ブラジル紹介
2020/04/03 20:20:00 映画で学ぶブラジル北東部の民
- ブラジル紹介
- 住田 育法
※皆さん、パソコンで学びましょう!
ブラジル人クレベル・メンドンサ(Kleber Mendonça)とジュリアーノ・ドルネレス(Juliano Dornelles) の二人の共同監督作ブラジル映画『バクラウ』が、2019年5月の第72回カンヌ国際映画祭で審査員賞に輝き、このDVD作品が2019年末にブラジルで発売されました。幸いにも、本学の教授が2020年3月のブラジル訪問の「お土産」にこのDVD(写真参照)を持ち帰ってくださいました。早速、鑑賞しました。
これからこの映画を観る予定の方のために、詳しいストーリーは秘密にします。しかし昨年の学科のブログで紹介したように、ネット情報によれば『バクラウ』は、ブラジル北東部ペルナンブコ州「奥地」の小さな村バクラウで展開した、西部劇などにヒントを得た銃による暴力アクション映画です。過去のイタリア制作の西部劇『夕日のガンマン(For a Few Dollars More)』(1965年)を改めて鑑賞するとカメラアングルなどがよく似ています。
具体的には、カンガセイロ(cangaceiro)と呼ばれるブラジル特有の匪賊(ひぞく)の子孫にあたるコミュニティが強力なよそ者 (gringo)や政権側の勢力と銃によって戦うという冒険科学フィクションです。想像の賜物ですが、ブラジル北東部民衆の義賊的盗賊であるカンガセイロへの期待が、おとぎ話のように描かれています。村の名Bacurauは鳥の名前(写真参照)に由来すると映画の中で語られています。
イタリア制作の西部劇『夕日のガンマン』の12年前の1953年に日本で『野生の男』の題で公開されたブラジル映画『カンガセイロ』(写真参照)も『バクラウ』と同じく、ブラジル北東部(ノルデステ)奥地(セルタン)を舞台に銃で闘う異種族混淆の民カンガセイロが扱われています。始まりの場面は、白黒映画ですが、夕日の落ちた地平線のかなたを、乾季の空をバックに、匪賊たちのシルエットが歌に合わせて移動します。最後の場面も、匪賊の姿が同じように美しく描かれています。肌の色の黒い匪賊の首領に逆らって女性を救った白人の匪賊が掟に従って命を落とします。
映画監督が意図する政治的寓意とは離れて、ブラジルの古い文化を愛するブラジルの皆さんのまなざしに立って、北東部奥地の風景やフォルクローレを楽しみながら、映画『バクラウ』を鑑賞することをお勧めします。残念ながら、未だ日本語版はありませんが。
ブラジル人クレベル・メンドンサ(Kleber Mendonça)とジュリアーノ・ドルネレス(Juliano Dornelles) の二人の共同監督作ブラジル映画『バクラウ』が、2019年5月の第72回カンヌ国際映画祭で審査員賞に輝き、このDVD作品が2019年末にブラジルで発売されました。幸いにも、本学の教授が2020年3月のブラジル訪問の「お土産」にこのDVD(写真参照)を持ち帰ってくださいました。早速、鑑賞しました。
これからこの映画を観る予定の方のために、詳しいストーリーは秘密にします。しかし昨年の学科のブログで紹介したように、ネット情報によれば『バクラウ』は、ブラジル北東部ペルナンブコ州「奥地」の小さな村バクラウで展開した、西部劇などにヒントを得た銃による暴力アクション映画です。過去のイタリア制作の西部劇『夕日のガンマン(For a Few Dollars More)』(1965年)を改めて鑑賞するとカメラアングルなどがよく似ています。
具体的には、カンガセイロ(cangaceiro)と呼ばれるブラジル特有の匪賊(ひぞく)の子孫にあたるコミュニティが強力なよそ者 (gringo)や政権側の勢力と銃によって戦うという冒険科学フィクションです。想像の賜物ですが、ブラジル北東部民衆の義賊的盗賊であるカンガセイロへの期待が、おとぎ話のように描かれています。村の名Bacurauは鳥の名前(写真参照)に由来すると映画の中で語られています。
イタリア制作の西部劇『夕日のガンマン』の12年前の1953年に日本で『野生の男』の題で公開されたブラジル映画『カンガセイロ』(写真参照)も『バクラウ』と同じく、ブラジル北東部(ノルデステ)奥地(セルタン)を舞台に銃で闘う異種族混淆の民カンガセイロが扱われています。始まりの場面は、白黒映画ですが、夕日の落ちた地平線のかなたを、乾季の空をバックに、匪賊たちのシルエットが歌に合わせて移動します。最後の場面も、匪賊の姿が同じように美しく描かれています。肌の色の黒い匪賊の首領に逆らって女性を救った白人の匪賊が掟に従って命を落とします。
映画監督が意図する政治的寓意とは離れて、ブラジルの古い文化を愛するブラジルの皆さんのまなざしに立って、北東部奥地の風景やフォルクローレを楽しみながら、映画『バクラウ』を鑑賞することをお勧めします。残念ながら、未だ日本語版はありませんが。
2020/01/14 22:00:00 アフロ・ラテンアメリカを語る(10)
- ブラジル紹介
- 住田 育法
20世紀初頭、ブラジルに黒人大統領が誕生!
