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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS


2017/03/18 21:20:00 南蛮空間、京都を歩く(4)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 「だいうす町」と呼ばれた空間と江戸初期のキリシタン殉教の地:

 先斗町南端の「鴨川」に架かる四条大橋の袂 (たもと) の河原を、川の流れにそって以下のように五条大橋まで歩きました。河原の道の途切れる五条大橋のところで橋に登り、これを渡って川端通りを正面橋まで進むと、川端通りに面して「殉教の石碑」があります。元和 (げんな) キリシタン殉教の地です。正面橋とは、通称が「大仏」もしくは「大仏殿」の方広寺 (ほうこうじ) の「正面」のことです。

 鴨川の北から南へ:
 四条大橋 (しじょうおおはし)
 団栗橋  (どんぐりばし)
 松原橋  (まつばらばし)
 五条大橋  (ごじょうおおはし)
 正面橋  (しょうめんばし)
 七条大橋 (ななじょうおおはし)
 
 映画『沈黙』が描く江戸時代のはじめから1619年の元和 (げんな) の弾圧で、信者50名以上がこの辺りの河原で火刑に処されました。川端通りから西に向かって眺める (写真) と「だいうす」つまり神を意味するDeusの名を冠した今日の菊屋町が望めます。この空間に「南蛮」キリシタンの生活があったのです。

 年表で改めて京都の「南蛮」キリシタンの軌跡を確認しておきましょう。

 1549年 ザビエル薩摩に上陸。
 1550年 ザビエル入洛。ザビエル離京。ビレラ将軍に謁見。
 1559年 京都でのキリスト教布教本格化
 1560年 ビレラ将軍に謁見、布教の許可を得る。
 1576年 礼拝堂再建。
 1582年 本能寺の変、信長自害。
 1585年 秀吉、関白職に就く。
 1586年 秀吉、豊臣の氏を賜り太政大臣に就任。聚楽第の造営を開始。 
 1587年 聚楽第完成。秀吉、宣教師追放令をしき、キリシタン弾圧。
 1589年 御所の修復開始。 
 1590年 秀吉は大規模な京都改造事業に着手。甥の秀次に関白職と聚楽第を譲る。
 1591年 秀吉が外敵の侵入に備えて御土居を築く。朝鮮との戦。千利休、切腹。
 1595年 秀吉、秀次の関白を剥奪、自刃の沙汰。聚楽第の破却を命じ、秀次の子らを処断。
 1596年 宣教師・信者に対する大規模な迫害。
 1598年 秀吉、死去。
 1600年 関ヶ原の戦いで石田三成、敗れる。
 1604年 復興されたヤソ会の天主堂教会があった。
 1605年 秀忠、将軍。
 1612年 徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われる
 1613年、2代将軍・徳川秀忠、二度目の「キリシタン禁令」布告。
 1614年 大坂冬の陣。
 1615年 大坂夏の陣で大坂城、落城し、豊臣、滅亡。
 1616年 家康、死去。
 1618年、秀忠、すべての信者の処刑を命じる。
 1619年 元和五年 京都の大殉教では52名処刑。

 元和 (げんな) キリシタン殉教の場所は、東は方広寺、豊国神社、耳塚へと向かい、西は渉成園 (しょうせいえん) = 枳殻邸 (きこくてい)、東本願寺に通じています。浄土真宗という親鸞聖人が民衆の心を救った仏教の地のそばで、江戸時代の「南蛮」キリシタンが神に祈りを捧げていたのです。
  • 正面橋北の川端通りに1994年に建てられた「元和の殉教の碑」
  • 鴨川五条大橋辺りより北を望む
  • 川端通りより「菊屋町」界隈を望む 遠くに京都タワー

2017/03/13 20:10:00 南蛮空間、京都を歩く(3)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 キリスト教と並んで、南蛮文化として京都の人たちがポルトガル人から受けた影響に、都市空間についての新しい知識があります。

