卒業生の今
2025/02/15 12:50:00 タイで駐在員として活躍する高橋英孝さん(1984年度卒)
卒業生の今
岐部雅之
サワディカップ(タイ語でこんにちは)。
1985年3月にブラジルポルトガル語学科を卒業した高橋です。大学で4年間学んだブラジルポルトガル語で「Como está ?(コモエスタ)」と本来は挨拶すべきですが、2015年11月からタイ・バンコクでの生活が始まり9年が経ちました。62歳となり、学んだ言葉は殆ど忘れ、今ではタイ語が日常生活に欠かせない言葉になっています。
今回の投稿では、私のタイ語との出会いお伝えしたいと思います。大学時代は体育会系ラグビー部に所属し、アルバイトはファミリーレストラン「ジョイ・美濃吉」と、ガッツと接客、そして大学で学んだ外国為替を売り込んで、私は地元の岐阜信用金庫に入庫しました。地域金融機関の仕事ではポルトガル語は無縁と思っていましたが、1990年に入ると「ブラジル危機」により多くの日系ブラジル人が日本で働くようになって来ました。
取引先の社長から、「ブラジル人たちは日本の通貨をドルに換えて、タンスに保管しているから、銀行に預ける様に伝えて欲しい」と話があり、ポルトガル語の辞書を持参し、必死に話しかけた事がきっかけとなり、ブラジル人従業員から米ドルを預かることが出来ました。この話題が当時の支店長から、本部に伝わり、30歳の時に国際部へ異動となりました。
国際部では外為業務とは少し違う、為替ディーラー担当となり、ドルの売買や、外貨資金の調達、運用などを行いながら、営業店の窓口で日系ブラジル人が口座開設時に戸惑う事のないように翻訳を手掛けました。
34歳からは一般店舗で融資実務や支店長として店舗マネージメントに携わりましたが、49歳(2012年)に再度国際部(現・市場国際部)に戻り、尖閣問題から脱中国の流れや東日本大震災から、BCP(事業継続計画)による中小企業の海外進出が加速する中、庫内でも海外ビジネスサポートのニーズが高まり、当金庫も2015年に駐在員事務所をバンコクに開設し、私が駐在員事務所の開設準備に携わった事もあり、52歳でバンコクへ単身赴任となり、現在に至っています。駐在員事務所では、既に海外へ進出している企業への情報提供をはじめ、海外へ進出する企業や販路を求める企業の現地でのサポートなどが主な業務となっています。
それでも時々バンコクの国際展示会場でブラジルのブースやバンコク市内にあるブラジル料理店を訪ね、ブラジルやポルトガルとの関りを持とうと思っています。言葉を勉強する事は、その国をリスペクトする意味と最近思うようになって来ました。
私のバンコク生活はもう少し続きます。是非、外大生、OBの皆様も機会がありましたら、バンコクで会いましょう。
ありがとうございました(タイ語でコップンカップ)。
1985年3月にブラジルポルトガル語学科を卒業した高橋です。大学で4年間学んだブラジルポルトガル語で「Como está ?(コモエスタ)」と本来は挨拶すべきですが、2015年11月からタイ・バンコクでの生活が始まり9年が経ちました。62歳となり、学んだ言葉は殆ど忘れ、今ではタイ語が日常生活に欠かせない言葉になっています。
今回の投稿では、私のタイ語との出会いお伝えしたいと思います。大学時代は体育会系ラグビー部に所属し、アルバイトはファミリーレストラン「ジョイ・美濃吉」と、ガッツと接客、そして大学で学んだ外国為替を売り込んで、私は地元の岐阜信用金庫に入庫しました。地域金融機関の仕事ではポルトガル語は無縁と思っていましたが、1990年に入ると「ブラジル危機」により多くの日系ブラジル人が日本で働くようになって来ました。
取引先の社長から、「ブラジル人たちは日本の通貨をドルに換えて、タンスに保管しているから、銀行に預ける様に伝えて欲しい」と話があり、ポルトガル語の辞書を持参し、必死に話しかけた事がきっかけとなり、ブラジル人従業員から米ドルを預かることが出来ました。この話題が当時の支店長から、本部に伝わり、30歳の時に国際部へ異動となりました。
国際部では外為業務とは少し違う、為替ディーラー担当となり、ドルの売買や、外貨資金の調達、運用などを行いながら、営業店の窓口で日系ブラジル人が口座開設時に戸惑う事のないように翻訳を手掛けました。
34歳からは一般店舗で融資実務や支店長として店舗マネージメントに携わりましたが、49歳(2012年)に再度国際部(現・市場国際部)に戻り、尖閣問題から脱中国の流れや東日本大震災から、BCP(事業継続計画)による中小企業の海外進出が加速する中、庫内でも海外ビジネスサポートのニーズが高まり、当金庫も2015年に駐在員事務所をバンコクに開設し、私が駐在員事務所の開設準備に携わった事もあり、52歳でバンコクへ単身赴任となり、現在に至っています。駐在員事務所では、既に海外へ進出している企業への情報提供をはじめ、海外へ進出する企業や販路を求める企業の現地でのサポートなどが主な業務となっています。
