ブラジル紹介
2016/11/16 05:00:00 南米ブラジルのフロンティアの西進(3)
ブラジル紹介
住田 育法
19世紀におけるブラジルのフロンティアの西進は、コーヒー栽培地で起こりました。それは、リオデジャネイロ(以下、リオと記す)からサンパウロに向けての前進でした。
皆さんは冷たい草原を数日間、野営をしながら移動したことはありますか。夜が明けると、寝具を片付けて、火を熾し、湯を湧かします。このとき、お茶を飲むか、白湯(さゆ)で我慢するか、あるいは南米カウボーイのガウチョ(ブラジルではガウーショ)のようにマテ茶をすするか、それともコーヒーか。さてどうでしょう。私は今、アメリカ映画の西部劇のシーンを思い出しています。拳銃を腰に下げたアメリカ合衆国のカウボーイは、コーヒーですね。
要するに、19世紀にアメリカ合衆国の人々が大量のコーヒーを飲み始め、地理的に近い南米ブラジルの南部で大量のコーヒーの生産が始まったのです。それも、桁外れの量でした。
ある産業が劇的な発展を遂げるときには、投資のための豊かなカネ、労働のための大量のヒト、生産のための広大な土地が必要です。19世紀ブラジル南東部のリオのコーヒー生産には、このすべてが揃ったのです。カネを出したのは最初はジョアン六世の下で資金力を得たポルトガル商人や当時の世界の金融界を支配するイギリスの資本家たち、労働力は未だ続いていた奴隷制下の黒人奴隷、土地は熱帯の豊かな大西洋林を切り拓きました。そしてブラジル人の活躍もありました。独立した首都リオの企業活動家たちです。消費者は、お茶ではなくコーヒーを飲み始めた米国人たち。奴隷貿易停止問題の解決によって、19世紀後半におけるブラジルとイギリスの関係が修復し、鉄道を中心に商業、海運、保険、銀行などコーヒーに関連する種々の活動にイギリス資本が殺到したのです。
北部のオランダ領ギアナ、現在のスリナムを経由して、1727年にコーヒーの苗木がブラジルに導入されました。以後、北部でわずかに栽培されていたコーヒーは、19世紀の初頭には主要な商品作物となり、同世紀後半にはブラジル経済を支える重要な輸出品となったのです。
最初はリオであったコーヒーの栽培地は、やがて栽培に適した未開拓地を求めて、パライーバ川流域の渓谷に移動し、驚異的な発展を遂げます。しかし、リオの初期のコーヒー栽培地は、土地の疲弊や農業技術が低いために、衰退の兆候が見られました。やがて、新しい土地の開拓のために、隣接地域のサンパウロへと移動を始めます。サンパウロ西部の肥沃な地域に移動を続け、1870-71年にブラジルコーヒーの輸出量は、ブラジルの輸出総額の半分を占めるまでになります。
こうした西の内陸部への前進をサンパウロが進めるとき、隣国のパラグアイは海への出口を求めて、軍事力によって東への展開を望み、ブラジルとパラグアイは軍事的な衝突を起こしたのです。これが、パラグアイの男性の80%が死亡した伝えられる、6年にわたるパラグアイ戦争(1864-70年)だったのです。歴史が不思議な事実を語っています。ナポレオン軍を目標とした当時南米最強と思われたパラグアイの精鋭の軍隊が、黒人奴隷やリオのならず者たちを主力に加えたブラジルの軍隊に大敗したのです。
皆さんは冷たい草原を数日間、野営をしながら移動したことはありますか。夜が明けると、寝具を片付けて、火を熾し、湯を湧かします。このとき、お茶を飲むか、白湯(さゆ)で我慢するか、あるいは南米カウボーイのガウチョ(ブラジルではガウーショ)のようにマテ茶をすするか、それともコーヒーか。さてどうでしょう。私は今、アメリカ映画の西部劇のシーンを思い出しています。拳銃を腰に下げたアメリカ合衆国のカウボーイは、コーヒーですね。
要するに、19世紀にアメリカ合衆国の人々が大量のコーヒーを飲み始め、地理的に近い南米ブラジルの南部で大量のコーヒーの生産が始まったのです。それも、桁外れの量でした。
