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ポルトガルのニュース

2019/05/23 12:30:00 カモンイス院の国際文化活動(3)

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  • Posted by住田 育法
 世界におけるポルトガルの言語・文化普及を進めるポルトガル政府の機関カモンイス院が、このたび、ブラジルの音楽界を代表するシンガー・ソング・ライターのシコ・ブアルキにカモンイス賞を与えました。これはポルトガル語圏でもっとも重要な文学賞です。
 カモンイス院は京都外国語大学が主催する全日本学生ポルトガル語弁論大会を後援し、入賞者 2 名にポルトガル 1 年留学の奨学金を授け、本弁論大会に審査員を 1 名リスボンから派遣しています。写真は2018年大会の審査員ジョアン・ネヴェスさんです。
 このようにポルトガルの機関ですが、受賞時に74歳 (1944年6月生まれ) になる有名なブラジル人歌手に賞を与えました。
 シコ・ブアルキの代表作『ブタペスト』の訳者の武田千香氏は「あとがきで」次のように紹介しています。
 ブラジルの二十世紀後半の文化を、彼に触れずして語ることは不可能だと言っても過言ではないほどの大物文化人だ。本名はフランシスコ・ブアルキ・ヂ・オランダ (Francisco Buarque de Hollanda) で、1944年6月19日にリオデジャネイロに生まれている。父親のセルジオ・ブアルキ・ヂ・オランダは名著『ブラジル人とは何か』(Raízes do Brasil)を書いた歴史家だ。1966年のデビューアルバム『シコ・ブアルキ・ヂ・オランダ』以降、2001年の『カンバイオ』(Cambaio) まで、主要なアルバムだけでも二十枚以上にのぼる。(略)
 音楽以外にも、詩人、戯曲家、小説家、俳優と多くの顔を持ち、軍政時代にはイタリアにも自主亡命しており、反戦運動の旗手として当時の若者に絶大な影響を与えた。


 最後にこのブログでは、学生の皆さんのために、カモンイス院が発表しているポルトガル語の記事をそのまま以下に紹介します。分かりやすいポルトガル語ですから、まずポルトガル語を読んで、不明な箇所はブラジルポルトガル語学科の先生に質問しましょう。がんばってください。

O músico e escritor brasileiro Chico Buarque, vencedor do Prémio Camões 2019, ficou "muito feliz e honrado de seguir os passos de Raduan Nassar", o seu compatriota distinguido com o prémio em 2016.

“Fiquei muito feliz e honrado de seguir os passos de Raduan Nassar”, refere a curta declaração divulgada pela assessoria de Chico Buarque, citada pela Agência Lusa.

Chico Buarque foi o vencedor do Prémio Camões 2019, anunciado no dia 21 de maio, após reunião do júri, na Biblioteca Nacional do Brasil, no Rio de Janeiro.

O músico e escritor brasileiro fora já distinguido com o prémio Jabuti, o mais importante prémio literário no Brasil, pelos romances “Estorvo”, "Leite Derramado", obra com que também venceu o antigo Prémio Portugal Telecom de Literatura (atual Prémio Oceanos), e por "Budapeste”.

Escritor, compositor e cantor, Francisco Buarque de Holanda nasceu em 19 de junho de 1944, no Rio de Janeiro.

Estreou-se no romance com "Estorvo", em 1991, a que se seguiram "Benjamim", "Budapeste", "Leite Derramado" e "O Irmão Alemão", publicado em 2014.

O Prémio Camões de literatura em língua portuguesa foi instituído por Portugal e pelo Brasil em 1988, com o objetivo de distinguir um autor "cuja obra contribua para a projeção e reconhecimento do património literário e cultural da língua comum".

Foi atribuído pela primeira vez, em 1989, ao escritor Miguel Torga.

