ポルトガルのニュース
2018/04/22 00:40:00 2017年度ポルトガルセミナーの思い出(3)
- ポルトガルのニュース
- 庄司 ひかり
2月7日(水)から3月4日(日)までの 1ヶ月間、ポルトガルでの海外セミナーに参加しました。
コインブラ大学での授業は、本場ポルトガルの早い口調に早く慣れたいという一心で、先生の話を聞き逃さぬよう、毎日集中してポルトガル語を聞きました。
大学は世界遺産にも登録されていて、大学内は毎日学生の他にも世界各国から観光客が訪れていました。「コインブラ大学 - アルタとソフィア」として2013年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
日本からの観光客も多く、大学内で日本語が聞こえてきた時はすごく不思議でした。
そんな素晴らしい大学で授業を受けることができたことに感謝し、これからもポルトガル語の勉強に専念します。
コインブラ大学での授業は、本場ポルトガルの早い口調に早く慣れたいという一心で、先生の話を聞き逃さぬよう、毎日集中してポルトガル語を聞きました。
大学は世界遺産にも登録されていて、大学内は毎日学生の他にも世界各国から観光客が訪れていました。「コインブラ大学 - アルタとソフィア」として2013年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
日本からの観光客も多く、大学内で日本語が聞こえてきた時はすごく不思議でした。
そんな素晴らしい大学で授業を受けることができたことに感謝し、これからもポルトガル語の勉強に専念します。
2018/04/16 23:10:00 2017年度ポルトガルセミナーの思い出(2)
- ポルトガルのニュース
- 坂本 千紘
今回のポルトガルセミナーに参加して学んだことは、ポルトガル人の優しさです。
私は最初あまり積極的にポルトガル語をホストファミリーや、コインブラ大学の先生と話せませんでした。
しかし、去年参加した友達が「積極的に話さないと生きていけない」、と言っていたのを思い出して、2週間目くらいから思ったことは話すようにしました。
すると、みなさん最後まで私が言いたいことを聞いてくださったり、私が理解できるようにゆっくり簡単な単語で話してくださいました。
その優しさのおかげで1ヶ月無事に過ごすことができました。
本当にこのポルトガルセミナーに参加して良かったと思います。
私は最初あまり積極的にポルトガル語をホストファミリーや、コインブラ大学の先生と話せませんでした。
しかし、去年参加した友達が「積極的に話さないと生きていけない」、と言っていたのを思い出して、2週間目くらいから思ったことは話すようにしました。
すると、みなさん最後まで私が言いたいことを聞いてくださったり、私が理解できるようにゆっくり簡単な単語で話してくださいました。
その優しさのおかげで1ヶ月無事に過ごすことができました。
本当にこのポルトガルセミナーに参加して良かったと思います。
2018/04/14 01:00:00 2017年度ポルトガルセミナーの思い出(1)
- ポルトガルのニュース
- 嶌村 桃香
2018年2月7日 (水) にポルトガルのリスボンに到着しました。
コインブラ大学での語学研修の始まる前、リスボンに隣接するシントラを訪問しました。
シントラの文化財は「シントラの文化的景観」として、1995年にユネスコの世界遺産に登録されています。
シントラの思い出です。
シントラで飲んだジンジャーワイン (Ginjinha)です。
1 杯 1 ユーロで飲むことができました。
とても飲みやすくて味はさくらんぼ味でした。
チョコレートでできているカップと一緒に食べるととても美味しいです!
コインブラ大学での語学研修の始まる前、リスボンに隣接するシントラを訪問しました。
シントラの文化財は「シントラの文化的景観」として、1995年にユネスコの世界遺産に登録されています。
シントラの思い出です。
シントラで飲んだジンジャーワイン (Ginjinha)です。
1 杯 1 ユーロで飲むことができました。
とても飲みやすくて味はさくらんぼ味でした。
チョコレートでできているカップと一緒に食べるととても美味しいです!
