ブラジル紹介
2017/12/24 02:50:00 アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く (6)
- ブラジル紹介
- 住田 育法
アフリカの土着宗教を継承する古都リオの祈り、カンドンブレ(Candomblé) の世界を取上げましょう。
皆さんは、外国人を京都や奈良のお寺に案内して、仏像の謂れ (いわれ) を質問されたことはありませんか。例えば薬師如来像について、「私が知っている仏陀の像となぜ異なるのか」とか。答えのひとつは「仏がこの世に現われるとき、さまざまなお姿をされるため」でしょう。「宗教」ではなく「民族学」としての判断です。
さて、今回のアフロの旅のテーマは、黒人宗教の神々の「像」のことです。まさに、いろいろなお姿に出会うのです。
リオ北部地区のコンセイサンの丘 (Morro da Conceição) のヴァロンゴ庭園 (Jardim do Valongo) を訪れたとき、壁にカンドンブレにおける神々であるオリシャ (Orixa) の中の最年長の水の女神ナナン (Nanã) が祀られていました(写真)。親しみを込めて「お婆さん」とも呼ばれる女神ですから、おそらくこのヴァロンゴ地区(写真)が、北東部のサルヴァドールからリオにやってきた、シアタおばさん (Tia Ciata) のゆかりの地だからでしょう。女神ナナンは、静かで平和であるが頑固だそうです。服装は紫。シンクレティズム (syncretism) として、キリスト教に一致する聖人は聖サンタナ、聖アンナです。
カンドンブレの神々は、ブラジル映画によく登場します。
まず、フェルナンド・メイレーレス(Fernando Meirelles)監督の『シティ・オブ・ゴッド』の中で、映画の冒頭で「鶏が逃げた、捕まえろ」と叫ぶ主人公が、小さな子ども時代の1960年代から1970年代になって、銃を操り、弾丸で殺戮を繰りかえす大人になるとき、黒人宗教の伝道師から、精霊の力を授かります。それは、宇宙の創造神であり、具体的には天地と運命を創造した最高神のオロドゥマレ (Olodumare) またはオロルン (Olorun) が最初に作ったオリシャである性欲と生命力を司る神エシュ(Exu) でした。この神の色は赤と黒、シンボルはオゴ (Ogo = ラッパとひょうたんで飾った杖) です。この映画を私は、公開とほぼ同時の2002年9月2日にリオ州ニテロイ市のイカライ映画館で見ました。その時、たいへん素晴らしい作品だと感動したことが思い出されます。当時のカルドーゾ大統領は、子どもたちもこの作品を見るように勧めていました。実はそのときは、このエシュ(Exu) の心霊を受けることで主人公が名をゼー・ペケーノ (Zé Pequeno) に変えて、そのとき極悪人に豹変する、という展開にはあまり気が付きませんでした。
エクトール・バベンコ (Héctor Eduardo Babenco 1946 – 2016) 監督がリオを舞台とした銀行強盗団の生活を描いた『ルーシオ・フラーヴィオ、傷だらけの生涯 (Lúcio Flávio, o Passageiro da Agonia)』(1977年) で、平然と殺人を 犯す凶悪な犯罪者の日常を描いています。注目すべきは、黒人宗教について、ネルソン・ペレイラ監督の『リオ北部地区』でサンバの黒人作曲家を演じたグランデ・オテーロ (Grande Otelo 1915 - 1993) が、イエマンジャ (Iemanja)、これは映画ではジャナイーナ(Janaina)と呼んでいますが、この神を信仰し、フラーヴィオを気遣う低所得者層共同体 (comunidade) の住人を演じていることです。イエマンジャはオリシャたちの母であり、妊娠、出産を司ります。したがって、オグン(Ogum) と呼ばれる剣と盾を持ち、体中長い毛に覆われた戦いの神はそのイェマンジャの子とされています。白馬にまたがり槍を抱えて、不正を暴露するために世界中を旅してまわる姿は、観客にとって、フラーヴィオに重なります。
もうひとつ、映画が扱った神を紹介します。リオで仕事をした気鋭のグラウベル・ロッシャ (Glauber de Andrade Rocha 1939 – 1981) 監督の作品『アントニオ・ダス・モルテス(聖戦士に対する悪しき竜)』(1969年)の聖戦士です。映画の最後で勝利するのは、奴隷のような立場の黒人の聖戦士であり、成敗されたのは悪しき竜たる地主でした。神はオショシ(Oxossi) で、シンクレティズムとしてのキリスト教の聖人では聖ジョルジュや聖セバスチャンとなるそうです。
皆さんは、外国人を京都や奈良のお寺に案内して、仏像の謂れ (いわれ) を質問されたことはありませんか。例えば薬師如来像について、「私が知っている仏陀の像となぜ異なるのか」とか。答えのひとつは「仏がこの世に現われるとき、さまざまなお姿をされるため」でしょう。「宗教」ではなく「民族学」としての判断です。