ある産業が劇的な発展を遂げるときには、投資のための豊かなカネ、労働のための大量のヒト、生産のための広大な土地が必要です。19世紀ブラジル南東部のリオのコーヒー生産には、このすべてが揃ったのです。カネを出したのは最初はジョアン六世の下で資金力を得たポルトガル商人や当時の世界の金融界を支配するイギリスの資本家たち、労働力は未だ続いていた奴隷制下の黒人奴隷、土地は熱帯の豊かな大西洋林を切り拓きました。そしてブラジル人の活躍もありました。独立した首都リオの企業活動家たちです。消費者は、お茶ではなくコーヒーを飲み始めた米国人たち。奴隷貿易停止問題の解決によって、19世紀後半におけるブラジルとイギリスの関係が修復し、鉄道を中心に商業、海運、保険、銀行などコーヒーに関連する種々の活動にイギリス資本が殺到したのです。
北部のオランダ領ギアナ、現在のスリナムを経由して、1727年にコーヒーの苗木がブラジルに導入されました。以後、北部でわずかに栽培されていたコーヒーは、19世紀の初頭には主要な商品作物となり、同世紀後半にはブラジル経済を支える重要な輸出品となったのです。
最初はリオであったコーヒーの栽培地は、やがて栽培に適した未開拓地を求めて、パライーバ川流域の渓谷に移動し、驚異的な発展を遂げます。しかし、リオの初期のコーヒー栽培地は、土地の疲弊や農業技術が低いために、衰退の兆候が見られました。やがて、新しい土地の開拓のために、隣接地域のサンパウロへと移動を始めます。サンパウロ西部の肥沃な地域に移動を続け、1870-71年にブラジルコーヒーの輸出量は、ブラジルの輸出総額の半分を占めるまでになります。
こうした西の内陸部への前進をサンパウロが進めるとき、隣国のパラグアイは海への出口を求めて、軍事力によって東への展開を望み、ブラジルとパラグアイは軍事的な衝突を起こしたのです。これが、パラグアイの男性の80%が死亡した伝えられる、6年にわたるパラグアイ戦争(1864-70年)だったのです。歴史が不思議な事実を語っています。ナポレオン軍を目標とした当時南米最強と思われたパラグアイの精鋭の軍隊が、黒人奴隷やリオのならず者たちを主力に加えたブラジルの軍隊に大敗したのです。
-
リオのコーヒー栽培地ヴァソーラスの19世紀の鉄道の機関車
-
ヴァソーラスの過去のコーヒー業者の館
-
第二帝政期のサンパウロ県の地図 1886年
2016/11/13 12:10:00 南米ブラジルのフロンティアの西進(2)
ブラジル紹介
住田 育法
北米の超大国アメリカ合衆国と南米の大国ブラジルの違いは、国境を接している国の数が大きく異なることです。二つの海に挟まれているアメリカ合衆国は、北はカナダ、アラスカも西側はロシアのみ、そして南はメキシコ1ヵ国。一方ブラジルは、東は大西洋ですが、北は、東からフランス語圏の仏領ギアナ、オランダ語圏スリナム、英語圏ガイアナ、そしてスペイン語が公用語のベネズエラとコロンビアです。アンデス山脈が壁のように聳えるブラジルの西側には、ペルーとボリビアが連なっています。そして南西には、パラグアイとアルゼンチン、南にはウルグアイです。
多くの国と国境を接するブラジルは、特に開かれた空間となっている南のフロンティアで紛争を経験しています。南のウルグアイはムヒカ前大統領が来日し、「世界一貧しい大統領」の国として有名になりましたが、18世紀にポルトガルの植民地ブラジルの領土問題が深刻になったとき、この地はスペイン領からポルトガル領へ、さらにスペイン語圏の独立国家へと、深刻な紛争を起こしました。
歴史をさかのぼってみましょう。
1755年、ポルトガルの首都リスボンは大地震によって壊滅的被害に見舞われました。この悲劇の中で、宰相ポンバル侯が、本国ポルトガルと植民地ブラジルの変革を実行したのです。しかし、18世紀後半のブラジルは砂糖価格の下落や産金量の減少によって経済的不況に陥ります。1776年に今日のアメリカ合衆国が独立を宣言し、1789年には旧体制に終止符を打つフランス革命が起こり、西洋世界は大きく変化します。フランスと対立するイギリスは、産業革命を進め、国際交易の支配によって、世界最強の国に変貌しました。
大航海時代の繁栄は遙か過去のものとなっていた小国ポルトガルは、フランスやスペインの脅威に対抗するため、18世紀にはイギリスへの従属を深めます。しかし、最大の植民地ブラジルに対するイギリスの影響力を抑えようと努めました。それが、対ブラジルの貿易会社の設立でした。さらに、王権の中央集権化を進めるためにイエズス会をポルトガル本国とその植民地から追放し、その財産を没収したのです。
