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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS

ポルトガルのニュース

2020/08/22 11:30:00 ポルトガル語圏の食文化(1)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 最初はパンです。
 コインブラの近くのパン博物館を訪問しました(写真参照)。
 ブラジルの国土の約100分の1という、とても小さなポルトガルですが、全土でパンの原料となる小麦 (trigo) やライ麦 (centeio)、トウモロコシ (milho) が栽培されています。
 ブラジルに留学したとき私の恩師が、Japão já tem pão?と冗談を言ったのが思い出されます。
 ポルトガルの食事で大切なのは、パンとチーズ、そしてワインです。これが美味しいと、ポルトガルでは、「今日の料理は素晴らしい」とコメントできます。
 ニンニクとコリアンダー (和名はコエンドロ。ポルトガル語: coentro) をたっぷり入れたアレンテージョ風スープ(Sopa Alentejana)にもパンが入っています。
 黒人の食文化の残るブラジルでも、20世紀になって、ポルトガル移民のパン屋さんがサンパウロやリオデジャネイロで活躍することになります。
 お米の国日本の言語では、小麦、ライ麦、大麦はすべて「麦」を付けて表現されますが、ポルトガル語では、小麦がtrigo、ライ麦がcenteio、大麦はcevadaとなります。「麦」のみの表現はありませんね。
  • エストレラ山近くのパン博物館(Museu do Pão)
  • パン博物館に展示されているパンを焼く絵
  • コインブラの下町でポルトガルのパンと緑葉ケールのスープ (caldo verde) で昼食を

2020/07/11 14:30:00 民族移動のターミナル、ポルトガルの言語と宗教(2)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 このブログのタイトルの「ターミナル」は「終点」の意味です。つまり、東から移動してきたあらゆる民族にとってポルトガルは、未知の大西洋に面した、ヨーロパ大陸最西端の終着地であったのです。しかしやがて、大西洋の彼方の新世界、特にブラジルへ向かう「出発点」となります。
 
 ポルトガルの首都リスボンを舞台にした1950年代のフランス映画『過去をもつ愛情』のDVD(写真)を手に入れ、ゆっくりと鑑賞しました。
 テージョ川に面する異国の都市リスボンで出会ったフランス人の男女が恋に落ち、ラストシーンで別れる場所はブラジルに向けて出港する船でした。

 水をはねて錨があがり、船が岸壁から離れ、船上から男が叫ぶ!
 女は岸壁に。。。


 筆者との共著者畴谷憲洋氏が『旅の気分でポルトガル語―ことばでめぐるブラジルとポルトガル』(晃洋書房、2010年)の中で「映画に描かれたリスボン」と題してこの映画を紹介しています。映画の舞台アルファマは、18世紀のリスボン大地震(1755年11月1日)で破壊を免れたイスラム文化の影響の残る曲がりくねった坂道のテージョ川に面した異国情緒あふれる風景(写真)の素敵な街です。

 リスボンを舞台にした映画、と聞いて思い出されるのは、アンリ・ヴェルヌイユ監督の『過去を持つ愛情(Les amants du Tage)』(1954年フランス映画)と、ヴィム・ヴェンダース監督の『リスボン物語(Lisbon story)』(1994年ドイツ・ポルトガル合作映画)です。この二つ、ひとつは恋愛ミステリー、もうひとつは映画づくり映画と、ジャンルこそ違え、似たようなつくりになっています。
 『過去を持つ愛情』では、主人公のひとりキャスリーンが、イギリスから船でリスボンにやって来ます。港ではパスポートにスタンプをもらっているシーンもあって、税関の存在に、「異国としてのポルトガル」が感じられます。(略)
 『過去を持つ愛情』では、ふたりの主人公が出会うファド・レストランで、ポルトガルを代表するファド歌手アマリア・ロドリゲス(Amália Rodrigues: 1920~1999)が「暗いはしけ(Barco negro)」を歌い、『リスボン物語』では、音楽グループ、マドレデウス(Madre Deus)のテレーザ・サルゲイロ(Teresa Salgueiro)が廃屋のようなビルで、現代風ファド「ギターラ(Guitarra)」などを歌います。ともにストーリーにそれほど絡んでいるわけではないのですが、主人公よりも彼女たちのほうが存在感があり、この街の土地の精霊(ゲニウス・ロキ)が姿を変えて現れたようです。画面には新旧のリスボンの風景があふれ、「歌姫」の歌声とともに映画の舞台のリスボンが主人公にもなるという、そんな映画です。

