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ポルトガルのニュース

2017/06/29 11:50:00 南蛮空間、京都を歩く (6)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 歴史の真実は、文献からではなく、実際に歩いてはじめて理解できることがよくあります。今回、御所東の史跡御土居址を歩いて、それを実感しました。夏至を過ぎた梅雨曇りの午後、雨傘を片手に、鴨川沿いを下がって目的地の廬山 (ろざん) 寺へ向かいました。
 
 御所東の寺の墓所に、くだんの御土居址があります。気が付いたのは、その御土居は京都の洛中、特に御所を守るためには、その場所があまりに西に位置しているということでした。そして、さらに現在は広くなった堀川通りを越えて西へ歩くと、そこには聚楽第跡地があるのです。

 要するに、外敵の襲来に備える防塁と川の氾濫から都を守る堤防として豊臣秀吉が築かせたといわれる御土居は、御所東の場合、その役目を果たすものではなかったと想像できるのです。敵が東から攻めてくるとき、すぐに御所に達することができるでしょう。また、鴨川の水があふれた場合、御土居を越えて濁流は御所に流れ込むでしょう。

 防塁や堤防のためではなく、豊臣秀吉が指導者としての威光を入洛者に見せつけるための、聚楽第を囲う「城壁」であったと理解できます。今の南北の堀川通りが、聚楽第と御所の間に位置する当時の「大路」であったのでしょう。北の御土居を越えたその先には、平安京の「神山 (こうやま)」が今もそびえています。

 改めて、京都における「南蛮」の軌跡を、略年表で確認してみましょう。

 1550年 ザビエル入洛。ザビエル離京。ビレラ、将軍に謁見。
 1559年 京都でのキリスト教布教本格化。
 1561年 京都最初の礼拝堂建設。
 1576年 礼拝堂再建。
 1582年 本能寺の変、信長自害。
 1586年 秀吉、豊臣の氏を賜る。聚楽第造営、開始。 
 1587年 聚楽第完成。豊臣秀吉、宣教師追放令。 
 1590年 秀吉、大規模な京都改造事業に着手。
 1591年 秀吉、御土居を築く。
 1596年 宣教師・信者への大規模な迫害始まる。
 1598年 秀吉、死去。

 「南蛮」と呼ばれるポルトガル人が京都に住んだ短い期間、御所西の聚楽第を囲うように御土居が造られ、さらにキリシタンの南蛮寺も、御所の北西や南に建てられて信者を集めていたのでしょう。
 現在の河原町に御土居が築かれていたため、その東の今の先斗 (ぽんと) 町は、ちょうど川に中に位置していたことになります。南蛮との関係は、「南蛮空間、京都を歩く(2)」で書いたように、言葉のみの関わりだったといえます。

 東山の「大文字」をながめながら、鴨川、御土居址、御所、聚楽第跡と、まっすぐ西へ歩いてみましょう。豊臣秀吉の「夢のまた夢」を想いながら。
  • 御所東の廬山 (ろざん) 寺墓所東の御土居址
  • 河原町通りに面した御所東の御土居址
  • 都を囲った史跡御土居址を示した地図 京都府立医科大学創立125周年記念事業実行委員会設置 河原町通り

2017/04/29 08:00:00 南蛮空間、京都を歩く(5)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 南蛮空間を実感するため、はるか426年前に、外敵の襲来に備える防塁と川の氾濫から都を守る堤防として豊臣秀吉が築かせた、御土居を歩きました。

 京都の北区に居住する筆者は、天神川と呼ばれる紙屋川 (かみやがわ) 沿いの小道を、日常の散策に利用しています。今回は、堀川通りを上賀茂まで歩いて北上し、そこから「御土居」巡りを始め、金閣寺のそばの鷹峯 (たかがみね) を越えて、新緑の美しい北野天満宮境内の馬喰町の御土居までたっぷり歩きました。新緑の季節のウォーキングは実に快適です。
 ところで、京都の東を流れる鴨川は上流に遡 (さかのぼ) ると、現在、賀茂川と書きますが、天神川は、平安京のときには西堀河、もしくは柏 (かえ)川と呼ばれ、朝廷が用いた紙を漉 (す) いた紙座があったことから、紙屋川と称されるように。やがて、「天神さん」、つまり菅原道真を祀る北野天満宮の西を流れるので、天神川と。今では、上流から下流まで「天神川」と総称されています。