 今から20数年前、マカオに集まったポルトガル人たちと、中国の都市空間についておしゃべりしたことがありました。私が、「散策するのなら、北京よりマカオが良い」と述べると、皆が「北京には街路 (RUA) がない。車道だけ。しかし、上海には街路がある」と説明してくれたことが思い出されます。
 南蛮文化を語るとき、こうした人の営みを重視するヨーロッパ風の都市環境の知識や思想も含まれます。京都も北京と同じく、街路のない、道を馬も荷車も人も通る、雑多な空間であったはずです。ゆっくり風景を楽しみながら散歩するための配慮はなされていなかったでしょう。

 ベンチが置かれた緑地の公園や人のための敷石の舗道などが整備された「南蛮」リスボンなどの街並みのことです。それまでの日本の城にはなかった新しさを取り入れた安土城を建てた信長の後継者秀吉は、京都の都市改造を「南蛮」風に実施しようとしたようです。遠来の異邦の客に「都」の素晴らしさを誇示したい願望があったのでしょう。具体的には、庶民も住む、2階建ての「町家」が展開する住居群と、これを囲む障壁の御土居の建設でした。とくに、それまでの道路に加えて、道路と道路の中間に南北に走る道路を造り、短冊型町割りにして都市空間の有効利用によって街路の商業的発展を促したのです。西陣の町割りは秀吉がつくったと言われています。

 秀吉の都市改造の空間を知るため、今回は西陣を南に向けて歩き、京都御所を含む広い京都御苑の西に造られた聚楽第の空間を実感することにしました。秀吉の好みを知るためです。

 略年表で、秀吉と都市改造について確認しておきましょう。

1585年 秀吉、関白職に就く。
1586年 秀吉、豊臣の氏を賜り太政大臣に就任。聚楽第の造営を開始。 
1587年 聚楽第完成。豊臣秀吉、宣教師追放令をしき、キリシタンを弾圧。
1589年 御所の修復開始。 
1590年 秀吉は大規模な京都改造事業に着手。甥の秀次に関白職と聚楽第を譲る。
1591年 秀吉が外敵の侵入に備えて御土居を築く。朝鮮との戦。千利休、切腹。
1595年 秀吉、秀次の関白を剥奪、自刃の沙汰を下す。聚楽第の破却を命じ、秀次の子らを処断。
1596年 宣教師・信者に対する大規模な迫害始まる。
1598年 秀吉、死去。

 西陣の街並みから一条通りの正親小学校の脇の「この辺り聚楽第跡」の説明の立っている地点まで来ました。南へ向かって土地にくぼみがあるのは、堀の跡でしょうか。丸太町の手前に、以下の説明がありました。
 
 この付近 聚楽第本丸濠跡
 かつてこの一帯には平安時代に平安宮 (大内裏) があったことから「内野」と呼ばれていた。その後、安土桃山時代に平安宮跡北東部分に豊臣秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城があった。
 秀吉は、羽柴秀吉と名乗っていた天正一四年 (1586) に聚楽第の築城を開始し翌一五年に正室の北政所 (おね) 母の大政所とともに大坂城から移り住み政務を執るようになった。その後秀吉と甥で後継者である秀次の二代にわたる関白の城として使われ、豊臣家による洛中支配の象徴として機能した。
 この城は幅二〇mから四三m、深さ六mから八mもある水を湛えた大規模な濠と石垣に守られ、白壁の土塀や多重櫓で囲まれた内側に、檜皮葺の本丸御殿と金箔瓦で飾られた天守や櫓が聳える絢爛豪華な城郭であった。城は内郭と外郭の大きく二つに分かれ、内郭はさらに本丸 南二之丸 北之丸 西之丸に分かれる。
 これまでの考古学的な調査により、この石碑の立つ本丸西側の濠をはじめ、本丸の東側と南側の濠 二之丸の南側と西側の濠 さらに北之丸の北濠と石垣などが明らかにされた。特に本丸東側の濠跡からは多量の金箔瓦が出土し、国の重要文化財に指定されている。天正一六年 (1588) には後陽成天皇の行幸も行われたこの豪壮な城郭も秀次の失脚に伴い、築城者である秀吉の命により文禄四年 (1595) に破却され、わずか九年の短い歴史を閉じている。   平成二十年 六月