Lusa

Mais Informação. 
  • カモンイス院提供のシコ・ブアルキの演奏風景。
  • 弁論大会のネヴェス審査員が緑茶で乾杯。京都市内の和食のレストランで。
  • 第36回全日本学生弁論大会の出場者といっしょに。ピンク色の丸い枠内がネヴェス審査員。

2019/04/27 12:20:00 ポルトガル語圏から眺める「一帯一路」

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  • Posted by住田 育法
 大航海時代の歴史地図 (写真) を見ると、西にブラジル、東に中国が広がる陸と海の東西交流の姿が強く印象づけられます。まさにこれは、古代から中世に至る陸と海の永いシルクロードの歩み以後に展開した、大型帆船による南蛮人ヴァスコダ・ガマやマゼランの大航海の足跡です。
 リスボンの春で世界の植民地支配を放棄したポルトガルが、20世紀末にヨーロッパ連合に加盟し、同時に、ポルトガル語圏諸国共同体(CPLP)を創設します。つまり、「武力」による植民地支配ではなく、文化や経済活動による「平和」な共同体の創出です。これに加盟している9ヵ国、ポルトガル,ブラジル,アンゴラ,カーボベルデ,ギニアビサウ,モザンビーク,サントメ・プリンシペ,赤道ギニア,東ティモールは、植民地時代からの共通の言語・文化による連携,20・21世紀の経済関係の強化、人的交流の促進,さらにポルトガル語の国際語化などを、共同体の活動によってグローバルに進めています。
 今このポルトガルの構想をポルトガル語圏を超えて、中国の「21世紀のシルクロード」構想とも言える「一帯一路」のシステム (写真) に参加させようとする動きが起こっています。
 「一帯一路」は、ポルトガル語では “Uma Faixa, Uma Rota” と表記します。
 「シルクロード」はポルトガル語では“Rota da Seda” 、中国語では「絲綢之路」となります。「一帯」はシルクロードの陸上の「草原の道」や「オアシスの道」、「一路」は海上の「海の道」に一致するようです。したがって、15・16世紀ポルトガルの大航海時代の「道」は「一路」に重なりますね。ヨーロッパのポルトガルとアフリカのアンゴラが参加を決めています。東アジアのポルトガル語圏マカオは中国ですから、当然、「一帯一路」の一角を担うことになります。
 ポルトガルのコスタ首相は2018年11月29日に、中国が主導する広域経済圏構想「一帯一路」に協力する方針を明らかして、同年12月4日からポルトガルを訪れた中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席と合意文書を取り交わしました (写真)。そして、2019年4月26日から北京で開催の中国が掲げる巨大経済圏構想「一帯一路」をテーマにした国際会議の開幕式に初めて首脳を送りました。マルセロ・レベロ・デ・ソウザ大統領です。27日までの3日にわたる国際フォーラムは、37ヵ国の首脳が参加して終わりました。
 「一帯一路」には懸念の声もあります。4月28日の『日本経済新聞』の社説「一帯一路は国際基準順守を」の結びを最後に紹介しておきましょう。

 「中国は経済力では先進国並みだ。ならば、経済協力開発機構(OECD)の規定に準じた透明な手法で一帯一路の事業を運営すべきだ。それが現地に利益をもたらさないという問題を解決し、質の高いインフラ整備につながる。第三国で協力を進める日本は、豊富な対外援助の経験を生かして中国の変化を後押しする必要がある。」

 今後の展開をアジアの日本からも、しっかり眺めたいと思います。
  • カンティーノ世界図。1502年。
  • 「一帯一路」構想の地図。青色の線が「一路」。
  • マカオの新聞に掲載された中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席とポルトガルの首相との和やかな面談の様子の写真。

2019/04/08 16:30:00 ポルトガル語圏研究のすすめ (6)

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  • Posted by住田 育法
 21世紀の今から400年余り前の時空を、フロイス著『日本史』と共に、グローバルに振り返ってみましょう。