それでも時々バンコクの国際展示会場でブラジルのブースやバンコク市内にあるブラジル料理店を訪ね、ブラジルやポルトガルとの関りを持とうと思っています。言葉を勉強する事は、その国をリスペクトする意味と最近思うようになって来ました。
私のバンコク生活はもう少し続きます。是非、外大生、OBの皆様も機会がありましたら、バンコクで会いましょう。
ありがとうございました(タイ語でコップンカップ)。
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駐在員事務所のタイ人スタッフYuriさんと
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バンコクにあるブラジル料理店
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バンコクで食べたブラジル料理
2025/01/29 14:00:00 KUFSでの思い出(2)―加々美愛マリアンジェラさん(2009年度卒)
卒業生の今
ペドロ・アイレス
本学科卒業生の加々美愛マリアンジェラさんから、「KUFSでの思い出(2)」をご寄稿いただきました(全3回)。
・・・・・
③語劇
ポルトガル語研究会に所属していました。中高6年間、演劇部に所属していたので、「ポルトガル語で芝居ができるなんて!」と、滅多にできない経験ができる環境に大変興奮しました。
2年次のとき、高校時代の友人が書いた悲恋系の脚本をお借りして、部員全員でポルトガル語に翻訳し、先生方や母に協力をお願いして脚本を完成させました。
演劇部員だった知識と技術が功を奏し、ほぼ全ての賞をポル研が受賞し、総合優勝も果たしました。舞台上で、部員たちが私を胴上げしてくれました。
賞の獲得で評価されたことも嬉しかったですが、私たちの芝居を見て、ブラジル人の先生が涙を流してくださったことが何よりのご褒美でした。私たちのポルトガル語が、脚本の「悲恋」という切ない世界観を表現し、ネイティブの方の心に通じたという事実が、言葉では表現できないほどの感動と喜びを私に与えてくれました。
④サンパウロ大学留学
3年次の秋、「留学しないか」という話が突然浮上しました。なかなか決断できなかったところで、最後に背中を押してくださったのはペドロ・アイレス先生でした。
「チャンスは、欲しくても巡ってこない。失ったら取り戻せない。今、愛さんにはチャンスがある」
この言葉をきっかけに、私はすぐに留学の準備を始めました。
11月末に決断し、2月に渡航するという異例の事態で、地元の東京まで書類を集めに奔走しました。大学事務局もこの例外的な出来事に迅速に対応してくださいました。
留学先では、勉強を頑張りすぎたストレスで、髪の毛が半分抜けてしまいました。「大学院で前置詞の辞書を作りたい」というマニアックな夢がありましたが、この事態を受けて諦めました。
ですが、サンパウロでの様々な出会いを経て、俳優の道に進む決断をしました。KUFS卒業後の俳優の養成所で経験したこともまた、ポルトガル語の発音の先生として活動するための基礎となりました。
休学をして留学したので、一緒に卒業する友人はほとんどいませんでした。卒業式には控えめに出席しようと考え、東京の自宅で気を抜いていたところ、大学事務局から「学科代表として、卒業証書を受け取ってほしい」という連絡がありました。急いで卒業袴を手配しました。
大変光栄なことでした。最後の最後に「私はKUFSを愛し、KUFSに愛されている」という実感がどんどん膨らんでいき、現在でもその気持ちを抱いています。
※KUFSの思い出(3)に続く
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③語劇
ポルトガル語研究会に所属していました。中高6年間、演劇部に所属していたので、「ポルトガル語で芝居ができるなんて!」と、滅多にできない経験ができる環境に大変興奮しました。
2年次のとき、高校時代の友人が書いた悲恋系の脚本をお借りして、部員全員でポルトガル語に翻訳し、先生方や母に協力をお願いして脚本を完成させました。
演劇部員だった知識と技術が功を奏し、ほぼ全ての賞をポル研が受賞し、総合優勝も果たしました。舞台上で、部員たちが私を胴上げしてくれました。
賞の獲得で評価されたことも嬉しかったですが、私たちの芝居を見て、ブラジル人の先生が涙を流してくださったことが何よりのご褒美でした。私たちのポルトガル語が、脚本の「悲恋」という切ない世界観を表現し、ネイティブの方の心に通じたという事実が、言葉では表現できないほどの感動と喜びを私に与えてくれました。