新春の1月11日 (土) 午後13時55分から15時30分まで本学161教室において「ブラジルの黒人エリート層―ブラジル奴隷制期に黒人や混血に対して公文書で用いられた分類」と題して、ブラジルのフルミネンセ連邦大学教授ニレウ・カヴァルカンティ(Nireu Cavalcanti)さん(写真参照)が講演をおこないました。
この講演では、アフロ・ラテンアメリカを語る(7)~(9)でも紹介したように、アフリカ人とその子孫を分類するためにリオデジャネイロで使用されているカテゴリーをニレウさんが紹介しました。つまり、黒人 (preto) やネグロ (negro)、クレオール (crioulo)、カブラ (cabra)、パルド (pardo)、ムラート (mulato)、カフーゾ (cafuso)です。この分類は、ポルトガルの奴隷制度の歴史とその法律、特に条例に基づいています。
ニレウ・カヴァルカンティさんの大きな指摘は次の3点でした。
まず第一に、カトリックの宗主国ポルトガルの植民地として黒人奴隷制が始まり、混血が生まれましたが、ブラジルではその混血には複雑な分類がなされたことです。黒よりも白が良いとされ、今もその判断の影響が残っています。
二つ目は、18世紀や19世紀において芸術や技能において天才的な能力を発揮したのは混血の人たちだったことです。特に、音楽や文学、建築学において際立っていました。
第三は、人種の多様性の中でブラジル社会は「黒人」をもっとも差別したことです。未来に向けて人種のグループが対立するのではなく、共存の姿勢を示すことが大切です。混血社会のブラジルはその手本を示すことができるでしょう。カリオカの異種族混淆文化を主張する著名な人類学者のロベルト・ダ・マタさんはニレウさんの友人です。マタさんのインタビューも参考に。
講演の終わりに、フロアから「未来のブラジルに米国のように黒人の大統領が生まれるでしょうか」と質問がありました。これに対してニレウ・カヴァルカンティさんは「すでにムラートの大統領はいます」とこたえ、「女性の大統領は出ましたが、黒人女性の大統領の誕生を期待します」と続けました。ムラートの大統領はニーロ・ペサニャ(Nilo Peçanha)です(写真参照)。
公式の分類
黒人
1) アフリカから直接到来した奴隷は、新奴隷 (escrevo novo)と呼ばれた。
a) ギネー (GUINÉ)黒人。16世紀、17世紀に到来。
b) 奴隷 (ESCRAVO), アフリカ生まれの黒人(PRETO): アンゴラ(Angola), カボヴェルデ(Cabo Verde), コンゴ(Congo), モンジョーロ(Monjolo), ミナ(Mina) など。
c) 自由アフリカ黒人(PRETO AFRICANO LIVRE)。ブラジル英国間で交わされた独人奴隷貿易禁止の1830年以降。
2)
a) クリオウロ(CRIOULO) = ブラジルで奴隷の母から生まれた者。
b) 解放されたクリオウロ(CRIOULO FORRO = 自由を獲得した者 (alforriado)。
c) 自由なクリオウロ(CRIOULO LIVRE) = 元奴隷の子、つまり自由人。
混血
3) パルド (PARDO) = 黒人白人間の最初の混血。
4) カブラ (CABRA) = パルドと黒人間の混血。
5) ムラト (MULATO) = パルドと白人間の混血。
6) カフーゾ (CAFUSO) = 先住民と黒人やパルド、カブラとの混血。
リオデジャネイロで際立っていたアフリカ人の子孫たち
PRETOS LIVRES (自由黒人)
● Cândido da Fonseca Galvão. Baiano (1834-1890) Príncipe Obá II パラグアイ戦争(1864 – 1870年)の英雄。
● João da Cruz e Souza. Catarinense (1861-1898)。詩人。
● Hemetério José dos Santos. Maranhense (1858-1939)。著述家、文献学者。
● Antonio Raphael Pinto Bandeira. Niteroiense (1863-1896)。画家。
● Valentim da Fonseca e Silva (Mestre Valentim)。Mineiro (1744-1813)。建築家。
PARDO 黒人と白人の混血
● José do Patrocínio. Fluminense (1853-1905)。奴隷解放主義者のリーダー。
● Francisco de Paula Brito. Carioca (1809-1861)。印刷業、作家。
● André Pinto Rebouças. Baiano (1838-1898)。エンジニア、作家。
● Luis Gonzaga Pinto da Gama. Baiano (1830-1882)。ジャーナリスト。
● Theodoro Fernandes Sampaio. Baiano (1855-1937)。エンジニア。