2018/03/13 23:30:00 『菜の花の沖』の船と南蛮の船 (Ⅱ)
- ポルトガルのニュース
- 住田 育法
小説の時間は19世紀となりました。享和 (きょうわ) 元年、つまり1801年です。
『菜の花の沖 (四)』で蝦夷地や船の話をたっぷり提供し、第五巻はこの1801年の春から始まります。司馬遼太郎のわくわくするような筆運びをそのまま紹介しましょう。「林蔵」は間宮林蔵のことです。
林蔵
海が春になった。
その朝、昇りはじめた陽が兵庫の和田岬の松原を隈 (くま) 深く照らしたが、そのまま陽が高くなっても雲がさえぎらず、吹きつづけている微風は、真綿のようにやわらかい。
生まれたばかりの八艘の船が、すでに兵庫の浦風のなかで、帆柱と船尾(とも)をそろえてならんでいる。
出港の準備はおわっていた。
具体的な船の内容を続けます。
このうち五艘が、官船であった。そのことは、帆柱まで赤く塗られていることでもわかるが、五艘のうちの高官座乗用の柔遠丸・瑞穂 (みずほ) 丸 (ともに350石積) は関船(せきぶね) 防御用の戦闘船) だけに、猫がねずみをねらうときの姿勢のように、船首(みよし) は低く、船尾は高く、いかにも精悍 (せいかん) な感じがした。
すでに小説の説明を借りて解説しているように、これらの和船は、南蛮の船、つまりヨーロッパの複数の帆を使った航海のための大船ではありません。徳川の日本が、そうした大船の建造を家康以来の祖法によって禁じていました。
しかし、15世紀の大航海時代が始まるとき、ポルトガル人たちが東方の技術を集積して大海原を航海できる画期的な大船を発明した(15世紀の技術革新誕生を説明した写真を参照) その熱い思いのように、高田屋嘉兵衛の注文を受けた徳川日本の船大工も、制限のある中で、誇りをもって優れた船を作ったようです。
少し紹介してみましょう。第四巻の「択捉十五万石」の箇所です。
すでに、吉左衛門に、
三百五十石 (新造後の船名・柔遠(じゅうえん)丸
三百五十石 (同・瑞穂(みずほ) 丸)
七百石 (同・寧済(ねいさい) 丸)
七百石 (同・福祉(ふくし) 丸)
七百石 (同・安焉(あんえん) 丸)
という五艘の官船を造らせている。
それと材質・技術上同思想のものを同じ棟梁につくらせるというのは、嘉兵衛の思いどおりの船を得る上で便利であり、かつ材料集めの上で安価にもなる。
(略)
辰吉(しんきつ)丸 (千七百石)
貞宝丸 (千四百石)
辰運丸 (七百石)
の三艘であった。
これらの船は日本近海の長距離航海に使いました。日本ではりっぱな船だったのですが、19世紀にはすでに大型のフリゲート (写真) が珍しくなかったのです。小銃もすでに火縄銃は終わり、新しいマスケット銃 (写真)の時代になっていました。
『菜の花の沖 (四)』で蝦夷地や船の話をたっぷり提供し、第五巻はこの1801年の春から始まります。司馬遼太郎のわくわくするような筆運びをそのまま紹介しましょう。「林蔵」は間宮林蔵のことです。
林蔵
海が春になった。
その朝、昇りはじめた陽が兵庫の和田岬の松原を隈 (くま) 深く照らしたが、そのまま陽が高くなっても雲がさえぎらず、吹きつづけている微風は、真綿のようにやわらかい。
生まれたばかりの八艘の船が、すでに兵庫の浦風のなかで、帆柱と船尾(とも)をそろえてならんでいる。
出港の準備はおわっていた。
具体的な船の内容を続けます。
このうち五艘が、官船であった。そのことは、帆柱まで赤く塗られていることでもわかるが、五艘のうちの高官座乗用の柔遠丸・瑞穂 (みずほ) 丸 (ともに350石積) は関船(せきぶね) 防御用の戦闘船) だけに、猫がねずみをねらうときの姿勢のように、船首(みよし) は低く、船尾は高く、いかにも精悍 (せいかん) な感じがした。
すでに小説の説明を借りて解説しているように、これらの和船は、南蛮の船、つまりヨーロッパの複数の帆を使った航海のための大船ではありません。徳川の日本が、そうした大船の建造を家康以来の祖法によって禁じていました。