 御土居には、都の洛中と洛外を区別する役割もあったので、御土居を歩くことは、南蛮屏風 (参照:写真) に描かれた古い歴史の「洛中」を21世紀の今、体験することになります。まさに「土塁」が提供してくれる南蛮空間との出会いです。
 ちなみに、僅かに残る「御土居」のうち,以下の9か所は国指定史跡になっています。

(1)北区鷹峯旧土居町
(2)北区大宮土居町
(3)北区紫竹上長目町・上堀川町
(4)上京区寺町広小路上ル北之辺町(廬山寺内)
(5)中京区西ノ京原町
(6)上京区馬喰町(北野天満宮境内)
(7)北区平野鳥居前町
(8)北区紫野西土居町
(9)北区鷹峯旧土居町

 佛教大学の紫野キャンパス西の北区鷹峯旧土居町に立ててある案内板の説明を以下に紹介しましょう。
 
 史跡 御土居 (おどい)
 京都の「御土居(おどい)」は、天正19年 (1591) 豊臣秀吉が多数の人びとを動員して築いたものである。これより先、戦国乱世の時代に、京都では「町の構 (かまえ)」や「ちゃうのかこい」を築いて、町を自衛する態勢がとられた。また、堺や山科、石山をはじめ各地の寺内町などの都市や村落でも環濠城塞 (かんごうじょうさい) 化する動きがみられ、こうした動きをうけて「御土居」は築かれたが、住民が自衛するための施設ではなかった。
 天下一統をとげた秀吉はながい戦乱で荒れはてた京都を復興し、その近世城下町化をはかったのである。まず聚楽第 (じゅらくだい) を設け、これを中心に街区 (がいく) を改め、寺院を寺町と寺の内に集めた。そして、まわりに濠 (ごう) と土塁 (どるい)をめぐらし洛中 (らくちゅう)と洛外 (らくがい)を分ち、「御土居」に七口を設けて洛外との 交通をここに限ろうとした。秀吉は「刀狩り」の政策に示されるように、民衆の自衛権を否定し、都市を支配し、その権力を示すために「御土居」を築いた。
 (中略)
 ここは「御土居」の西辺の北端に近く、その底部は幅十間、南が「御土居」に設けられた切通 (きりどお) し、中野道になり、西の小道に面して藁葺 (わらぶき) の入母屋造 (いりもやずく)りの鷹ヶ峯番小屋がおかれ、西へなだらかな斜面をなして紙屋川の谷へつながっていた。洛外への見張りの小屋の役目を果たしていたのだろう。史跡公園として整備するにあたり、この番小屋の位置に亭をおいた。わが国に数少ない都市をめぐる城塞 (じょうさい) の史跡として、また日本の都市についてかんがえる場としてこの「御土居」の価値はきわめて高い。史跡公園として、また近隣住民の憩いの場として保存され、活用されることを期待する。                 昭和54年10月 京都市


 最後に京都における「南蛮」の軌跡を、略年表で確認しておきます。

1550年 ザビエル入洛。ザビエル離京。ビレラ、将軍に謁見。
1559年 京都でのキリスト教布教本格化。
1561年 京都最初の礼拝堂建設。
1576年 礼拝堂再建。
1582年 本能寺の変、信長自害。。
1586年 秀吉、豊臣の氏を賜る。聚楽第造営、開始。 
1587年 聚楽第完成。豊臣秀吉、宣教師追放令。 
1590年 秀吉、大規模な京都改造事業に着手。
1591年 秀吉、御土居を築く。
1596年 宣教師・信者への大規模な迫害始まる。
1598年 秀吉、死去。
1603年 長崎版『日葡辞書』日本イエズス会刊行。
1604年 復興されたヤソ会の天主堂教会が京都にあった。
1612年 幕府、キリシタン大弾圧開始、天主堂も焼き払われる。

 それでは、皆さん、天神川西の京都外国語大学のキャンパスでお会いしましょう。アテー・ブレーヴィ (Até breve)!
  • リスボン市の国立古美術館展示の南蛮屏風 「南蛮寺」の様子 筆者撮影。
  • 北野天満宮境内の御土居 (写真右側) 天神川は手前 (南) に下って水量を増し、京都外国語大学キャンパス西を流れています。
  • 北野天満宮境内の御土居の案内板 「青もみじ」の季節に訪問。