 京都外国語大学名誉教授川崎先生に勧められた以下の文献を参考にしました。

 川崎桃太著『フロイスの見た戦国日本』2003年2月25日発行、中央公論社。

 1563年にフロイスは日本の西九州に上陸し、1665年に京都に到着し、足利義輝将軍の死に出会っています。ポルトガルはマノエル・オリヴェイラの名画『NON』が描くアフリカで不運な戦死を遂げたドン・セバスティアン王 (1557 – 78年) の時代でした。この国王の死によって、王位継承者を欠くポルトガルは、1580年にスペインに併合されることになります。南米の植民地のブラジルでは、このとき、スペインの敵のオランダがブラジルを攻撃し、1630年から1654年まで北東部地方の一部が占領されました。

 16世紀末の空間は、東アジアの日本やヨーロッパのポルトガル、北アフリカのアルカセル・キビール、新世界ブラジルなどにつながっています。

 それでは、応仁の乱以後の永い戦乱を経て、平和が訪れていた都 (みやこ) と呼ばれた京都をフロイスの目で覗いてみましょう。

 『フロイス 日本史 3』訳者 松田毅一 川崎桃太 1978年2月20日発行 中央公論社。
 第18章 = 原文 第一部57章 (1565年)、227 - 235ページ~。

 (本年 = 1565年) 正月 (しょうがつ) 、すなわち、第一月を意味する日本の新年の祭りは、(我らの暦の) 2月1日にあたった。(略) この正月祭にあたって、(公方様) は来訪者に対して一言も話さない。もっとも高貴な人たちには、彼は盃 (さかずき) を与え、他の者は彼の前で頭を地面まで下げて彼にお辞儀をし、ただちに転じて退出する。そしてより下級の者に対しては、(公方様) は姿を見せない。彼らはたとえ良き高価な贈物を携えても、決して彼の部屋に通されはしない。そして上述の方法によって、奥方 (ライーニャ) (すなわち) 彼の夫人も、彼の母堂も一つの離れた宮殿において (人々から) 訪問を受けた。
 (中略)
 人々は彼らにそれを断ることができず、そこへ入って来た異教徒の婦人たちのほとんどの人は跪き、祭壇の方に向かって両手を挙げ、我らの主なるキリストの聖像に礼拝した。その夜、また翌日になり、キリシタンの兵士や貴人たちは、祭壇に別れを告げて家路についた。
 ガスパル・ヴィレラ師は、上京 (かみぎょう) において、公方様、または日本の最高の君主である内裏 (だいり) の宮殿の近くで、数ヵ月、デウスの教えを説くために一屋を借りることができぬものかと考えた。しかし、彼はこれを3年來、成就せんものと試みたが、この計画に反対する種々の障害があったために、ついに成功するに至らなかったのである。


  『フロイス 日本史 3』 中央公論社。
 第23章 = 原文 第一部65章 (1565年)、308 - 316ページ~。

 復活祭が過ぎると、ガスパル・ヴィレラ師は、新たな熱意をもって、上京 (かみぎょう) に一軒の家を借りようと努めた。(略)
 都には、内裏 (だいり) に次ぐ日本での最高の順位である公方様 (足利義輝) が住んで居た。(略)
 「それゆえ、私は殿下のお供を仕り、あの世へ先立ちます」と言った。そしてただちに突如、腹を十字に断ち切ったので、臓腑が流出し、彼は(公方様) の面前で死に果てた。
 公方様は自らの生涯が終わったことを認め、折から昼食をとろうとしていたところなので、食事を持参するようにと命じ、自分の前にいた殿たち全員の掌に、箸 (はし) をもって一日の米飯と肴 (さかな) を与え、さらにおのおのに対し、大いなる愛情の言葉とともに盃 (さかずき) をとらせたので、一同は大声をあげて泣き、かつ涙を流した。(略)

 公方様は元来、はなはだ勇猛果敢な武士であったので、長刀 (なぎなた) を手にし、まずそれで戦い始めたが、その際彼は数名を傷つけ、他の者たちを殺戮したので、一同はきわめて驚嘆した。(略)

