタ宮殿は現在リスボン博物館の一部であり、青と白のタイルが主に並んでいます。
9. ケルース国立宮殿
この宮殿は、美しい庭園とロココ建築で最もよく知られていますが、ひときわ目立つタイル張りのアトラクションもあります。 それは1756年に青と白のパネルで装飾されたタイルの運河です。
10. 商店
リスボン市のさまざまなタイルショップを訪れると、オリジナルの作品や複製品をさまざまな価格で提供しています。
ポルトガル政府のポルトガルの言語・文化普及機関カモンイス院が提供しているネットサービスを紹介します。
このサイトから、ポルトガルの彩色タイルの歴史を知ることができます。