さて、今回のアフロの旅のテーマは、黒人宗教の神々の「像」のことです。まさに、いろいろなお姿に出会うのです。
リオ北部地区のコンセイサンの丘 (Morro da Conceição) のヴァロンゴ庭園 (Jardim do Valongo) を訪れたとき、壁にカンドンブレにおける神々であるオリシャ (Orixa) の中の最年長の水の女神ナナン (Nanã) が祀られていました(写真)。親しみを込めて「お婆さん」とも呼ばれる女神ですから、おそらくこのヴァロンゴ地区(写真)が、北東部のサルヴァドールからリオにやってきた、シアタおばさん (Tia Ciata) のゆかりの地だからでしょう。女神ナナンは、静かで平和であるが頑固だそうです。服装は紫。シンクレティズム (syncretism) として、キリスト教に一致する聖人は聖サンタナ、聖アンナです。
カンドンブレの神々は、ブラジル映画によく登場します。
まず、フェルナンド・メイレーレス(Fernando Meirelles)監督の『シティ・オブ・ゴッド』の中で、映画の冒頭で「鶏が逃げた、捕まえろ」と叫ぶ主人公が、小さな子ども時代の1960年代から1970年代になって、銃を操り、弾丸で殺戮を繰りかえす大人になるとき、黒人宗教の伝道師から、精霊の力を授かります。それは、宇宙の創造神であり、具体的には天地と運命を創造した最高神のオロドゥマレ (Olodumare) またはオロルン (Olorun) が最初に作ったオリシャである性欲と生命力を司る神エシュ(Exu) でした。この神の色は赤と黒、シンボルはオゴ (Ogo = ラッパとひょうたんで飾った杖) です。この映画を私は、公開とほぼ同時の2002年9月2日にリオ州ニテロイ市のイカライ映画館で見ました。その時、たいへん素晴らしい作品だと感動したことが思い出されます。当時のカルドーゾ大統領は、子どもたちもこの作品を見るように勧めていました。実はそのときは、このエシュ(Exu) の心霊を受けることで主人公が名をゼー・ペケーノ (Zé Pequeno) に変えて、そのとき極悪人に豹変する、という展開にはあまり気が付きませんでした。
エクトール・バベンコ (Héctor Eduardo Babenco 1946 – 2016) 監督がリオを舞台とした銀行強盗団の生活を描いた『ルーシオ・フラーヴィオ、傷だらけの生涯 (Lúcio Flávio, o Passageiro da Agonia)』(1977年) で、平然と殺人を 犯す凶悪な犯罪者の日常を描いています。注目すべきは、黒人宗教について、ネルソン・ペレイラ監督の『リオ北部地区』でサンバの黒人作曲家を演じたグランデ・オテーロ (Grande Otelo 1915 - 1993) が、イエマンジャ (Iemanja)、これは映画ではジャナイーナ(Janaina)と呼んでいますが、この神を信仰し、フラーヴィオを気遣う低所得者層共同体 (comunidade) の住人を演じていることです。イエマンジャはオリシャたちの母であり、妊娠、出産を司ります。したがって、オグン(Ogum) と呼ばれる剣と盾を持ち、体中長い毛に覆われた戦いの神はそのイェマンジャの子とされています。白馬にまたがり槍を抱えて、不正を暴露するために世界中を旅してまわる姿は、観客にとって、フラーヴィオに重なります。
もうひとつ、映画が扱った神を紹介します。リオで仕事をした気鋭のグラウベル・ロッシャ (Glauber de Andrade Rocha 1939 – 1981) 監督の作品『アントニオ・ダス・モルテス(聖戦士に対する悪しき竜)』(1969年)の聖戦士です。映画の最後で勝利するのは、奴隷のような立場の黒人の聖戦士であり、成敗されたのは悪しき竜たる地主でした。神はオショシ(Oxossi) で、シンクレティズムとしてのキリスト教の聖人では聖ジョルジュや聖セバスチャンとなるそうです。
2017/12/21 11:30:00 アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く (5)
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- 住田 育法
古都リオの魅力はコントラストの姿です。
すでに何度か取上げているシュテファン・ツヴァイク (Stefan Zweig 1881 - 1942) は、1941年に発行の Brasil, um país do futuro (未来の国ブラジル) で次のように書いています。なお、同書はこの年に、ドイツ語版をストックホルムで、英語版やスペイン語版、スウェーデン語版、フランス語版をニューヨークで発行しています。ポルトガル語版はリオとポルトガルでの出版でした。