④サンパウロ大学留学
3年次の秋、「留学しないか」という話が突然浮上しました。なかなか決断できなかったところで、最後に背中を押してくださったのはペドロ・アイレス先生でした。
「チャンスは、欲しくても巡ってこない。失ったら取り戻せない。今、愛さんにはチャンスがある」
この言葉をきっかけに、私はすぐに留学の準備を始めました。
11月末に決断し、2月に渡航するという異例の事態で、地元の東京まで書類を集めに奔走しました。大学事務局もこの例外的な出来事に迅速に対応してくださいました。
留学先では、勉強を頑張りすぎたストレスで、髪の毛が半分抜けてしまいました。「大学院で前置詞の辞書を作りたい」というマニアックな夢がありましたが、この事態を受けて諦めました。
ですが、サンパウロでの様々な出会いを経て、俳優の道に進む決断をしました。KUFS卒業後の俳優の養成所で経験したこともまた、ポルトガル語の発音の先生として活動するための基礎となりました。
休学をして留学したので、一緒に卒業する友人はほとんどいませんでした。卒業式には控えめに出席しようと考え、東京の自宅で気を抜いていたところ、大学事務局から「学科代表として、卒業証書を受け取ってほしい」という連絡がありました。急いで卒業袴を手配しました。
大変光栄なことでした。最後の最後に「私はKUFSを愛し、KUFSに愛されている」という実感がどんどん膨らんでいき、現在でもその気持ちを抱いています。
※KUFSの思い出(3)に続く
2024/12/13 13:40:00 KUFSでの思い出(1)―加々美愛マリアンジェラさん(2009年度卒)
卒業生の今
岐部雅之
2009年度卒、加々美 愛と申します。ブラジル国籍の名前はMariângela Ay Kagamiです。
サンバミュージシャンの日本人の父と、日系ブラジル人の母の間に生まれました。
「二重国籍を持っているのにポルトガル語を話せない」ことがコンプレックスで、KUFSを受験しました。東京から京都の大学に進学する人は珍しいですが、この決断が私の人生を飛躍的に躍進させてくれました。
入学直後、初めて聞くポルトガル語文法なのに、スポンジが水を吸収するかの如く、1度の解説で内容がすんなりと入ってきました。幼少期からポルトガル語に触れているということもあったと思いますが、「これが私の生きる道だから、理解が早いんだ」と、1号館の教室で、根拠のない確信を持った瞬間を今でも覚えています。
KUFSでの生活は、今の私の礎です。どのような出来事や事件が私を成長させてくれたのか、印象的なエピソードをいくつか紹介いたします。
①ポルトガルセミナー
私は2年次から3年次に上がる春休みに参加しました。ブラジルにしか行ったことがなかった私にとって、ヨーロッパへのフライト時間はかなり短く感じられました。初めて行くポルトガルは美しく、刺激的で、必ずまた訪れたい国です。
発音の授業で、ブラジルにはない2つの母音[ɐ]と[ɨ]の音だけ、なかなか合格できなかったことを覚えています。それに付随して、お店などでブラジルのポルトガル語で話しかけてもなかなか通じなかったことも印象的でした。アジア人だと認識されると、気を利かせて英語で話しかけてくれたのもヨーロッパならではの風習です。「同じポルトガル語なのに、ブラジルとは全く違う文化なんだ」ということを身をもって感じました。
②京都研究プロジェクト
「各学科のそれぞれの言語で京都を案内する資料を作ろう」というプロジェクトがありました。私はそのチームに参加し、「京都よーじや」「太秦映画村」について調べ、先生方にご協力いただいてポルトガル語で観光資料を作りました。現在、サイト閲覧は休止中のようですが、京都という街に貢献できたことがとても嬉しく、また、その機会を作ってくださった大学のプログラムにも感謝しています。
※KUFSの思い出(2)に続く
サンバミュージシャンの日本人の父と、日系ブラジル人の母の間に生まれました。
「二重国籍を持っているのにポルトガル語を話せない」ことがコンプレックスで、KUFSを受験しました。東京から京都の大学に進学する人は珍しいですが、この決断が私の人生を飛躍的に躍進させてくれました。
入学直後、初めて聞くポルトガル語文法なのに、スポンジが水を吸収するかの如く、1度の解説で内容がすんなりと入ってきました。幼少期からポルトガル語に触れているということもあったと思いますが、「これが私の生きる道だから、理解が早いんだ」と、1号館の教室で、根拠のない確信を持った瞬間を今でも覚えています。
KUFSでの生活は、今の私の礎です。どのような出来事や事件が私を成長させてくれたのか、印象的なエピソードをいくつか紹介いたします。
①ポルトガルセミナー