ブラジルの南方の領土について、18世紀にポルトガルとスペインは、領土の交換を行います。それは、現在のウルグアイの首都モンテビデオの近くに築いたコロニア・ド・サクラメントを放棄し、先住民とイエズス会士の土地であった「七つの布教村(Sete Povos das Missões)を獲得することでした。ところが、南部の国境をめぐる紛争は終わりませんでした。1761年のエル・プラード協定でマドリット条約が無効とされ、1777年のサント・イルデフォンソ条約では、「七つの布教村」がスペイン領に戻されたのです。それでも、ポルトガルは、その領有を諦めませんでした
すでに述べた1750年マドリッド条約によって、ポルトガルとスペインの両王は南米植民地の境界線を確定する協議をして、条約に調印しました。その際、ブラジル側になった「七つの布教村」のイエズス会士たちは立ち退きを拒否しました。1753年からスペイン、ポルトガル両王は討伐軍を出し、1756年に村は破壊されました。先住民たちは教会や住居に火を放って逃走し、石造りの部分だけが焼け残ったのです。「グァラニー戦争」と呼ばれる戦いの結果、ポンバル侯は、1759年に植民地ブラジルからイエズス会士を追放します。さらに1768年に隣接のスペイン王朝に追放を働きかけ、パラグアイからアルゼンチンにかけて存在した30余の「布教村」はすべて廃墟となったのです。
19世紀の1822年にブラジルが帝国として独立すると、ブラジル帝国軍が占拠した南部のバンダ・オリエンタルで1825年に反乱が勃発し、この地方のブラジルからの分離と独立が宣言されます。そして、ブラジルとアルゼンチンのブエノスアイレスとの間で戦争が始まったのです。1827年にブラジルはイトゥサインゴの会戦で敗れ、イギリスの仲介で和平条約を結び、領土紛争に終止符を打ちました。ウルグアイの独立を認めたのです。
多くの国と国境を接するブラジルは、特に開かれた空間となっている南のフロンティアで紛争を経験しています。南のウルグアイはムヒカ前大統領が来日し、「世界一貧しい大統領」の国として有名になりましたが、18世紀にポルトガルの植民地ブラジルの領土問題が深刻になったとき、この地はスペイン領からポルトガル領へ、さらにスペイン語圏の独立国家へと、深刻な紛争を起こしました。
歴史をさかのぼってみましょう。
1755年、ポルトガルの首都リスボンは大地震によって壊滅的被害に見舞われました。この悲劇の中で、宰相ポンバル侯が、本国ポルトガルと植民地ブラジルの変革を実行したのです。しかし、18世紀後半のブラジルは砂糖価格の下落や産金量の減少によって経済的不況に陥ります。1776年に今日のアメリカ合衆国が独立を宣言し、1789年には旧体制に終止符を打つフランス革命が起こり、西洋世界は大きく変化します。フランスと対立するイギリスは、産業革命を進め、国際交易の支配によって、世界最強の国に変貌しました。
大航海時代の繁栄は遙か過去のものとなっていた小国ポルトガルは、フランスやスペインの脅威に対抗するため、18世紀にはイギリスへの従属を深めます。しかし、最大の植民地ブラジルに対するイギリスの影響力を抑えようと努めました。それが、対ブラジルの貿易会社の設立でした。さらに、王権の中央集権化を進めるためにイエズス会をポルトガル本国とその植民地から追放し、その財産を没収したのです。
ブラジルの南方の領土について、18世紀にポルトガルとスペインは、領土の交換を行います。それは、現在のウルグアイの首都モンテビデオの近くに築いたコロニア・ド・サクラメントを放棄し、先住民とイエズス会士の土地であった「七つの布教村(Sete Povos das Missões)を獲得することでした。ところが、南部の国境をめぐる紛争は終わりませんでした。1761年のエル・プラード協定でマドリット条約が無効とされ、1777年のサント・イルデフォンソ条約では、「七つの布教村」がスペイン領に戻されたのです。それでも、ポルトガルは、その領有を諦めませんでした