Arte dos contraste
Para emocionar, uma cidade precisa ter em si tensões fortes e contrastes. Uma cidade que é só moderna é monó tona, uma cidade atrasada se torna cesconfrotável com o passar d o tempo. Uma cidade proletária traz tristeza, e um local de luxo provoca tédio e mau humor depois de algum tempo. Quando mais camadas uma cidade possui, e em quanto mais matizes de cores seus contrastes se graduem, mais atraente será: assim é o Rio de Janeiro. (2006年発行のポルトガル語版 p. 152)
コントラストのアート
ある都市が人を感動させるためには、強力かつ対照的な緊張感を持たなければならない。近代的だけの都市は単調であり、遅れている都市は時がすぎれば快適でなくなる。プロレタリアートの都市は悲しく、豪華絢爛の町並みはときがたてば不機嫌かつ倦怠感がうまれる。1つの都市により多くの階層があればあるほど、またその階層により対照的な色彩の階段が刻まれていればいるほど、より魅力的となる。それがリオだ。
日本の幕末から明治維新にかけてのころでした。南米ブラジルの古都リオは1822年にポルトガルからの独立を宣言したポルトガル王室の王子ペドロ一世、この息子で、ブラジル生まれのペドロ二世の時代 (1840 - 1889年) を迎えていました。厳格なヒエラルキーを基本とするエリート体制下の貴族と、黒人奴隷制度によってリオのコーヒー農園で働く黒い肌の男たちを、同時代かつ同一空間で受入れる社会が存在したのです。まさに、上流階層の貴族と下層階層の奴隷の好みが共存していたのです。興味深いのは、こうした二極社会が、特異な異種族混淆による日常生活の場で1つの古都リオのブラジル人を形成したことです。
ブラジルの人類学者リア.ザノッタ・マシャードさんは、その社会は「家の外 (rua) ではリーダーである男が、屋内 (casa) においては、子育てや料理をする女性の《愛》によって支配される」ものであると説明しています。リア・ザノッタさんに影響を与えたリオを代表する文化人である人類学者のロベルト・ダ・マタさんは、この社会の特徴は「多様」ではなく「1つ」であることだと述べています。最近のインタビューで「リオの社会は貴族社会と奴隷社会が混淆した伝統的な1つの社会である」と語っています。
古都リオのコントラストをネルソン・ペレイラ監督は映画『リオ40度』(1955年) で表現しています(写真)。これは同監督最初の長編映画です。それまでリオは、瀟洒 (しょうしゃ)な町並の国際観光都市 として描かれる傾向にありましたが、低所得者共同体で生活する黒人の子どもたちの日常生活を取りあげたことで、1960年代に起こる「新しい映画」誕生に息吹をもたらしたのです。写真の低所得者層の居住区は映画の舞台となったリオ北地区のスラムです。これはポルトガル語で favela と呼びますが、近年、comunidade という表現を用いるようになりました。
21世紀の初頭、エリートではない北東部出身のルーラ大統領が誕生し、低所得者層への手厚い保護が一般化しました。社会格差の是正を掲げる連邦政府の強い意向でした。この傾向は中道右派の現政権でも引き継がれています。
すでに何度か取上げているシュテファン・ツヴァイク (Stefan Zweig 1881 - 1942) は、1941年に発行の Brasil, um país do futuro (未来の国ブラジル) で次のように書いています。なお、同書はこの年に、ドイツ語版をストックホルムで、英語版やスペイン語版、スウェーデン語版、フランス語版をニューヨークで発行しています。ポルトガル語版はリオとポルトガルでの出版でした。
Arte dos contraste