 ただ歩くだけの観察でしたが、二条城西の堀のそばから、神泉苑の池にたどり着き、優雅さと権威、そして商工業の実益を兼ね備えた西陣から三条に至る都市空間を秀吉が目指したのであろうと判断できました。
  • この付近 大内裏及聚楽第東濠跡
  • この付近 聚楽第本丸濠跡 正親小学校の北
  • この付近 聚楽第南外濠跡 松林寺

2017/03/11 12:50:00 南蛮空間、京都を歩く(2)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 多くの人がポルトガル語が語源であると説明する先斗町 (ぽんとちょう) の入口に写真の案内板があります。
 平安京「風水」の四神に一致する「地」では、北は「玄武」の「船岡山」、東が「青竜」の「鴨川」です。以下の内容の案内版はこの鴨川に架かる四条大橋の西に立っています。南蛮時代にはキリシタンに繋がる大切な建物が今の先斗町辺りにあったのでは、とする意見もありますが、果たしてどうでしょうか。
 
 京名所 先斗町
 この地はもと鴨川の州であったが寛文十年 (1670) に護岸工事の為埋立て石垣を築き町家が出来て、これを新河原町通りといった。その後三条一筋南から、四条まで、即ち南北600米、東西50米にわたる地域に人家が建ちならび俗に先斗町と呼ぶようになった。正徳二年 (1712) に茶屋、旅籠屋 (はたごや) 両株 (りょうかぶ) と茶立 (ちゃだち) 女子を置くことを許され爾来花柳の街として繁昌、現在に至っている。先斗町の呼び名は、ここの人家が全て川原の西側にたち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれたともいい、葡萄牙(ポルトガル)語 (PONT) 英語の (POINT) の発音によったともいわれる。京の年中行事「鴨川をどり」は明治五年に創始、今日迄京の春秋をあでやかに色どっている。
                京の先斗町会


 案内板の PONT は正しくは、PONTO もしくは PONTA です。『現代ポルトガル語辞典』の説明を確認してみましょう。

 PONTO
 男性名詞、第3語義:地点、箇所 第4語義:現在位置など。
 PONTA
 女性名詞、第1語義:先端 第2語義:尖端 第3語義:(テーブルなどの) 角など。

 漢字の「先斗」は「先ばかり」を意味するので、語源はポルトガル語の「先」を意味する PONTA だとする説があります。ともあれ、先斗町のある鴨川空間の三条河原は、今日の華やいだ お座敷小唄 の風景とは異なり、南蛮時代には恐ろしい処刑場であったため、布教のための地点 PONTO に相当する建物をポルトガル人が造ることはなかったでしょう。「先」ということでは、鴨川の納涼床の風景を連想できますね。家々のPONTA (先) の床が川の流れに向かって並んでいます。ポルトガル人が去ったのちに名前が付けられたのかもしれません。正確な語源はともかく、南蛮ゆかりの空間であると理解できることに興味を持てます。

 この四条大橋から西に向かい堀川通りに出ますと、四条堀川の交差点の南東に位置する病院の壁に、以下の説明が書かれています。
 
二十六聖人発祥の地
 ここから西百メートル妙満寺町に一五九四年フランシスコ会のペドロ・バプティスタ神父により聖マリア教会病院学校スペイン使節館が建てられた。
 一五九七年二月五日に長崎で殉教した二十六聖人は同神父をはじめ五名のフランシスコ会士と三名の日本人イエズス会士および十七名の日本人信者で殆んどここで活動した人であった。
 ここに建設された聖アンナおよび聖ヨゼフ病院は京都最初の西洋式のもので貧しい人が多数収容された。
 ここに二十六聖人を顕彰するとともに救貧救病の社会事業が行われたことを記念して銘板を掲げる。
               一九七九年 駐日スペイン大使 カトリック京都司教院


 住所は、下京区東堀川通り四条下る四条堀川町272-6です。

 スペイン使節館が建てられた1594年はポルトガルがスペインに併合されていたので、ポルトガル人宣教師も混じっていましたが、とくにそれには触れていない表現に納得できます。フランシスコ・ザビエルがスペイン系バスク人でありながら、ポルトガルの植民地で活動したということも含めて、イベリア半島で1つに繋がる彼らの一面に触れた気分になります。ともあれ、420年前殉教した26聖人の活動の場が京都であったということに不思議な懐かしさを覚えます。
  • 京名所先斗町 (ぽんとちょう) 中京区先斗町四条大橋西詰
  • 二十六聖人発祥の地 下京区東堀川通り四条
  • マカオの聖パウロ大聖堂跡芸術博物館展示の二十六聖人殉教の絵