すでに述べた1750年マドリッド条約によって、ポルトガルとスペインの両王は南米植民地の境界線を確定する協議をして、条約に調印しました。その際、ブラジル側になった「七つの布教村」のイエズス会士たちは立ち退きを拒否しました。1753年からスペイン、ポルトガル両王は討伐軍を出し、1756年に村は破壊されました。先住民たちは教会や住居に火を放って逃走し、石造りの部分だけが焼け残ったのです。「グァラニー戦争」と呼ばれる戦いの結果、ポンバル侯は、1759年に植民地ブラジルからイエズス会士を追放します。さらに1768年に隣接のスペイン王朝に追放を働きかけ、パラグアイからアルゼンチンにかけて存在した30余の「布教村」はすべて廃墟となったのです。
19世紀の1822年にブラジルが帝国として独立すると、ブラジル帝国軍が占拠した南部のバンダ・オリエンタルで1825年に反乱が勃発し、この地方のブラジルからの分離と独立が宣言されます。そして、ブラジルとアルゼンチンのブエノスアイレスとの間で戦争が始まったのです。1827年にブラジルはイトゥサインゴの会戦で敗れ、イギリスの仲介で和平条約を結び、領土紛争に終止符を打ちました。ウルグアイの独立を認めたのです。
-
ブラジル人がマドリッド条約を理解するための歴史地図
-
布教村に対する戦いを描いた映画『ミッション』のポスター
-
ドイツ人Herrmann Rudolf Wendrothの南部の紛争地域の古地図、1852年
2016/11/11 18:10:00 南米ブラジルのフロンティアの西進(1)
ブラジル紹介
住田 育法
北米の超大国アメリカ合衆国の西部開拓のように、南米のブラジルも大西洋岸の東部から大陸を西に向けてフロンティアを移動させました。ブラジル開拓の西部への行進です。違っていたのは、植民の歴史の早い段階から、広大なブラジル高地の奥深く、ポルトガル人の遠征と居住が実現したことです。ブラジル高地の中心部から北、南、東へと拡散した大河を利用して、特に17世紀には銃を手にしたポルトガル人たちが前進していったのです。薄く広く拡散した彼らは、歴史の歩みの中で、先住民との混淆を進めながら、その濃さを深めていきました。異種族混淆社会の形成です。そのころ北アメリカの西部は、未だ先住民インディアンのみの空間でした。
1500年にブラジルの「発見」が正式にポルトガル国王マヌエル一世によって宣言されました。国王はまず、その地をヴェラ・クルス(真の十字架)と呼びます。その後、サンタ・クルス(聖なる十字架)の地の名が相応しいと考えました。「発見」される前の1494年に、スペインとポルトガルの国王の間で調印されたトルデシーリャス条約によって、新世界を南北に走る分割線の東側がポルトガルに属することになっていました。つまり世界は、カボヴェルデ諸島の西方370レグアに引いた想像上の南北の線で二分され、将来、その線から西側で「発見」される土地はスペイン領、東側の土地はポルトガル領になることに決まったのです。
1532年には海岸部に、今日のサンパウロのルーツとなるサンヴィセンテの名称の町が建設されました。そして1534年に、ブラジルは掲載の略地図のように世襲制のカピタニアに分割されました。その土地で、アフリカから導入した黒人を奴隷として用いる砂糖生産が発達します。やがてその地は、大量に伐採されてヨーロッパに運ばれた赤色染料の木の名「ブラジル」と呼ばれることになります。
17世紀には、サンパウロ出身者のパウリスタが、植民地社会に奥地探検隊の大きな足跡を残しました。この遠征隊は、セルタンと呼ばれる奥地へ向かい、奴隷にする先住民や貴金属を求めて、数ヶ月、あるいは数年間、遠征を続けたのです。海岸から西の内陸部であるミナスジェライス、ゴイアス、マトグロッソ、さらにスペイン人イエズス会士によって創設された先住民の布教村などに入っていきました。
あるグルーブは1648年から1652年にかけて、パラグアイ方面にアンデス山脈の麓まで進み、そこから北東に方向を変えて現在のロンドニアを縦断して、アマゾン川からベレンに達したのです。奥地探検隊は、1695年についに、現在のミナスジェライスでまとまった量の金を発見して、本格的な、海岸地帯の東部に対して、奥地の西部の開発が始まったのです。ところが、その地は未だ、スペイン領でした。1730年代にマトグロッソで金鉱を発見し、金の輸出の河川ルートがアマゾン川に繋がり、ポルトガルの勢力が強まりました。