Para emocionar, uma cidade precisa ter em si tensões fortes e contrastes. Uma cidade que é só moderna é monó tona, uma cidade atrasada se torna cesconfrotável com o passar d o tempo. Uma cidade proletária traz tristeza, e um local de luxo provoca tédio e mau humor depois de algum tempo. Quando mais camadas uma cidade possui, e em quanto mais matizes de cores seus contrastes se graduem, mais atraente será: assim é o Rio de Janeiro. (2006年発行のポルトガル語版 p. 152)
コントラストのアート
ある都市が人を感動させるためには、強力かつ対照的な緊張感を持たなければならない。近代的だけの都市は単調であり、遅れている都市は時がすぎれば快適でなくなる。プロレタリアートの都市は悲しく、豪華絢爛の町並みはときがたてば不機嫌かつ倦怠感がうまれる。1つの都市により多くの階層があればあるほど、またその階層により対照的な色彩の階段が刻まれていればいるほど、より魅力的となる。それがリオだ。
日本の幕末から明治維新にかけてのころでした。南米ブラジルの古都リオは1822年にポルトガルからの独立を宣言したポルトガル王室の王子ペドロ一世、この息子で、ブラジル生まれのペドロ二世の時代 (1840 - 1889年) を迎えていました。厳格なヒエラルキーを基本とするエリート体制下の貴族と、黒人奴隷制度によってリオのコーヒー農園で働く黒い肌の男たちを、同時代かつ同一空間で受入れる社会が存在したのです。まさに、上流階層の貴族と下層階層の奴隷の好みが共存していたのです。興味深いのは、こうした二極社会が、特異な異種族混淆による日常生活の場で1つの古都リオのブラジル人を形成したことです。
ブラジルの人類学者リア.ザノッタ・マシャードさんは、その社会は「家の外 (rua) ではリーダーである男が、屋内 (casa) においては、子育てや料理をする女性の《愛》によって支配される」ものであると説明しています。リア・ザノッタさんに影響を与えたリオを代表する文化人である人類学者のロベルト・ダ・マタさんは、この社会の特徴は「多様」ではなく「1つ」であることだと述べています。最近のインタビューで「リオの社会は貴族社会と奴隷社会が混淆した伝統的な1つの社会である」と語っています。
古都リオのコントラストをネルソン・ペレイラ監督は映画『リオ40度』(1955年) で表現しています(写真)。これは同監督最初の長編映画です。それまでリオは、瀟洒 (しょうしゃ)な町並の国際観光都市 として描かれる傾向にありましたが、低所得者共同体で生活する黒人の子どもたちの日常生活を取りあげたことで、1960年代に起こる「新しい映画」誕生に息吹をもたらしたのです。写真の低所得者層の居住区は映画の舞台となったリオ北地区のスラムです。これはポルトガル語で favela と呼びますが、近年、comunidade という表現を用いるようになりました。
21世紀の初頭、エリートではない北東部出身のルーラ大統領が誕生し、低所得者層への手厚い保護が一般化しました。社会格差の是正を掲げる連邦政府の強い意向でした。この傾向は中道右派の現政権でも引き継がれています。
2017/12/17 16:00:00 アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く (4)
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江田島で生まれ、呉で育った私は海が大好きです。学生のとき、神戸港を出て 3度、当時の琉球に向けて客船で黒潮を下っています。3 度のうち 2 回は台湾に近い八重山諸島の石垣島まで行きました。
さて、アフロ・ラテンアメリカのことです。アフリカ大陸に張り出したヨーロッパ最西端のポルトガルは、その地理的条件から、1415年に始まった大航海時代をリードしました。実は、その1415年以前の1317年にはすでに、ポルトガル海軍が創設されています。今年700周年を迎えます。コインブラ大学を創設したディニス王の治世 (1279 – 1325年)でした (写真)。ヨーロッパにとって大西洋のかなたにある古都リオが栄えることができたのは、そうしたポルトガルの海軍力のお陰です。大型帆船による航海術や大砲を駆使して、大海原を航行するポルトガルの貿易船を守ったのです。これには黒人奴隷貿易船も含まれていました。16世紀に始まる植民地時代にリオは、要塞都市として栄えます。内陸部のミナスジェライスで1693年に金が発見され、ブームとなった18世紀以降、この地に、アフリカから大量の黒人たちが奴隷として到来しました。黒人がアフリカからブラジルへ、金がブラジルからヨーロッパへ、ヨーロッパからブラジルへ工業製品が運ばれるという、三角貿易による大西洋 (写真) システムの完成です。