 1954年製作、同年劇場公開のフランス映画は日本語では『過去をもつ愛情』ですが、フランス語では「テージョ川の恋人たち」となります。

 ところで1950年代末に『どくとるマンボウ航海記』(初版1960年)を書いた北杜夫氏がリスボンを訪問しています。
 アジアの異邦人の登場です。興味ある個所を少し引用しましょう。

 リスボンは新旧混合した実におもむきのある色彩豊かな街である。
 街には急坂が多く、ずいぶんと狭いところまで古びた市電が通っているが、特に急勾配の坂はケイブルカー式になっている。そして、どの道にもさまざまな石が敷きつめられている。パリのモンマルトル辺の石畳のようなものもあれば、こまかくうすい赤い石を敷きつめた道、モザイク風に異なった色の石を敷きつめた通りもある。修理しているところを見ると、丁寧に石を並べてゆく手間のかかる仕事で、それだけ古い歴史の匂いがする。(略)
 そう言えば一五八二年に、豊後、肥前、島原のキリシタン三大名が派遣した少年使節たちが二年半の喜望峰まわりの難航ののち、はじめて上陸したのがこの都市である。
 
 大西洋にそそぐテージョ川の河岸で遊ぶインドからの観光客の家族(写真)を眺めていると、アジアの民として筆者にも、時間と空間を超えて、不思議な異国情緒の気持ちがこみ上げてきました。
  • 入手した映画『過去をもつ愛情』のDVDとケースの写真
  • 晴天の夏、リスボンのアルファマからテージョ川を望む 2017年9月2日(土)
  • リスボンのコメルシオ広場のテージョ川の波止場で 2012年

2020/07/05 15:50:00 民族移動のターミナル、ポルトガルの言語と宗教(1)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 カトリックの国ポルトガルでは初夏の 6 月は人気の聖人たちの祝祭の月です。つまり、13 日が聖アントニオ、24 日が聖ジョアン、29 日が聖ペドロです。この行事は植民地時代のブラジルでは先住民を布教するためのフェスタス・ジュニーナスとなりました。
 さて今回は、ポルトガル語とキリスト教の話です。
 ポルトガルは、イベリア半島の南西部に位置する、面積が日本の九州の2倍強の広さの国です。この地にさまざまな民族移動の波が押し寄せ、現在の文化的基層を形成しました。
 数10万年前から、原人、ネアンデルタール人などさまざまな人類が移り住み、ヨーロッパ大陸からはケルト人、地中海からはフェニキア人やギリシャ人が到来し、現在まで、青銅器や鉄器、住居などの痕跡を残しています。
 紀元前2世紀前半から現在のポルトガルにローマ人が侵入し、そのとき10年間ローマ人に抵抗したルシタニア人の頭領ウィリアートゥスが最古の「ポルトガル人」のひとりとして記録されています。やがてローマ人の支配がはじまります。こんにちのポルトガル語は、ローマ人の「ラテン語」から変化した「ロマンス語」と呼ばれるグループに属します。
 そして不思議なことに、ローマ人のあと到来し、支配したゲルマン人とイスラム教徒のアラブ人は、ラテン語に代わる新しい言語をポルトガルで生まなかったのです。ロマンス語としてポルトガル語が残っていきます。
 重要なことは、ポルトガル王国が独立する直前の11世紀から12世紀にかけてイスラム教徒と戦う北から南へ向かうレコンキスタの運動が起こったことです。この運動の中で、北部の「ガリシア・ポルトガル語」が南部の「ルジタニア・モサラベ語」と接して、北部のガリシア語との違いが明確になり、ポルトガル語が誕生しました。ポルトガルの政治の中心は南に移りますが、北部ガリシアの言語の影響は残ります。
 筆者は2012年の夏、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(写真)を訪問しました。教会橫で食べた、唐辛子のタコと地元の白ワインの組み合わせが絶妙でした。店の主人はブラジルに親戚が移民していると語っていて、私が「ここ出身のブラジルの学生に勧められてやって来た」と言ったら、喜んでくれました(写真)。
 今、日本の戦国時代において、ポルトガル人宣教師の果たしたグローバルな働きが注目されています。ポルトガル人の言語と宗教のグローバルな展開を考えながら、イベリア半島最西端からアジアの最東端に達した南蛮人のことを今一度、振り返ってみましょう。  