 近世の京都に展開するこのあとの続きは、ぜひ書物『フロイス 日本史』(中央公論社) で!
  • スペインからの1640年再独立の記念碑、リスボン中心部リベルダーデ通りにて、筆者撮影。
  • 全12巻の『フロイス 日本史』 中央公論社の第1巻と第12巻
  • 足利義輝の木像が祀られている京都の等持院霊光殿、筆者撮影。

2019/04/05 20:50:00 ポルトガル語圏研究のすすめ (5)

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  • Posted by住田 育法
 歴史研究の醍醐味は時空を遡って、過去の英雄たちの日常生活を知ることでしょう。
 これを助けてくれるのが、参考文献に示された注釈です。
 今回もルイス・フロイス著『日本史』を取りあげますが、学生の皆さんに伝えたいのは、日本語やポルトガル語の注釈によって、歴史上の出来事を楽しむ方法です。
 
 松田毅一・川崎桃太訳『フロイス 日本史』(1977年10月20日、中央公論社) の第一巻「訳者序文」に次のように書かれています。

 いずれ復刻されるはずの原文のテキストには、ローマ・イエズス会史学研究所所員が、欧文献をもって豊富な注釈を加えることが当然予想されるに鑑み、私たちの邦文版においては、主として日本側の古文書や文献、また史家の研究成果に基づく学注を付し、フロイスの記事と照合することに重点を置いた。(中略)
 フロイスの「日本史」が十六世紀の末に西欧で刊行されなかった最大の理由は、あまりにも厖大であり過ぎたためであった。もしも翻訳書が吾人の手で完遂できない事態に至るならば、その理由もまた、本書が活瀚であり過ぎたためと言い得るのではあるまいか。しかし私どもは微力を傾ける所存であるし、万一のことあるも、かならずや本訳注を継承し達成してくださる後輩の出現を確信してやまぬ。

 
 実は、訳書出版 (1977 - 1980年) とほぼ同じ時期に、原文のテキストと詳しい注釈を付した書物がポルトガルで出版された (1976 - 1984年) のです。今、私たちは、この両方を並べて、じっくり味わうことができます(写真)。
 
 『フロイス 日本史 1』訳者 松田毅一 川崎桃太 1977年10月20日発行 中央公論社。
  第二部47章 (1583年) から第二部103章 (1587年) まで。
 『フロイス 日本史 2』同訳者 1977年12月20日発行 同社。
  第二部110章 (1588年) から第三部56章 (1592, 93年) まで。
 『フロイス 日本史 3』同訳者 1978年2月20日発行 同社。
  第一部4章 (1550年) から第一部24章 (1560年) まで。
 『フロイス 日本史 4』同訳者 1978年4月20日発行 同社。
  第一部67章 (1565年) から第一部105章 (1575年) まで。
 『フロイス 日本史 5』同訳者 1978年6月20日発行 同社。
  第二部25章 (1580年) から第三部41章 (1593年) まで。
 『フロイス 日本史 6』同訳者 1978年6月20日発行 同社。
  第一部1章 (1549年) から第一部41章 (1563年) まで。
 『フロイス 日本史 7』同訳者 1978年10月20日発行 同社。
  第一部47章 (1563年) から第一部54章 (1564年) まで。
 『フロイス 日本史 8』同訳者 1978年12月20日発行 同社。
  第二部38章 (1563年) から第三部39章 (1564年) まで。
 『フロイス 日本史 9』同訳者 1979年6月20日発行 同社。
  第一部42章 (1563年) から第一部100章 (1573年) まで。
 『フロイス 日本史 10』同訳者 1979年9月20日発行 同社。
  第一部104章 (1574年) から第二部59章 (1584年) まで。
 『フロイス 日本史 11』同訳者 1979年12月20日発行 同社。
  第二部60章 (1585年) から第三部4章 (1590年) まで。
 『フロイス 日本史 12』同訳者 1980年1月25日発行 同社。
  第三部5章 (1590年) から第三部43章 (1593年) まで。