18世紀の金ブームのとき、十字軍のレコンキスタを想起させる征服によって、アマゾン川流域の中央部分はほぼポルトガルの領域となり、内陸部西方の異邦の空間をポルトガルの領土と認めさせるに至ったのです。それは「占有保護命令」の原則に従う1750年のマドリッド条約に基づく領土の拡大だったのです。
1500年にブラジルの「発見」が正式にポルトガル国王マヌエル一世によって宣言されました。国王はまず、その地をヴェラ・クルス(真の十字架)と呼びます。その後、サンタ・クルス(聖なる十字架)の地の名が相応しいと考えました。「発見」される前の1494年に、スペインとポルトガルの国王の間で調印されたトルデシーリャス条約によって、新世界を南北に走る分割線の東側がポルトガルに属することになっていました。つまり世界は、カボヴェルデ諸島の西方370レグアに引いた想像上の南北の線で二分され、将来、その線から西側で「発見」される土地はスペイン領、東側の土地はポルトガル領になることに決まったのです。
1532年には海岸部に、今日のサンパウロのルーツとなるサンヴィセンテの名称の町が建設されました。そして1534年に、ブラジルは掲載の略地図のように世襲制のカピタニアに分割されました。その土地で、アフリカから導入した黒人を奴隷として用いる砂糖生産が発達します。やがてその地は、大量に伐採されてヨーロッパに運ばれた赤色染料の木の名「ブラジル」と呼ばれることになります。
17世紀には、サンパウロ出身者のパウリスタが、植民地社会に奥地探検隊の大きな足跡を残しました。この遠征隊は、セルタンと呼ばれる奥地へ向かい、奴隷にする先住民や貴金属を求めて、数ヶ月、あるいは数年間、遠征を続けたのです。海岸から西の内陸部であるミナスジェライス、ゴイアス、マトグロッソ、さらにスペイン人イエズス会士によって創設された先住民の布教村などに入っていきました。
あるグルーブは1648年から1652年にかけて、パラグアイ方面にアンデス山脈の麓まで進み、そこから北東に方向を変えて現在のロンドニアを縦断して、アマゾン川からベレンに達したのです。奥地探検隊は、1695年についに、現在のミナスジェライスでまとまった量の金を発見して、本格的な、海岸地帯の東部に対して、奥地の西部の開発が始まったのです。ところが、その地は未だ、スペイン領でした。1730年代にマトグロッソで金鉱を発見し、金の輸出の河川ルートがアマゾン川に繋がり、ポルトガルの勢力が強まりました。
18世紀の金ブームのとき、十字軍のレコンキスタを想起させる征服によって、アマゾン川流域の中央部分はほぼポルトガルの領域となり、内陸部西方の異邦の空間をポルトガルの領土と認めさせるに至ったのです。それは「占有保護命令」の原則に従う1750年のマドリッド条約に基づく領土の拡大だったのです。
-
世界をスペイン領とポルトガル領に二分した1494年の分割線
-
マドリッド条約の1750年のときの南米地図
-
イエズス会士Samuel Fernandes Fritzのアマゾン川地図
2016/11/02 23:20:00 リオ五輪が伝えた異種混淆の文化
ブラジル紹介
住田 育法
多様なブラジル人が、多くの「違い」を受入れて形成されたブラジル文化を、リオ五輪の開会式と閉会式でブラジルは発信しました。世界中の皆さんが映像でブラジルの「多様な」大衆や地方の民族音楽を満喫しました。
開会式:
https://www.youtube.com/watch?v=N_qXm9HY9Ro
ジルベルト・ジルの名曲の「Aquele Abraço」と「Samba de Verão」。
サンバ歌手パウリーニョ・ダ・ヴィオラがブラジル国家を歌う。
アントニオ・カルロス・ジョビンの曲「Garota de Ipanema」を孫が歌う。
ジョルジ・ベンジョールとレジナ・カゼーが「País Tropical」を歌う。
カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルらがアリ・バローゾの「Isto aqui o que e?」を歌う。
閉会式:
https://www.youtube.com/watch?v=ssc5eLjLoMQ
マルチーニョ・ダ・ヴィラが「Calinhoso」と「As Pastorinhas」を歌う。
ブラジルの国歌は子どもたちのアフロ・ブラジル風の合唱。
カルメン・ミランダのオマージュをロベルタ・サーが再現。曲は「Tico-Tico no Fubá」。