しかし、15世紀の大航海時代が始まるとき、ポルトガル人たちが東方の技術を集積して大海原を航海できる画期的な大船を発明した(15世紀の技術革新誕生を説明した写真を参照) その熱い思いのように、高田屋嘉兵衛の注文を受けた徳川日本の船大工も、制限のある中で、誇りをもって優れた船を作ったようです。
少し紹介してみましょう。第四巻の「択捉十五万石」の箇所です。
すでに、吉左衛門に、
三百五十石 (新造後の船名・柔遠(じゅうえん)丸
三百五十石 (同・瑞穂(みずほ) 丸)
七百石 (同・寧済(ねいさい) 丸)
七百石 (同・福祉(ふくし) 丸)
七百石 (同・安焉(あんえん) 丸)
という五艘の官船を造らせている。
それと材質・技術上同思想のものを同じ棟梁につくらせるというのは、嘉兵衛の思いどおりの船を得る上で便利であり、かつ材料集めの上で安価にもなる。
(略)
辰吉(しんきつ)丸 (千七百石)
貞宝丸 (千四百石)
辰運丸 (七百石)
の三艘であった。
これらの船は日本近海の長距離航海に使いました。日本ではりっぱな船だったのですが、19世紀にはすでに大型のフリゲート (写真) が珍しくなかったのです。小銃もすでに火縄銃は終わり、新しいマスケット銃 (写真)の時代になっていました。
2018/02/27 23:50:00 『菜の花の沖』の船と南蛮の船 (Ⅰ)
- ポルトガルのニュース
- 住田 育法
学部のゼミ生や院生たちの論文指導を終えて、研究室の書棚を整理していると、積まれた書物の下から過去に読んだ小説が出てきました。司馬遼太郎の『菜の花の沖 (三)』です。
年末の大掃除のとき、畳の下から出てきた過去の新聞の記事を読むような気持ちでぺージをめくりました。小説のタイトルは春の「菜の花」ですが、第三巻は夏の海から始まっています。
嘉兵衛の海
夏がすぎた。
海は、季節とともに生きている。夏がおわるころ、さほどに風もないのにはるかな沖からながいうねり波が押しよせてきて、たらいの中のような瀬戸内 (せとうち)の海でも大いにさわぐ。土用波である。
「土用波の日にも、嘉兵衛の船が走っていた」
と、兵庫の西出町あたりでは、評判になった。次弟嘉蔵が指揮する長慶丸が、玄海灘で土用波に遭っても寄港せず、馬関 (ばかん) 海峡の早瀬に乗って矢のように突っきってゆくのを、壇ノ浦 (だんのうら) あたりで寄港していた兵庫船がみておどろいたという。
「ああいうことをしていると、いずれひどい目にあうぞ」
と、ひとびとが陰口をたたいたが、嘉兵衛もそのとおりだと思っている。
軽妙な筆運びの作家のおもわくにはまって、そのまま読み続けました。
約30年前に読んでいた作品だったので、私の癖ですが、あちこちに鉛筆で線が引いてありました。とくに和船と南蛮船の違いに、当時の読者、住田は興味を持ったようです。それは、大海を移動するとき、複数の帆をあやつって大型帆船を利用した南蛮人たちのようなヨーロッパ人とは異なり、鎖国時代の日本人は、ただ1つの帆をかかげる船で大海を航行したことです。
司馬遼太郎の説明を借りてみましょう。
辰悦丸
帆柱というのは、本来、一本の自然木でできているものであったが、船が大型化するにつれて、そういう木を求めることが困難になった。
このため、
「松明柱 (たいまつばしら)」
とよばれるものが、一般化している。
(中略)
幕府が、船の力が増すことをおそれ、すべて帆柱は一本ということに制限していることはすでに述べた。
柱一本・帆一枚で遠くへゆくには、帆の風当たり面積を大きくせざるをえず、このため柱も長大にならざるをえない。ついに柱の長さは船の長さの九割ほどという、べらぼうなものになっていた。
船体からみて、たかだかと天空に立っているこの柱は (中略) 非常の場合は斧 (おの) をふるって柱を伐 (き) りたおすというのが心得になっていた。とにかくこの柱のために和船の漂流というのが多かった。
南蛮の船に比べて合理的でない、というのは残念に思いますが、その不利な条件を克服して大海原に乗り出した日本の瀬戸内の船乗りの勇気に惹かれます。
ともかく、瀬戸内海とは異なる荒波の日本海を江戸時代の船乗りは、帆柱一本の船で航海していたという現実を『菜の花の沖』で知り、その男たちに感情移入をしながら、古都の春の訪れを楽しんでいます。