2017/03/09 20:40:00 南蛮空間、京都を歩く(1)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 京都は南蛮、とくにポルトガルの古い歴史の香りを楽しめる街です。
 そこで バスや電車などの無かった南蛮時代の人びとのように、この街をひたすら二本の足で歩いてみましょう。
 まず、古代「風水」の龍の頭、もしくは「四神」の玄武にあたると説かれる、北区船岡山の辺りを出発点として、南東に向けて歩きましょう。船岡山には南蛮キリシタンを保護した信長を祀る建勲神社がありますが、山麓を背に、西陣と堀川を越えます。そして、京都御所の西、上京区油小路通元誓願寺西南角にやってきました。蹴鞠の守護神を祀る白峯神宮のすぐ南です。
 そこに以下の内容の案内版があります。

 此付近慶長天主堂跡 (このふきんけいちょうてんしゅどうあと)
 この付近に、慶長九年 (1604) 頃に復興されたヤソ会の天主堂教会があった。京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正十五年 (1587) 豊臣秀吉が宣教師追放令をしき、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。
 関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天主堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行われた。付近には学校も設けられた。
 しかし慶長十七年 (1612) 、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われてしまった。慶長天主堂が立ったのは、十年に足りない期間であった。        京都市


 慶長9年の1604年は、フランシスコ・ザビエル(1506 - 52年)が入洛した天文18年の1550年から54年目です。ポルトガルは1580年にスペインに併合され、1582年には本能寺の変で信長も自害しています。遙か413年の昔に、この油小路通元誓願寺付近の空間に南蛮キリシタンの日常が存在していたのです。

 この場所から東に歩き、京都御苑の手前で烏丸通りを下がります。途中、旧二条城跡を抜けます。それはちょうど、京都の<東西の通り名の唄>の丸太町通りから蛸薬師通りに至る空間です。

 まる:丸太町通り
 たけ:竹屋町通り
 えびす:夷川通り
 に:二条通り
 おし:押小路通り
 おいけ:御池通り
 あね:姉小路通り
 さん:三条通り
 ろっかく:六角通り
 たこ:蛸薬師通り
 にしき:錦小路通り

 この中京区蛸薬師通室町西入に着きました。するとここには、以下の内容の南蛮寺跡の案内があります。

 此付近南蛮寺跡 (このふきんなんばんじあと) 
 織田信長の時代に、耶蘇 (ヤソ)会 (イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった「南蛮寺」は、この北側、姥柳町 (うばやなぎちょう) の辺りにあったといわれている。
 戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄 (えいろく) 二年 (1559) から本格化し、永禄四年 (1561) にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害に逢 (あ) いながらも、宣教師は布教に努め、織田信長の保護もあって信者は増加した。天正四年 (1576)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝 (むらいさだかつ) の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、七月十六日に献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では珊太満利亜(さんたまりあ)上人(じょうじん)の寺とも呼ばれた。
 しかし、天正十五年 (1587) 六月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地に復興されなかった。    京都市

 当時を略年表で確認してみましょう。

 1549年 ザビエル薩摩に上陸。
 1550年 ザビエル入洛。ザビエル離京。ビレラ将軍に謁見。
 1559年 京都でのキリスト教布教本格化
 1560年 ビレラ将軍に謁見、布教の許可を得る。
 1561年 京都最初の礼拝堂建設。
 1576年 礼拝堂再建。
 1578年 ポルトガル王セバスティアン戦死。
 1580年 スペイン国王、ポルトガル王位を継承し併合。
 1582年 本能寺の変、信長自害。
 1587年 豊臣秀吉、宣教師追放令をしき、弾圧
 1596年 宣教師・信者に対する大規模な迫害始まる。
 