私は2年次から3年次に上がる春休みに参加しました。ブラジルにしか行ったことがなかった私にとって、ヨーロッパへのフライト時間はかなり短く感じられました。初めて行くポルトガルは美しく、刺激的で、必ずまた訪れたい国です。
発音の授業で、ブラジルにはない2つの母音[ɐ]と[ɨ]の音だけ、なかなか合格できなかったことを覚えています。それに付随して、お店などでブラジルのポルトガル語で話しかけてもなかなか通じなかったことも印象的でした。アジア人だと認識されると、気を利かせて英語で話しかけてくれたのもヨーロッパならではの風習です。「同じポルトガル語なのに、ブラジルとは全く違う文化なんだ」ということを身をもって感じました。
②京都研究プロジェクト
「各学科のそれぞれの言語で京都を案内する資料を作ろう」というプロジェクトがありました。私はそのチームに参加し、「京都よーじや」「太秦映画村」について調べ、先生方にご協力いただいてポルトガル語で観光資料を作りました。現在、サイト閲覧は休止中のようですが、京都という街に貢献できたことがとても嬉しく、また、その機会を作ってくださった大学のプログラムにも感謝しています。
※KUFSの思い出(2)に続く
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サンパウロ留学中(2008年)
2024/10/15 12:00:00 京都市内でAzulejo Picoを経営する深越純江さん(1994年度卒)
卒業生の今
岐部雅之
ブラジルポルトガル語学科では2023年に創立55周年を迎えて同窓会を開催したあと、2024年から同窓会事務局を発足させました。
卒業生と在学生のつながりを密にしながら、本学科を目指す高校生にも先輩方の活躍をお知らせしていきたいと思います。
学科ブログに新カテゴリー「卒業生の今」を追加しました。
今回は、ポルトガルの装飾タイル「アズレージョ」の直輸入販売を手掛ける深越純江さん(1994年度卒)に寄稿していただきました。
・・・・・
地元の京都、御所西でポルトガルの伝統産業、顔ともいえるアズレージョ(装飾タイル)を直輸入販売しております。
店舗を持ってから足掛け10年、創業からすれば20年くらい経ちます。
新築やリフォームのタイミングでタイルではなく“アズレージョ”をわざわざご所望頂くお客様も増えてきました。
ポルトガルの歴史を眺め続けてきたアズレージョで日本の皆様にポルトガルの文化に親しんでもらうことも当店の大きなミッションです。
・・・・・
同窓会事務局では、メールによる不定期のニュースレターを発行しています。
配信ご希望の方は、lusofonia.kufs1967[ ]gmail.comまでお問い合わせください(※[ ]内を@に要変更)。
現在、深越さんのお店には大学の学生募集と学科の案内ポスターが掲示されています(写真参照)。
ご協力ありがとうございます!
卒業生と在学生のつながりを密にしながら、本学科を目指す高校生にも先輩方の活躍をお知らせしていきたいと思います。
学科ブログに新カテゴリー「卒業生の今」を追加しました。
今回は、ポルトガルの装飾タイル「アズレージョ」の直輸入販売を手掛ける深越純江さん(1994年度卒)に寄稿していただきました。
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地元の京都、御所西でポルトガルの伝統産業、顔ともいえるアズレージョ(装飾タイル)を直輸入販売しております。
店舗を持ってから足掛け10年、創業からすれば20年くらい経ちます。
新築やリフォームのタイミングでタイルではなく“アズレージョ”をわざわざご所望頂くお客様も増えてきました。
ポルトガルの歴史を眺め続けてきたアズレージョで日本の皆様にポルトガルの文化に親しんでもらうことも当店の大きなミッションです。
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同窓会事務局では、メールによる不定期のニュースレターを発行しています。
配信ご希望の方は、lusofonia.kufs1967[ ]gmail.comまでお問い合わせください(※[ ]内を@に要変更)。
現在、深越さんのお店には大学の学生募集と学科の案内ポスターが掲示されています(写真参照)。
ご協力ありがとうございます!
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Azulejo Picoへようこそ
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店内のアズレージョの様子
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大学/学科の案内ポスター