第三巻の「あとがき」は春で終わっています。灘の酒についておもしろいので紹介します。
あとがき
(略) 毎春二、三月のころに、灘五郷や池田、伊丹、大坂などの新酒をのせた船が西宮の湊に勢ぞろいするさまが書かれている。
五六艘若(もし)くは七八艘申合せて、一時に西宮港を出船し、各(おのおの) 品川に先着を競争する、其(その) 出船(でふね) の式を行ふのである。
(略)
ついでながら、嘉兵衛の時代、主としてこの西宮湊から船積みされて江戸に送られる「下(くだ)り酒」は年間、じつに七十万樽といわれた。こんにちでもなお気が遠くなるほどの量といっていい。
昭和五十七年六月
『菜の花の沖 (四)』以後も続けて紹介します。
年末の大掃除のとき、畳の下から出てきた過去の新聞の記事を読むような気持ちでぺージをめくりました。小説のタイトルは春の「菜の花」ですが、第三巻は夏の海から始まっています。
嘉兵衛の海
夏がすぎた。
海は、季節とともに生きている。夏がおわるころ、さほどに風もないのにはるかな沖からながいうねり波が押しよせてきて、たらいの中のような瀬戸内 (せとうち)の海でも大いにさわぐ。土用波である。
「土用波の日にも、嘉兵衛の船が走っていた」
と、兵庫の西出町あたりでは、評判になった。次弟嘉蔵が指揮する長慶丸が、玄海灘で土用波に遭っても寄港せず、馬関 (ばかん) 海峡の早瀬に乗って矢のように突っきってゆくのを、壇ノ浦 (だんのうら) あたりで寄港していた兵庫船がみておどろいたという。
「ああいうことをしていると、いずれひどい目にあうぞ」
と、ひとびとが陰口をたたいたが、嘉兵衛もそのとおりだと思っている。
軽妙な筆運びの作家のおもわくにはまって、そのまま読み続けました。
約30年前に読んでいた作品だったので、私の癖ですが、あちこちに鉛筆で線が引いてありました。とくに和船と南蛮船の違いに、当時の読者、住田は興味を持ったようです。それは、大海を移動するとき、複数の帆をあやつって大型帆船を利用した南蛮人たちのようなヨーロッパ人とは異なり、鎖国時代の日本人は、ただ1つの帆をかかげる船で大海を航行したことです。
司馬遼太郎の説明を借りてみましょう。
辰悦丸
帆柱というのは、本来、一本の自然木でできているものであったが、船が大型化するにつれて、そういう木を求めることが困難になった。
このため、
「松明柱 (たいまつばしら)」
とよばれるものが、一般化している。
(中略)
幕府が、船の力が増すことをおそれ、すべて帆柱は一本ということに制限していることはすでに述べた。
柱一本・帆一枚で遠くへゆくには、帆の風当たり面積を大きくせざるをえず、このため柱も長大にならざるをえない。ついに柱の長さは船の長さの九割ほどという、べらぼうなものになっていた。
船体からみて、たかだかと天空に立っているこの柱は (中略) 非常の場合は斧 (おの) をふるって柱を伐 (き) りたおすというのが心得になっていた。とにかくこの柱のために和船の漂流というのが多かった。
南蛮の船に比べて合理的でない、というのは残念に思いますが、その不利な条件を克服して大海原に乗り出した日本の瀬戸内の船乗りの勇気に惹かれます。
ともかく、瀬戸内海とは異なる荒波の日本海を江戸時代の船乗りは、帆柱一本の船で航海していたという現実を『菜の花の沖』で知り、その男たちに感情移入をしながら、古都の春の訪れを楽しんでいます。
第三巻の「あとがき」は春で終わっています。灘の酒についておもしろいので紹介します。
あとがき
(略) 毎春二、三月のころに、灘五郷や池田、伊丹、大坂などの新酒をのせた船が西宮の湊に勢ぞろいするさまが書かれている。
五六艘若(もし)くは七八艘申合せて、一時に西宮港を出船し、各(おのおの) 品川に先着を競争する、其(その) 出船(でふね) の式を行ふのである。
(略)
ついでながら、嘉兵衛の時代、主としてこの西宮湊から船積みされて江戸に送られる「下(くだ)り酒」は年間、じつに七十万樽といわれた。こんにちでもなお気が遠くなるほどの量といっていい。
昭和五十七年六月
『菜の花の沖 (四)』以後も続けて紹介します。