大西洋に向かってリオの海岸に立つ (写真)と、海のかなたのアフリカ大陸を想像できます。この気持ちは黒い肌の人たちも同じだったのでしょう。海岸にはよく黒人宗教の祈りの品が置かれています。
さてこのブログ「アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く」の(1)でも述べたオーストリアの文豪シュテファン・ツヴァイク (Stefan Zweig) は、リオの散策が大好きだと書いていますが、南米との出会いを以下のようにその著『マゼラン』で説明しています。海の好きな私が気に入っている説明です。大航海時代からの時の流れを思いながら、21世紀の今、そのマゼランの海の空間を感じてみましょう。
私は昨年 (1936年) はじめて、長い間望んでいた南アメリカ旅行の機会を得た。ブラジルでは地上でもっとも美しい風景のいくつかが私の待ち受け、アルゼンチンでは精神の友人たちとの比類ない会合が私を待っていることを知っていた。この予感がすでに、航海をすばらしいものとしてくれた。そして、考えうるすべての快適なものが旅行中ついてまわった。靜かな海、広々とした快速船の上での完全なくつろぎ、すべての束縛や日々の煩労からの解放、私はこの航海の、天国のような日々を、測り知れぬほどに享受した。しかし、七日目か、八日目のことだったが、私は不意に腹立たしい焦慮にとらえられた。いつも繰返し青い空、青い靜かな海!このにわかな興奮の渦中にあって、航海の時間はあまりにおそく過ぎてゆくように思えた。私は心中、一刻も早く目的地に着くことを願った。実際、時計の針が毎日倦まず進んでくれることが何よりの楽しみとなり、不意にこの無為の、生ぬるい、投げやりの享受が私の心を悩ましはじめた。同じ人間の同じ顔が私を退屈させ、甲板作業の単調さは、その規則的に繰返される静穏さのために、かえって神経をいらだたせた。ひたすら先へ先へ!もっと速く、もっと速く!突然私は、この美しい、心地よい、楽しい快速船が、十分速いとは思えなくなった。
私がいらだたしい状態を意識したのは、おそらく一瞬にすぎなかったろうが、それでもう私は自分がすっかり恥ずかしくなった。私は腹立たしくなって自分にこう言った。今、君はすべての船のうちでもっとも安全な船に乗って、この上ない美しい航海の旅に出ているのだ。(略)
私は大自然に対して最初に戦いをいどんだ、あの (大航海時代の) 人々のことをもっとくわしく知り、少年時代に私を感動させた、未知の大洋へ乗り出した最初のころの航海に関する叙述を読んでみたい思いに駆られた。(略) ただ一つだけがこの上なく私を感動させた。それは、世界探検史上、もっとも大規模な事業を果たしたと思われる男、すなわちフェルディナント・マゼランの偉業であった。彼は五隻のとるに足らぬ小帆船でセビーリャから出航し、全地球を一周した――おそらく人類史上もっともすばらしいオデュッセイアと言えるであろうが、堅い決意を抱いて出帆した265名の男たちのうち、わずか18名のみが朽ちはてた船に乗って故郷へ帰りついたが (そこに彼の姿はなかった)、その船のマストには偉大な勝利の旗が高くかかげられていた。これらの書物には、彼についてあまり多くのことが伝えられてはいなかった。
さて、アフロ・ラテンアメリカのことです。アフリカ大陸に張り出したヨーロッパ最西端のポルトガルは、その地理的条件から、1415年に始まった大航海時代をリードしました。実は、その1415年以前の1317年にはすでに、ポルトガル海軍が創設されています。今年700周年を迎えます。コインブラ大学を創設したディニス王の治世 (1279 – 1325年)でした (写真)。ヨーロッパにとって大西洋のかなたにある古都リオが栄えることができたのは、そうしたポルトガルの海軍力のお陰です。大型帆船による航海術や大砲を駆使して、大海原を航行するポルトガルの貿易船を守ったのです。これには黒人奴隷貿易船も含まれていました。16世紀に始まる植民地時代にリオは、要塞都市として栄えます。内陸部のミナスジェライスで1693年に金が発見され、ブームとなった18世紀以降、この地に、アフリカから大量の黒人たちが奴隷として到来しました。黒人がアフリカからブラジルへ、金がブラジルからヨーロッパへ、ヨーロッパからブラジルへ工業製品が運ばれるという、三角貿易による大西洋 (写真) システムの完成です。
大西洋に向かってリオの海岸に立つ (写真)と、海のかなたのアフリカ大陸を想像できます。この気持ちは黒い肌の人たちも同じだったのでしょう。海岸にはよく黒人宗教の祈りの品が置かれています。