民族音楽は、ペルナンブーコ州のダンス音楽「フレーヴォ」。そして「フォホー」。
ルイズ・ゴンザーガの「Asa Branca」。
トム・ジョビンの名曲「Chovendo Na Roseira。
バイーアのサンバ歌手マリエネ・デ・カストロが「Cidade Maravilhosa」を熱唱。
国土面積が日本の22.5倍に達するブラジル連邦共和国は、地球を挟んで日本の逆に位置する、南米唯一のポルトガル語圏です。その社会は、異人種混淆の地域的なコントラストを特徴としています。ただしその混淆は、1822年独立までの植民地時代における白人、奴隷として運ばれてきた黒人、そしてはるか昔にアジアから移動したと言われるる先住民が対象です。独立の19世紀以降のヨーロッパからのイタリア人やドイツ人、アジア系の日本人や中国人は入っていません。日本人移民の子孫はニッケイジンです。リオで私はスミダです。
赤道が北部のアマゾンを通っているため国土の約7%が北半球に、残りの93%が南半球にあります。隣国のすべてが、ポルトガル語以外のスペイン語などを公用語にしています。ポルトガル語のみの社会ですが、ブラジルの広大な内陸部の文化の様相は多様です。ブラジル地理統計院が提供する「多様性」を知るためのURLにアクセスして、その地域の、社会、経済、政治、文化などの多様な姿を学びましょう。
http://www.ibge.gov.br/apps/brasildiverso/
開会式:
https://www.youtube.com/watch?v=N_qXm9HY9Ro
ジルベルト・ジルの名曲の「Aquele Abraço」と「Samba de Verão」。
サンバ歌手パウリーニョ・ダ・ヴィオラがブラジル国家を歌う。
アントニオ・カルロス・ジョビンの曲「Garota de Ipanema」を孫が歌う。
ジョルジ・ベンジョールとレジナ・カゼーが「País Tropical」を歌う。
カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルらがアリ・バローゾの「Isto aqui o que e?」を歌う。
閉会式:
https://www.youtube.com/watch?v=ssc5eLjLoMQ
マルチーニョ・ダ・ヴィラが「Calinhoso」と「As Pastorinhas」を歌う。
ブラジルの国歌は子どもたちのアフロ・ブラジル風の合唱。
カルメン・ミランダのオマージュをロベルタ・サーが再現。曲は「Tico-Tico no Fubá」。
民族音楽は、ペルナンブーコ州のダンス音楽「フレーヴォ」。そして「フォホー」。
ルイズ・ゴンザーガの「Asa Branca」。
トム・ジョビンの名曲「Chovendo Na Roseira。
バイーアのサンバ歌手マリエネ・デ・カストロが「Cidade Maravilhosa」を熱唱。
国土面積が日本の22.5倍に達するブラジル連邦共和国は、地球を挟んで日本の逆に位置する、南米唯一のポルトガル語圏です。その社会は、異人種混淆の地域的なコントラストを特徴としています。ただしその混淆は、1822年独立までの植民地時代における白人、奴隷として運ばれてきた黒人、そしてはるか昔にアジアから移動したと言われるる先住民が対象です。独立の19世紀以降のヨーロッパからのイタリア人やドイツ人、アジア系の日本人や中国人は入っていません。日本人移民の子孫はニッケイジンです。リオで私はスミダです。
赤道が北部のアマゾンを通っているため国土の約7%が北半球に、残りの93%が南半球にあります。隣国のすべてが、ポルトガル語以外のスペイン語などを公用語にしています。ポルトガル語のみの社会ですが、ブラジルの広大な内陸部の文化の様相は多様です。ブラジル地理統計院が提供する「多様性」を知るためのURLにアクセスして、その地域の、社会、経済、政治、文化などの多様な姿を学びましょう。
http://www.ibge.gov.br/apps/brasildiverso/
-
タルシーラ・ド・ アマラルの有名な1928年の近代芸術週間を代表する絵画「Abaporu」。2016年8月にオリンピックを記念してリオ美術館に特別展示。
-