2017/03/18 21:20:00 南蛮空間、京都を歩く(4)

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  • Posted by住田 育法
 「だいうす町」と呼ばれた空間と江戸初期のキリシタン殉教の地:

 先斗町南端の「鴨川」に架かる四条大橋の袂 (たもと) の河原を、川の流れにそって以下のように五条大橋まで歩きました。河原の道の途切れる五条大橋のところで橋に登り、これを渡って川端通りを正面橋まで進むと、川端通りに面して「殉教の石碑」があります。元和 (げんな) キリシタン殉教の地です。正面橋とは、通称が「大仏」もしくは「大仏殿」の方広寺 (ほうこうじ) の「正面」のことです。

 鴨川の北から南へ:
 四条大橋 (しじょうおおはし)
 団栗橋  (どんぐりばし)
 松原橋  (まつばらばし)
 五条大橋  (ごじょうおおはし)
 正面橋  (しょうめんばし)
 七条大橋 (ななじょうおおはし)
 
 映画『沈黙』が描く江戸時代のはじめから1619年の元和 (げんな) の弾圧で、信者50名以上がこの辺りの河原で火刑に処されました。川端通りから西に向かって眺める (写真) と「だいうす」つまり神を意味するDeusの名を冠した今日の菊屋町が望めます。この空間に「南蛮」キリシタンの生活があったのです。

 年表で改めて京都の「南蛮」キリシタンの軌跡を確認しておきましょう。

 1549年 ザビエル薩摩に上陸。
 1550年 ザビエル入洛。ザビエル離京。ビレラ将軍に謁見。
 1559年 京都でのキリスト教布教本格化
 1560年 ビレラ将軍に謁見、布教の許可を得る。
 1576年 礼拝堂再建。
 1582年 本能寺の変、信長自害。
 1585年 秀吉、関白職に就く。
 1586年 秀吉、豊臣の氏を賜り太政大臣に就任。聚楽第の造営を開始。 
 1587年 聚楽第完成。秀吉、宣教師追放令をしき、キリシタン弾圧。
 1589年 御所の修復開始。 
 1590年 秀吉は大規模な京都改造事業に着手。甥の秀次に関白職と聚楽第を譲る。
 1591年 秀吉が外敵の侵入に備えて御土居を築く。朝鮮との戦。千利休、切腹。
 1595年 秀吉、秀次の関白を剥奪、自刃の沙汰。聚楽第の破却を命じ、秀次の子らを処断。
 1596年 宣教師・信者に対する大規模な迫害。
 1598年 秀吉、死去。
 1600年 関ヶ原の戦いで石田三成、敗れる。
 1604年 復興されたヤソ会の天主堂教会があった。
 1605年 秀忠、将軍。
 1612年 徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われる
 1613年、2代将軍・徳川秀忠、二度目の「キリシタン禁令」布告。
 1614年 大坂冬の陣。
 1615年 大坂夏の陣で大坂城、落城し、豊臣、滅亡。
 1616年 家康、死去。
 1618年、秀忠、すべての信者の処刑を命じる。
 1619年 元和五年 京都の大殉教では52名処刑。

 元和 (げんな) キリシタン殉教の場所は、東は方広寺、豊国神社、耳塚へと向かい、西は渉成園 (しょうせいえん) = 枳殻邸 (きこくてい)、東本願寺に通じています。浄土真宗という親鸞聖人が民衆の心を救った仏教の地のそばで、江戸時代の「南蛮」キリシタンが神に祈りを捧げていたのです。
  • 正面橋北の川端通りに1994年に建てられた「元和の殉教の碑」
  • 鴨川五条大橋辺りより北を望む
  • 川端通りより「菊屋町」界隈を望む 遠くに京都タワー

2017/03/13 20:10:00 南蛮空間、京都を歩く(3)

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  • Posted by住田 育法
 キリスト教と並んで、南蛮文化として京都の人たちがポルトガル人から受けた影響に、都市空間についての新しい知識があります。