さてこのブログ「アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く」の(1)でも述べたオーストリアの文豪シュテファン・ツヴァイク (Stefan Zweig) は、リオの散策が大好きだと書いていますが、南米との出会いを以下のようにその著『マゼラン』で説明しています。海の好きな私が気に入っている説明です。大航海時代からの時の流れを思いながら、21世紀の今、そのマゼランの海の空間を感じてみましょう。
私は昨年 (1936年) はじめて、長い間望んでいた南アメリカ旅行の機会を得た。ブラジルでは地上でもっとも美しい風景のいくつかが私の待ち受け、アルゼンチンでは精神の友人たちとの比類ない会合が私を待っていることを知っていた。この予感がすでに、航海をすばらしいものとしてくれた。そして、考えうるすべての快適なものが旅行中ついてまわった。靜かな海、広々とした快速船の上での完全なくつろぎ、すべての束縛や日々の煩労からの解放、私はこの航海の、天国のような日々を、測り知れぬほどに享受した。しかし、七日目か、八日目のことだったが、私は不意に腹立たしい焦慮にとらえられた。いつも繰返し青い空、青い靜かな海!このにわかな興奮の渦中にあって、航海の時間はあまりにおそく過ぎてゆくように思えた。私は心中、一刻も早く目的地に着くことを願った。実際、時計の針が毎日倦まず進んでくれることが何よりの楽しみとなり、不意にこの無為の、生ぬるい、投げやりの享受が私の心を悩ましはじめた。同じ人間の同じ顔が私を退屈させ、甲板作業の単調さは、その規則的に繰返される静穏さのために、かえって神経をいらだたせた。ひたすら先へ先へ!もっと速く、もっと速く!突然私は、この美しい、心地よい、楽しい快速船が、十分速いとは思えなくなった。
私がいらだたしい状態を意識したのは、おそらく一瞬にすぎなかったろうが、それでもう私は自分がすっかり恥ずかしくなった。私は腹立たしくなって自分にこう言った。今、君はすべての船のうちでもっとも安全な船に乗って、この上ない美しい航海の旅に出ているのだ。(略)
私は大自然に対して最初に戦いをいどんだ、あの (大航海時代の) 人々のことをもっとくわしく知り、少年時代に私を感動させた、未知の大洋へ乗り出した最初のころの航海に関する叙述を読んでみたい思いに駆られた。(略) ただ一つだけがこの上なく私を感動させた。それは、世界探検史上、もっとも大規模な事業を果たしたと思われる男、すなわちフェルディナント・マゼランの偉業であった。彼は五隻のとるに足らぬ小帆船でセビーリャから出航し、全地球を一周した――おそらく人類史上もっともすばらしいオデュッセイアと言えるであろうが、堅い決意を抱いて出帆した265名の男たちのうち、わずか18名のみが朽ちはてた船に乗って故郷へ帰りついたが (そこに彼の姿はなかった)、その船のマストには偉大な勝利の旗が高くかかげられていた。これらの書物には、彼についてあまり多くのことが伝えられてはいなかった。
2017/12/09 21:30:00 アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く (3)
- ブラジル紹介
- 住田 育法
2017年8月17日 (土) に、古都リオ北地区 (Zona Norte)のサンバ発祥の地であるコンセイサンの丘(Morro da Conceição)をゆっくりと歩きました。
土曜日はスペイン語でもポルトガル語でもsábadoと綴ります。この金曜日の後、日曜日の前日の土曜日は、旧約聖書の『創世記』では、神が天地創造七日目に休息を取ったことに由来し、何も行ってはならないと定められた日とされています。
旧約聖書 創世記
第一章 はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。(中略)
第二章 こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終わって休まれたからである。
黒人奴隷の故郷アフリカのイスラム世界では、ムハンマドがメッカを脱出した金曜日が安息日です。
さて土曜日はユダヤ教の安息日ですが、カトリック教徒の多いリオでは、教会に集まってミサを行うのは第一日目の日曜日です。ポルトガル語では、月曜日が第二日 (segunda-feira [注] 市を意味するfeiraはここでは曜日)、火曜日が第三日 (terça-feira)、水曜日が第四日 (quarta-feira)、木曜日が第五日 (quinta-feira)、金曜日が第六日 (sexta-feira)。しかし、土曜日は週末ということで、リオでは人々が集まって演奏会や楽しい飲食会が街の広場や路上で行われていました (写真)。