 ポルトガルで1976年から1984年にかけて発行されたルイス・フロイス『日本史』の原文テキストの重要文献です。
 Historia de Japam, P. Luís Fróis, S. J. Edição anotada por José Wicki, S. J., Ⅰ Volume (1549 – 1564), Biblioteca Nacional de Lisboa, 1.ª ediçã – Outubro 1976.
 Historia de Japam, P. Luís Fróis, S. J. Edição anotada por José Wicki, S. J., Ⅱ Volume (1565 – 1578), Biblioteca Nacional de Lisboa, 1.ª ediçã – Dezembro 1981.
 Historia de Japam, P. Luís Fróis, S. J. Edição anotada por José Wicki, S. J., Ⅲ Volume (1578 – 1582), Biblioteca Nacional de Lisboa, 1.ª ediçã – Outubro 1982.
 Historia de Japam, P. Luís Fróis, S. J. Edição anotada por José Wicki, S. J., Ⅳ Volume (1583 – 1587), Biblioteca Nacional de Lisboa, 1.ª ediçã – Maio 1983.
 Historia de Japam, P. Luís Fróis, S. J. Edição anotada por José Wicki, S. J., Ⅴ Volume (1588 – 1593), Biblioteca Nacional de Lisboa, 1.ª ediçã – Dezembro 1984.

 右下の写真のテキストは『フロイス 日本史 1』第一章の内容です。冒頭部分を紹介しましょう。

 (織田) 信長が亡くなった後、日本の大部分は動揺し混乱した。そして、諸国、環境、また個人(生活) の上にあまりにも多くの変化があったので、あたかも突如として別世界が出現した観があった。オルガンティーノ師は、司祭、修道士たち、および当初安土にあった神学校を、最善を尽くして都の教会と新しい修道院に収容した。だがその地所は狭隘で、(神学校の) 少年たちは窮屈な思いをし、なんら娯楽もなく、彼らを収容するに足りる設備とてはなかったので、(オルガンティーノ) 師は、これらの少年たちを(どこに) 安全に、しかも楽々と収容し得ようかとその世話に大いに頭を悩ました。司祭はこの一件を (高山) ジュスト右近殿ならびにその父ダリオ (飛騨守) に打ち明けたところ、一同は種々の観点から、(彼らがいる) 高槻以上に適した場所を見出すことは不可能であるということで意見の一致をみた。
  • 1976 - 1984年にポルトガルで発行された『日本史』の原文テキスト版。
  • 原文テキスト版の注釈者José Wicki, S. J.、大阪城にて。
  • 松田・川崎訳『ルイス・フロイス日本史』和訳版 (右) と原文テキスト版 (左) の同じ内容のテキスト。

2019/04/03 10:40:00 ポルトガル語圏研究のすすめ (4)

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  • Posted by住田 育法
 平成31 (2019) 年4月2日 (火) に、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイス著『日本史 (Hisória do Japão)』のポルトガル語の写本版全13巻 (写真) を京都外国語大学付属図書館分館アジア関係図書館で閲覧しました。
 ご協力いただいた奥副館長ならびに藤田管理運営課主事に感謝申しあげます。この貴重な図書は、今から44年前の昭和50 (1975) 年5月に、本学付属図書館が全巻復元を果たしたものです。
 前回に続いてルイス・フロイス著『日本史』を取りあげますが、学生の皆さんにお伝えしたいのは、外国語の写本を読む大切さと面白さです。