素敵なポルト・マラヴィリャ空間の「明日の博物館 Museu do Amanhã」
-
広大なブラジル空間26州の地図。リオやサンパウロの南東部が一番発達。
2016/10/30 23:10:00 リオッ子はフランス好き
ブラジル紹介
住田 育法
ポルトガル語圏ブラジルのリオッ子は、過去の敵を今は愛しています。そのいきさつは。。。
大航海時代にポルトガル人が、大西洋を南下して今日のリオデジャネイロ(以下、リオと記す)に到達したのは、ブラジル発見2年後の1502年でした。「発見」される前の1494年に、ローマ法王が「南アメリカ東岸の帯状地帯の支配」をポルトガルに認めたトルデシーリャス条約をフランスは受け入れず、湾の入口に「南極フランス」という植民地を築きます。後に国名となる赤い染料を取る「ブラジル」という名の木の伐採が目的でした。
ポルトガルとフランスは、対立する先住民をそれぞれ味方に付けて闘い、ポルトガルが「南極フランス」を陥落させます。湾入口の西岸の円錐形に固めた砂糖の塊に見える、ポルトガル語で「パン・デ・アスーカル」という呼称の丘の麓に要塞を築き、1567年にフランス人を完全に退け、リオにポルトガル植民地を建設しました。リオのオリンピック開催はそれから449年目のことでした。18世紀にリオは金の積み出し港として植民地ブラジル発展の中枢を担います。1763年に植民地の主都になりました。
1808年にナポレオン軍から逃れたポルトガル王室はイギリス海軍に守られてリオに移転し、やがて1822年に王子ペドロが独立を宣言します。その後、1889年にブラジルは、帝政から共和政に移行します。共和国の首都となったリオでは、フランスのパリを模して街路や建造物の整備が行われました。今でもパン・デ・アスーカルの丘の麓の住宅や中心街のリオ市立劇場はフランス建築の様式を残しています。リオッ子になったつもりでリオの中心街を散歩するとき、私は密かにユトリロやピカソの気分に浸っています。
言語や食文化はポルトガル風ですが、古都リオの街並みにはフランスの彩りを感じることができます。あまり経験はありませんが、パリのモンマルトルなどを歩くときには、リオを懐かしく思い出すことでしょう。
大航海時代にポルトガル人が、大西洋を南下して今日のリオデジャネイロ(以下、リオと記す)に到達したのは、ブラジル発見2年後の1502年でした。「発見」される前の1494年に、ローマ法王が「南アメリカ東岸の帯状地帯の支配」をポルトガルに認めたトルデシーリャス条約をフランスは受け入れず、湾の入口に「南極フランス」という植民地を築きます。後に国名となる赤い染料を取る「ブラジル」という名の木の伐採が目的でした。
ポルトガルとフランスは、対立する先住民をそれぞれ味方に付けて闘い、ポルトガルが「南極フランス」を陥落させます。湾入口の西岸の円錐形に固めた砂糖の塊に見える、ポルトガル語で「パン・デ・アスーカル」という呼称の丘の麓に要塞を築き、1567年にフランス人を完全に退け、リオにポルトガル植民地を建設しました。リオのオリンピック開催はそれから449年目のことでした。18世紀にリオは金の積み出し港として植民地ブラジル発展の中枢を担います。1763年に植民地の主都になりました。
1808年にナポレオン軍から逃れたポルトガル王室はイギリス海軍に守られてリオに移転し、やがて1822年に王子ペドロが独立を宣言します。その後、1889年にブラジルは、帝政から共和政に移行します。共和国の首都となったリオでは、フランスのパリを模して街路や建造物の整備が行われました。今でもパン・デ・アスーカルの丘の麓の住宅や中心街のリオ市立劇場はフランス建築の様式を残しています。リオッ子になったつもりでリオの中心街を散歩するとき、私は密かにユトリロやピカソの気分に浸っています。
言語や食文化はポルトガル風ですが、古都リオの街並みにはフランスの彩りを感じることができます。あまり経験はありませんが、パリのモンマルトルなどを歩くときには、リオを懐かしく思い出すことでしょう。
-
パン・デ・アスーカルの丘と麓の瀟洒なウルカ地区
-
丘の麓のウルカ地区のおしゃれなフランス風住居
-
2016年の改装後の市立劇場 1995年8月22日に南米初公演の五嶋みどりヴァイオリンコンサートを聴く