ポルトガルから独立するころの19世紀に、リオのコーヒー栽培地帯などで働くために大量に輸入された黒人は、リオ北地区の埠頭に上陸しました。奴隷制時代には年間、万単位の数の到来でした。鎖に繋がれ、鞭に打たれて働いた黒人たちが、ひとときの自由を得たのは、逃亡したとき以外には、週末の金曜日や土曜日だったのでしょう。礼拝に行く日曜日の前の金曜日と土曜日に、アフリカ的な音楽を歌い、踊り、楽しい時間を送ったのでしょう。リオでサンバが生まれるころ、北東部のサルヴァドールからも黒人がやってきました。その1人がシアタおばさん (Tia Ciata) でした(写真)。
アメリカ合衆国や中国に対して、国内総生産GDPの数字を掲げて国家としての経済成長を競う姿とは関係ない、異種族混淆のカーニバルとサンバのリオが、21世紀の今も続いているのです。それは、帝政の貴族社会の洗練された好みと黒人奴隷の強烈なエネルギーが融合した19世紀からの営みです。
ちょうど時差12時間のリオでは、土曜日の京都は、金曜日の夜にあたります。カーニバルが近づく今、金曜日の夜6時から翌朝の4時ごろまで、コンセイサンの丘 (Morro da Conceição) の塩の石(Pedra do Sal) などで、毎週、演奏会が開かれています(写真)。
土曜日はスペイン語でもポルトガル語でもsábadoと綴ります。この金曜日の後、日曜日の前日の土曜日は、旧約聖書の『創世記』では、神が天地創造七日目に休息を取ったことに由来し、何も行ってはならないと定められた日とされています。
旧約聖書 創世記
第一章 はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。(中略)
第二章 こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終わって休まれたからである。
黒人奴隷の故郷アフリカのイスラム世界では、ムハンマドがメッカを脱出した金曜日が安息日です。
さて土曜日はユダヤ教の安息日ですが、カトリック教徒の多いリオでは、教会に集まってミサを行うのは第一日目の日曜日です。ポルトガル語では、月曜日が第二日 (segunda-feira [注] 市を意味するfeiraはここでは曜日)、火曜日が第三日 (terça-feira)、水曜日が第四日 (quarta-feira)、木曜日が第五日 (quinta-feira)、金曜日が第六日 (sexta-feira)。しかし、土曜日は週末ということで、リオでは人々が集まって演奏会や楽しい飲食会が街の広場や路上で行われていました (写真)。
ポルトガルから独立するころの19世紀に、リオのコーヒー栽培地帯などで働くために大量に輸入された黒人は、リオ北地区の埠頭に上陸しました。奴隷制時代には年間、万単位の数の到来でした。鎖に繋がれ、鞭に打たれて働いた黒人たちが、ひとときの自由を得たのは、逃亡したとき以外には、週末の金曜日や土曜日だったのでしょう。礼拝に行く日曜日の前の金曜日と土曜日に、アフリカ的な音楽を歌い、踊り、楽しい時間を送ったのでしょう。リオでサンバが生まれるころ、北東部のサルヴァドールからも黒人がやってきました。その1人がシアタおばさん (Tia Ciata) でした(写真)。
アメリカ合衆国や中国に対して、国内総生産GDPの数字を掲げて国家としての経済成長を競う姿とは関係ない、異種族混淆のカーニバルとサンバのリオが、21世紀の今も続いているのです。それは、帝政の貴族社会の洗練された好みと黒人奴隷の強烈なエネルギーが融合した19世紀からの営みです。
ちょうど時差12時間のリオでは、土曜日の京都は、金曜日の夜にあたります。カーニバルが近づく今、金曜日の夜6時から翌朝の4時ごろまで、コンセイサンの丘 (Morro da Conceição) の塩の石(Pedra do Sal) などで、毎週、演奏会が開かれています(写真)。
2017/10/28 01:20:00 アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く (2)
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- 住田 育法
リオ中心街のルイス・デ・カモンイス通りを歩いていると、週末午後のブラジル民衆音楽の路上演奏会準備の人たちに遭遇 (写真)。夜が更けると、セントラルステーションに近いこの界隈は、ちょっとあぶない地区になるそうですが、まだ大丈夫でした。
ブラジルの国民音楽の地位を獲得することになるサンバは、19世紀末の準備期間を経て20世紀初頭にリオの中心街で生まれました。ちょうど100年まえの1917年でした。いまだリオの街が、金持ちの舘の地区と貧しい黒人の住居を区別し終える前のことでした。中心街のプラッサ・オンゼ(第11広場)の近くにある北東部地方のバイーアから移ってきた黒人女性たちの店に、黒人の作曲家のピシンギーニャ(1898 - 1973年)やドンガ(1891 - 1974年)らが集まり、楽器を演奏したり、曲を作ったりしていたそうです。そのとき生まれた「ペロ・テレフォーネ(電話で)」が最初の正統サンバだと言われています。やがてそのサンバが、貧しい人が住む丘の低所得者層の地区や郊外へと広がったのです。