 最後にポルトガルの歴史家が述べる、ローマ人の影響について要約しておきます。
 1. ローマ軍が俗ラテン語をしゃべり、伝えた。
 2. ローマの支配後に、キリスト教の聖職者が書き言葉のラテン語を伝えた。ゲルマン民族やイスラム教徒たちは、言葉によって彼らの文化(文明)を教えなかった。
 3. ローマから土木工事などのために来た奴隷身分の人々がポルトガルに定住し、ローマの文化を残した。
  • サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の前で。2012年8月28日(火)
  • 唐辛子のタコと地元の白ワインの組み合わせが絶妙
  • 2012年9月リスボン市サン・ジョルジェ城で。この城は過去、土着のケルト人とイベリア人が占領。のちにローマ人、スエビ人、西ゴート人、ムーア人が支配。レコンキスタによりポルトガルに。

2020/02/19 10:50:00 南蛮空間石見(IWAMI)銀山を歩く (2)

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  • Posted by住田 育法
 永い開発の歴史をもつ巨大な銀山跡(写真参照)を歩くことで、私が心配したのは、水俣病で知られる水銀汚染のことでした。古くは水銀を用いない方法で銀を抽出した石見銀山だったのですが、徳川家康の時代には製錬の工程に水銀を使い始めたようです。
 鉱石から金や銀を抽出する方法には、① 鉛を利用する灰吹法と ② 水銀に溶け込ませるアマルガム法があります。石見銀山は古くは前者でした。
 江戸時代の徳川幕府黎明期、家康の側近としての財政再建を担った「大久保長安」の時代になると、ペルー副王領のポトシ鉱山のように効率の良いアマルガム法を取り入れたようです。ところが徳川幕府期の銀山の繁栄は長くは続かず、自然に配慮した遺跡が今に残ったのです。
 ともあれ、筆者は南蛮の時代に注目しています。そして、石見銀山資料館と石見銀山世界遺産センターの説明に基づいて、環境にやさしい灰吹法をもう少し紹介しましょう。

 銀の製錬工程―灰吹法
吹屋(ふきや)とは製錬所のこと。
 工程1 鏈拵(くさりこしらえ)
 銀鉱石を「要石(かなめいし)」の上に載せてかなづちで砕き、その後、水の中でゆすりながらより分けます(写真参照)。
 工程2 素吹(すぶき)
 細かな銀鉱石に鉛とマンガンなどを加えて溶かし、浮き上がる鉄などの不純物を取り除き、貴鉛(きえん:銀と鉛の合金)を作ります。
工程3 灰吹・清吹(はいふき・きよぶき)
 貴鉛を「灰吹床」で加熱して溶かし、鉛を灰へ染み込ませて、灰の上に銀だけが残るよう分離させます。その後、同様の作業を行い、灰吹銀の純度を上げます。(写真参照)