 筆者は偶然にも、1974年のブラジル留学中に、文学作品の作家の手書き原稿を読む文献学の専門家マクシミアーノ・カルヴァーリョ・イ・シルヴァ (Maximiano Carvalho e Silva) 教授の指導により修士論文を執筆し、写本を読む技術の手ほどきを受けていました。しかし、『日本史』を専門とすることなく、21世紀の今、はじめて写本の復元版を閲覧し、当時の先生方の素晴らしい業績に感銘しているのです。それは、4世紀を超えて実現したルイス・フロイスと筆者との写本による「出会い」の感動です。さらに、今年104歳になられた訳者川崎桃太本学名誉教授の運命的な体験のことです。2019年3月31日 (日) に京都市山科のご自宅を訪問し、当時のことを先生から直接、お聞きすることができました (写真)。

 川崎先生の説明は、1974年に永く行方知れずになっていた「写本」一部を含め、『日本史』の全てがポルトガルのリスボンで見つかり、これをマイクロフィルムで日本に持ち帰り、翌1975年に当時の森田嘉一図書館長のご尽力で全巻復元を果たした、とのことです。このポルトガル語にラテン語の混じる写本を読み、川崎先生が日本語に翻訳したそうです。

 31日に川崎先生から賜った歌代幸子著『100歳の秘訣』(新潮新書、2018年、179 – 198ページ) の中に詳しく書かれています。

 一部を紹介しましょう。
 幻の写本
 「今、思い返しても不思議な体験で、これこそ神のお導きだと思いました」
(略)
 ポルトガル政府から奨学金を受けて留学したのは1974年7月。川崎はリスボンの小高い丘に立つ王宮図書館で、膨大な数の古文書と向き合っていた。62巻からなる「アジアにおけるイエズス会員の集書」の目録を作ることが目的で、難解な文字を相手に悪戦苦闘の毎日が続く。そして、1カ月余りが過ぎたある日のこと。
 「今までに見た文字とは全く違う美しい文字で書かれた文書を見つけたのです。よく見ると、それがフロイスの『日本史』だった。衝撃を受けましたね」
 フロイス直筆の原書は現存しない。もともとマカオのイエズス会の図書館に保管されていたが、19世紀の火災で焼失したのである
(筆者注: マカオの聖パウロ天主堂のこと。天主堂は、1582年から1602年にかけてイエズス会会員によって建築。しかし1835年の台風時の火事によって焼失)。しかし、その1世紀前にポルトガル政府の命令により、マカオにある古文書は写本に収めて持ち帰られていた。川崎が発見したのは、奇跡的に救われた『写本』だった。
 見た目には綺麗な文字でも、16世紀のポルトガル語とラテン語が入り混じる古文書は誰もが訳せるものではない。2つの言語に通じた川崎には天の配剤とも思われたが、重大な欠落部分があることに気づく。全巻のうち5年分の写本が抜けていたのだ。研究者たちも探し求めていたが、所在は謎めいたままだった。
 (略)
 国立中央図書館へ移り (略) 2冊の立派に製本された書物を抱えて現われる。表紙を開くと、美しい文字が目に飛び込んだ。


 直接、川崎名誉教授にお会いして確認できたのは、本学付属図書館所蔵『日本史』全巻復元13巻に利用したマイクロフィルムは全て、そのとき川崎先生が持ち帰ったものだった、という事実でした。他に比べて解像度が格段に優れていたそうです。

 さらに件の書物から引用しましょう。
 当時、京都外国語大学には南蛮学の権威で、フロイスの研究者である松田毅一がいた。川崎が『日本史』の写本を持ち帰ったことを喜び、コンビを組んで翻訳を進めることになった。川崎が直訳した文章を、松田が流暢な文章に変えていく。
  • 戦国時代末期の激動を記録したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの『日本史』全巻が京都外国語大学付属図書館 (当時、森田嘉一館長) で1975年に復元。全13巻の貴重書。
  • 2019年3月31日 (日) に京都市山科の川崎先生 (左側) のご自宅を筆者、訪問。
  • 京都外国語大学付属図書館が1975年4月10日に入手したルイス・フロイス執筆の日本関係イエズス会文書 (1587年8月5日付、平戸発信) の一部と内容が一致する復元版の美しい写本の文字。

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