中心街のリオ・ブランコ通りからプラッサ・キンゼ(第15広場)に向かう途中に、黒人の演奏家ピシンギーニャの像 (写真) があります。古くから買い物に便利なオウヴィドール通りを入ったところです。この辺りに彼はよく現われていたそうです。
ちょうど今から170年まえにリオで生まれたブラジル民衆音楽の母シキーニャ (写真) について述べておきましょう。
シキーニャは、ブラジル独立から四半世紀後の1847年10月17日にリオに生まれ、ヴァルガス革命5年目の1935年2月28日に、リオで一生を終えたカリオカです。その87年の生涯は、政治的独立を果たした直後のブラジルが、ヨーロッパとは違う固有の文化を求めて苦悩し、やがて誇りを獲得することになるブラジルの近代国家形成期に重なっています。
彼女は、ヨーロッパの洗練された音楽の伝統と、ブラジル黒人のダイナミックな民族音楽を融合させた、ブラジルの民衆音楽の創始者の一人として、首都リオを舞台に、華々しく活躍したのです。
母親は黒人の血の入った貧しい混血女性でした。しかし、エリート階層の父親が正式に子としての認知を行い、母親とともに幸せな幼年期を送りました。
リオの中心街の舘に住み、妹や弟とともによく学びよく遊び、日曜日には、ミサの後、舘のそばのパセーイオ・プブリコ庭園で吹奏楽団の演奏をよく聴いていたそうです。やがてカトリックの神父が家庭教師として、国語であるポルトガル語や外国語のフランス語、ラテン語、歴史地理などを教え始め、父親はそのとき、オーケストラの指揮者と契約して、彼女にピアノを正式に学ばせたそうです。若きピアニストのシキーニャは、11歳になった1858年のクリスマスのパーティーのとき、伯父エリゼウの指導で、生涯を通じて発表した2,000を超える音楽作品の最初の一曲を披露します。
小さな音楽家シキーニャの誕生でした。
ブラジルの国民音楽の地位を獲得することになるサンバは、19世紀末の準備期間を経て20世紀初頭にリオの中心街で生まれました。ちょうど100年まえの1917年でした。いまだリオの街が、金持ちの舘の地区と貧しい黒人の住居を区別し終える前のことでした。中心街のプラッサ・オンゼ(第11広場)の近くにある北東部地方のバイーアから移ってきた黒人女性たちの店に、黒人の作曲家のピシンギーニャ(1898 - 1973年)やドンガ(1891 - 1974年)らが集まり、楽器を演奏したり、曲を作ったりしていたそうです。そのとき生まれた「ペロ・テレフォーネ(電話で)」が最初の正統サンバだと言われています。やがてそのサンバが、貧しい人が住む丘の低所得者層の地区や郊外へと広がったのです。
中心街のリオ・ブランコ通りからプラッサ・キンゼ(第15広場)に向かう途中に、黒人の演奏家ピシンギーニャの像 (写真) があります。古くから買い物に便利なオウヴィドール通りを入ったところです。この辺りに彼はよく現われていたそうです。
ちょうど今から170年まえにリオで生まれたブラジル民衆音楽の母シキーニャ (写真) について述べておきましょう。
シキーニャは、ブラジル独立から四半世紀後の1847年10月17日にリオに生まれ、ヴァルガス革命5年目の1935年2月28日に、リオで一生を終えたカリオカです。その87年の生涯は、政治的独立を果たした直後のブラジルが、ヨーロッパとは違う固有の文化を求めて苦悩し、やがて誇りを獲得することになるブラジルの近代国家形成期に重なっています。
彼女は、ヨーロッパの洗練された音楽の伝統と、ブラジル黒人のダイナミックな民族音楽を融合させた、ブラジルの民衆音楽の創始者の一人として、首都リオを舞台に、華々しく活躍したのです。
母親は黒人の血の入った貧しい混血女性でした。しかし、エリート階層の父親が正式に子としての認知を行い、母親とともに幸せな幼年期を送りました。
リオの中心街の舘に住み、妹や弟とともによく学びよく遊び、日曜日には、ミサの後、舘のそばのパセーイオ・プブリコ庭園で吹奏楽団の演奏をよく聴いていたそうです。やがてカトリックの神父が家庭教師として、国語であるポルトガル語や外国語のフランス語、ラテン語、歴史地理などを教え始め、父親はそのとき、オーケストラの指揮者と契約して、彼女にピアノを正式に学ばせたそうです。若きピアニストのシキーニャは、11歳になった1858年のクリスマスのパーティーのとき、伯父エリゼウの指導で、生涯を通じて発表した2,000を超える音楽作品の最初の一曲を披露します。
小さな音楽家シキーニャの誕生でした。