 今から20数年前、マカオに集まったポルトガル人たちと、中国の都市空間についておしゃべりしたことがありました。私が、「散策するのなら、北京よりマカオが良い」と述べると、皆が「北京には街路 (RUA) がない。車道だけ。しかし、上海には街路がある」と説明してくれたことが思い出されます。
 南蛮文化を語るとき、こうした人の営みを重視するヨーロッパ風の都市環境の知識や思想も含まれます。京都も北京と同じく、街路のない、道を馬も荷車も人も通る、雑多な空間であったはずです。ゆっくり風景を楽しみながら散歩するための配慮はなされていなかったでしょう。

 ベンチが置かれた緑地の公園や人のための敷石の舗道などが整備された「南蛮」リスボンなどの街並みのことです。それまでの日本の城にはなかった新しさを取り入れた安土城を建てた信長の後継者秀吉は、京都の都市改造を「南蛮」風に実施しようとしたようです。遠来の異邦の客に「都」の素晴らしさを誇示したい願望があったのでしょう。具体的には、庶民も住む、2階建ての「町家」が展開する住居群と、これを囲む障壁の御土居の建設でした。とくに、それまでの道路に加えて、道路と道路の中間に南北に走る道路を造り、短冊型町割りにして都市空間の有効利用によって街路の商業的発展を促したのです。西陣の町割りは秀吉がつくったと言われています。

 秀吉の都市改造の空間を知るため、今回は西陣を南に向けて歩き、京都御所を含む広い京都御苑の西に造られた聚楽第の空間を実感することにしました。秀吉の好みを知るためです。

 略年表で、秀吉と都市改造について確認しておきましょう。

1585年 秀吉、関白職に就く。
1586年 秀吉、豊臣の氏を賜り太政大臣に就任。聚楽第の造営を開始。 
1587年 聚楽第完成。豊臣秀吉、宣教師追放令をしき、キリシタンを弾圧。
1589年 御所の修復開始。 
1590年 秀吉は大規模な京都改造事業に着手。甥の秀次に関白職と聚楽第を譲る。
1591年 秀吉が外敵の侵入に備えて御土居を築く。朝鮮との戦。千利休、切腹。
1595年 秀吉、秀次の関白を剥奪、自刃の沙汰を下す。聚楽第の破却を命じ、秀次の子らを処断。
1596年 宣教師・信者に対する大規模な迫害始まる。
1598年 秀吉、死去。

 西陣の街並みから一条通りの正親小学校の脇の「この辺り聚楽第跡」の説明の立っている地点まで来ました。南へ向かって土地にくぼみがあるのは、堀の跡でしょうか。丸太町の手前に、以下の説明がありました。
 
 この付近 聚楽第本丸濠跡
 かつてこの一帯には平安時代に平安宮 (大内裏) があったことから「内野」と呼ばれていた。その後、安土桃山時代に平安宮跡北東部分に豊臣秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城があった。
 秀吉は、羽柴秀吉と名乗っていた天正一四年 (1586) に聚楽第の築城を開始し翌一五年に正室の北政所 (おね) 母の大政所とともに大坂城から移り住み政務を執るようになった。その後秀吉と甥で後継者である秀次の二代にわたる関白の城として使われ、豊臣家による洛中支配の象徴として機能した。
 この城は幅二〇mから四三m、深さ六mから八mもある水を湛えた大規模な濠と石垣に守られ、白壁の土塀や多重櫓で囲まれた内側に、檜皮葺の本丸御殿と金箔瓦で飾られた天守や櫓が聳える絢爛豪華な城郭であった。城は内郭と外郭の大きく二つに分かれ、内郭はさらに本丸 南二之丸 北之丸 西之丸に分かれる。
 これまでの考古学的な調査により、この石碑の立つ本丸西側の濠をはじめ、本丸の東側と南側の濠 二之丸の南側と西側の濠 さらに北之丸の北濠と石垣などが明らかにされた。特に本丸東側の濠跡からは多量の金箔瓦が出土し、国の重要文化財に指定されている。天正一六年 (1588) には後陽成天皇の行幸も行われたこの豪壮な城郭も秀次の失脚に伴い、築城者である秀吉の命により文禄四年 (1595) に破却され、わずか九年の短い歴史を閉じている。   平成二十年 六月


 ただ歩くだけの観察でしたが、二条城西の堀のそばから、神泉苑の池にたどり着き、優雅さと権威、そして商工業の実益を兼ね備えた西陣から三条に至る都市空間を秀吉が目指したのであろうと判断できました。
  • この付近 大内裏及聚楽第東濠跡
  • この付近 聚楽第本丸濠跡 正親小学校の北
  • この付近 聚楽第南外濠跡 松林寺