 水銀を用いない灰吹法では、掘り出した鉱石は細かく砕かれ、金属部分の多い部分がより分けられます。これにマンガン・鉛などの添加物を加えて排出物を作り出すことで不要な部分を取り去ります。科学的調査は、この排出物について科学分析機器を用いて状態の観察や成分を分析し、得られたデータを蓄積、解析することで、戦国時代、江戸時代はどのように製錬していたのかを解明したそうです。技術が途絶えたため謎とされてきた往時の製錬技術について、その工程を科学的に解明した成果は世界的にも貴重と評価されていると石見銀山世界遺産センターが述べています。

 最後に同遺産センターの案内で締めくくりましょう。
 石見銀山遺跡が世界遺産として評価されている理由の1つに、16世紀からすでに環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行っていたことがあげられます。石見銀山での銀の採掘から製錬までの作業は、すべて人力・手作業・小規模で、燃料確保のために植林がされるなど、現地の自然が大幅に改変されることはありませんでした。
  • 龍源寺間歩の「ひおい坑・鉱脈を追って掘った坑道」の跡(筆者撮影)
  • 女性が作業をする吹屋。銀鉱石を要石の上に載せてかなづちで砕き、その後、水の中でゆすり分ける(石見銀山世界遺産センターで筆者撮影)。
  • 灰吹法が石見銀山に導入された当初は鉄鍋を使っていたことが発掘調査によって明らかに。鍋の中に付着した灰から、科学分析により、鉄・マンガン・鉛・カルシウムなどが検出(遺産センターで筆者撮影)。

2020/02/10 17:40:00 南蛮空間石見(IWAMI)銀山を歩く (1)

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  • Posted by住田 育法
 2020年2月の立春、世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」を訪れました。

 松江駅から特急スーパーまつかぜに乗って山陰本線を西へ走り、大田市駅で下車。この駅前からバスで世界遺産の大森町銀山地区へ向かいました。バス停に近い石見銀山資料館(大森代官所跡・写真参照)に立ち寄ります。
 この資料館を出て、まず石見銀山世界遺産センターへ行き、銀山についての丁寧な説明を受け(写真参照)、はるか大航海時代に時空の想像を巡らせながら銀山ゾーンを歩きました。龍源寺間歩では、古い坑道を通り抜けて(写真参照)石見銀山を出発点としたグローバルな「銀の道」に思いを馳せました。

 ポルトガル語圏を学ぶみなさんはぜひ、この地を訪問しましょう。素敵な感動を味わえること、請け合いです。

 石見銀山世界遺産センターが発信している世界と石見銀山との関係についてここで簡単に紹介しておきましょう。
 16世紀(1526年)、石見銀山では、中国から韓国を経て伝わった東アジアの伝統的な精錬技術である灰吹法(はいふきほう)を取り入れることによって銀の現地生産を軌道に乗せ、良質な銀を大量に生産しました。石見銀山で用いられた技術や生産方式は、この後国内の多くの鉱山に伝わり、日本史上まれな銀生産の隆盛をもたらしました。こうして日本で生産された大量の銀は、貿易を通じて16世紀から17世紀の東アジアへ流通しました。この大量の銀が、東洋と西洋の価値の交流に貢献したのです。
  • Teixeira map First published: 1595: Hivami(石見)とHizumi(出雲)の間にArgenti fodinae(銀鉱山)の文字。(石見銀山資料館・大森代官所跡にて筆者撮影)。
  • 石見銀山世界遺産センター解説コーナー壁面の地図。石見銀山から銀がマカオへ、マカオから生糸や陶磁器などが日本へ運ばれたことを表示。日本人にくらべて、中国人や南蛮人たちは「銀 (prata)」をより重宝。(石見銀山世界遺産センターにて筆者撮影)
  • 銀を掘った跡を間歩(まぶ)と呼びます。調査により約6,000カ所見つかっているそうです。その代表的なものが内部を見学できる龍源寺間歩です。(龍源寺間歩にて撮影)。

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