 中京区蛸薬師通室町西入の南蛮寺は京都におけるキリスト教布教が盛んであった時代の1つの証となっています。
  • 此付近慶長天主堂跡、上京区油小路通元誓願寺西南角
  • 旧二条城跡、京都市上京区室町通下立売角
  • 此付近南蛮寺跡、中京区蛸薬師通室町西入

2017/02/21 10:10:00 CPLPを知っていますか(3)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 ポルトガル語圏諸国共同体CPLPの民族や文化について考えてみましょう。

 この加盟9か国の民族や文化の繋がりを理解するためのキーワードは、「異種族混淆」と「多様性」です。ブラジルの歴史家のセルジオ・ブアルケ・デ・オランダがその著『真心と冒険―ラテン的世界―』でポルトガル人を「真心と冒険の民」と表現しますが、これが、ポルトガル語圏の「異種族混淆」の社会を形成するのです。

 「異種族混淆」はポルトガル語ではmiscigenaçãoを用います。先住民、黒人、白人が混ざり合ったブラジルの混血社会を意味します。理論としては、社会人類学者のジルベルト・フレイレが名著『大邸宅と奴隷小屋』で論じたことに重なります。これは1930年代の研究書ですが、近年では、ダルシー・リベイロが『ブラジル人』で民族の混淆として説明しています。

 ポルトガル語圏の人口の8割を超えるブラジルは、混淆によって誕生した寛容の民の国ですが、そのメリットは、違いを認める多様性 diversidade への理解です。そのルーツがヨーロッパのポルトガルにあるのです。

 このように2億を超えて、人口数でCPLPをリードするブラジルは、移民の国ですから、その民族は、欧州系(約48%)、アフリカ系(約8%)、東洋系(約1.1%)、混血(約43%)、先住民(約0.4%)(ブラジル地理統計院、2010年)です。言語はポルトガル語です。宗教はカトリック約65%、プロテスタント約22%、無宗教8%(ブラジル地理統計院、2010年)です。

 一方、植民地時代の宗主国であったヨーロッパのポルトガルの言語は、もちろんポルトガル語、宗教はカトリック教徒が圧倒的多数を占めています。しかし、人口はブラジルの二十分の一以下です。この現実が、異種族混淆の真心のある寛容なCPLPを育てたのです。

 アフリカ のアンゴラの民族 (地図参照)は、バントゥー系民族に属するオヴィンブンドゥ族(37%)、キンブンドゥ族(25%)、バコンゴ族(15%)などです。言語はポルトガル語が公用語、その他ウンブンドゥ語などが用いられます。宗教はアフリカの在来宗教(47%)、(38%)、プロテスタント(15%)です。

 カーボヴェルデの民族はポルトガル人とアフリカ人の混血が約70%。言語はポルトガル語(公用語)、クレオール語です。宗教は、キリスト教(カトリック)
です。

 ニアビサウの民族は、バランタ、フラ、マンジャカ、マンディンカ、パペウなどです。言語はポルトガル語が公用語、宗教は原始宗教とイスラム教、キリスト教です。

 モザンビークの民族 (地図参照)は、マクア・ロムウェ族など43部族からなります。言語はポルトガル語、宗教はキリスト教(41%)、イスラム教(17.8%)、原始宗教です。

 サントメ・プリンシペの民族はバンツー系及びポルトガル人との混血です。言語はポルトガル語、宗教はキリスト教です。現在のCPLPの事務総長がこの国の人です。

 赤道ギニアの民族は、ファン族、ブビ族、コンベ族、ベレンゲ族など、言語はスペイン語(公用語)、仏語(第2公用語)、ポルトガル語(第3公用語)、ファン語、ブビ語です。宗教はキリスト教(99%)と伝統宗教です。

 最後に、アジアの東ティモールの民族は、テトゥン族等大半がメラネシア系。その他マレー系、中華系等、ポルトガル系を主体とする欧州人及びその混血などです。言語は、国語がテトゥン語及びポルトガル語です。実用語に、インドネシア語及び英語。その他多数の部族語が使用されています。宗教はキリスト教99.1%(大半がカトリック)、イスラム教0.79%です。
  • 多様なブラジル人を描いた1933年の絵 Operários - Tarsila do Amaral - 1933
  • アンゴラの民族地図
  • モザンビークの民族地図

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