2017/03/11 12:50:00 南蛮空間、京都を歩く(2)

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  • Posted by住田 育法
 多くの人がポルトガル語が語源であると説明する先斗町 (ぽんとちょう) の入口に写真の案内板があります。
 平安京「風水」の四神に一致する「地」では、北は「玄武」の「船岡山」、東が「青竜」の「鴨川」です。以下の内容の案内版はこの鴨川に架かる四条大橋の西に立っています。南蛮時代にはキリシタンに繋がる大切な建物が今の先斗町辺りにあったのでは、とする意見もありますが、果たしてどうでしょうか。
 
 京名所 先斗町
 この地はもと鴨川の州であったが寛文十年 (1670) に護岸工事の為埋立て石垣を築き町家が出来て、これを新河原町通りといった。その後三条一筋南から、四条まで、即ち南北600米、東西50米にわたる地域に人家が建ちならび俗に先斗町と呼ぶようになった。正徳二年 (1712) に茶屋、旅籠屋 (はたごや) 両株 (りょうかぶ) と茶立 (ちゃだち) 女子を置くことを許され爾来花柳の街として繁昌、現在に至っている。先斗町の呼び名は、ここの人家が全て川原の西側にたち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれたともいい、葡萄牙(ポルトガル)語 (PONT) 英語の (POINT) の発音によったともいわれる。京の年中行事「鴨川をどり」は明治五年に創始、今日迄京の春秋をあでやかに色どっている。
                京の先斗町会


 案内板の PONT は正しくは、PONTO もしくは PONTA です。『現代ポルトガル語辞典』の説明を確認してみましょう。

 PONTO
 男性名詞、第3語義:地点、箇所 第4語義:現在位置など。
 PONTA
 女性名詞、第1語義:先端 第2語義:尖端 第3語義:(テーブルなどの) 角など。

 漢字の「先斗」は「先ばかり」を意味するので、語源はポルトガル語の「先」を意味する PONTA だとする説があります。ともあれ、先斗町のある鴨川空間の三条河原は、今日の華やいだ お座敷小唄 の風景とは異なり、南蛮時代には恐ろしい処刑場であったため、布教のための地点 PONTO に相当する建物をポルトガル人が造ることはなかったでしょう。「先」ということでは、鴨川の納涼床の風景を連想できますね。家々のPONTA (先) の床が川の流れに向かって並んでいます。ポルトガル人が去ったのちに名前が付けられたのかもしれません。正確な語源はともかく、南蛮ゆかりの空間であると理解できることに興味を持てます。

 この四条大橋から西に向かい堀川通りに出ますと、四条堀川の交差点の南東に位置する病院の壁に、以下の説明が書かれています。
 
二十六聖人発祥の地
 ここから西百メートル妙満寺町に一五九四年フランシスコ会のペドロ・バプティスタ神父により聖マリア教会病院学校スペイン使節館が建てられた。
 一五九七年二月五日に長崎で殉教した二十六聖人は同神父をはじめ五名のフランシスコ会士と三名の日本人イエズス会士および十七名の日本人信者で殆んどここで活動した人であった。
 ここに建設された聖アンナおよび聖ヨゼフ病院は京都最初の西洋式のもので貧しい人が多数収容された。
 ここに二十六聖人を顕彰するとともに救貧救病の社会事業が行われたことを記念して銘板を掲げる。
               一九七九年 駐日スペイン大使 カトリック京都司教院


 住所は、下京区東堀川通り四条下る四条堀川町272-6です。

 スペイン使節館が建てられた1594年はポルトガルがスペインに併合されていたので、ポルトガル人宣教師も混じっていましたが、とくにそれには触れていない表現に納得できます。フランシスコ・ザビエルがスペイン系バスク人でありながら、ポルトガルの植民地で活動したということも含めて、イベリア半島で1つに繋がる彼らの一面に触れた気分になります。ともあれ、420年前殉教した26聖人の活動の場が京都であったということに不思議な懐かしさを覚えます。
  • 京名所先斗町 (ぽんとちょう) 中京区先斗町四条大橋西詰
  • 二十六聖人発祥の地 下京区東堀川通り四条
  • マカオの聖パウロ大聖堂跡芸術博物館展示の二十六聖人殉教の絵

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