MULATO 混血と混血の間、あるいは混血と白人の間の混血に対する呼称
● Afonso Henriques de Lima Barreto. Carioca (1881-1922)。著述家。
● General Glicério (Francisco Glicério Cerqueira Leite). Paulista (1846-1916). 弁護士。
● Machado de Assis. Carioca (1839-1908)。黒人奴隷制下の首都に生まれ、父方の祖父母は黒人の解放奴隷、ブラジルを代表する作家に。
新春の1月11日 (土) 午後13時55分から15時30分まで本学161教室において「ブラジルの黒人エリート層―ブラジル奴隷制期に黒人や混血に対して公文書で用いられた分類」と題して、ブラジルのフルミネンセ連邦大学教授ニレウ・カヴァルカンティ(Nireu Cavalcanti)さん(写真参照)が講演をおこないました。
この講演では、アフロ・ラテンアメリカを語る(7)~(9)でも紹介したように、アフリカ人とその子孫を分類するためにリオデジャネイロで使用されているカテゴリーをニレウさんが紹介しました。つまり、黒人 (preto) やネグロ (negro)、クレオール (crioulo)、カブラ (cabra)、パルド (pardo)、ムラート (mulato)、カフーゾ (cafuso)です。この分類は、ポルトガルの奴隷制度の歴史とその法律、特に条例に基づいています。
ニレウ・カヴァルカンティさんの大きな指摘は次の3点でした。
まず第一に、カトリックの宗主国ポルトガルの植民地として黒人奴隷制が始まり、混血が生まれましたが、ブラジルではその混血には複雑な分類がなされたことです。黒よりも白が良いとされ、今もその判断の影響が残っています。
二つ目は、18世紀や19世紀において芸術や技能において天才的な能力を発揮したのは混血の人たちだったことです。特に、音楽や文学、建築学において際立っていました。
第三は、人種の多様性の中でブラジル社会は「黒人」をもっとも差別したことです。未来に向けて人種のグループが対立するのではなく、共存の姿勢を示すことが大切です。混血社会のブラジルはその手本を示すことができるでしょう。カリオカの異種族混淆文化を主張する著名な人類学者のロベルト・ダ・マタさんはニレウさんの友人です。マタさんのインタビューも参考に。
講演の終わりに、フロアから「未来のブラジルに米国のように黒人の大統領が生まれるでしょうか」と質問がありました。これに対してニレウ・カヴァルカンティさんは「すでにムラートの大統領はいます」とこたえ、「女性の大統領は出ましたが、黒人女性の大統領の誕生を期待します」と続けました。ムラートの大統領はニーロ・ペサニャ(Nilo Peçanha)です(写真参照)。
公式の分類
黒人
1) アフリカから直接到来した奴隷は、新奴隷 (escrevo novo)と呼ばれた。
a) ギネー (GUINÉ)黒人。16世紀、17世紀に到来。
b) 奴隷 (ESCRAVO), アフリカ生まれの黒人(PRETO): アンゴラ(Angola), カボヴェルデ(Cabo Verde), コンゴ(Congo), モンジョーロ(Monjolo), ミナ(Mina) など。
c) 自由アフリカ黒人(PRETO AFRICANO LIVRE)。ブラジル英国間で交わされた独人奴隷貿易禁止の1830年以降。
2)
a) クリオウロ(CRIOULO) = ブラジルで奴隷の母から生まれた者。
b) 解放されたクリオウロ(CRIOULO FORRO = 自由を獲得した者 (alforriado)。
c) 自由なクリオウロ(CRIOULO LIVRE) = 元奴隷の子、つまり自由人。
混血
3) パルド (PARDO) = 黒人白人間の最初の混血。
4) カブラ (CABRA) = パルドと黒人間の混血。
5) ムラト (MULATO) = パルドと白人間の混血。
6) カフーゾ (CAFUSO) = 先住民と黒人やパルド、カブラとの混血。
リオデジャネイロで際立っていたアフリカ人の子孫たち
PRETOS LIVRES (自由黒人)
● Cândido da Fonseca Galvão. Baiano (1834-1890) Príncipe Obá II パラグアイ戦争(1864 – 1870年)の英雄。
● João da Cruz e Souza. Catarinense (1861-1898)。詩人。
● Hemetério José dos Santos. Maranhense (1858-1939)。著述家、文献学者。
● Antonio Raphael Pinto Bandeira. Niteroiense (1863-1896)。画家。
● Valentim da Fonseca e Silva (Mestre Valentim)。Mineiro (1744-1813)。建築家。
PARDO 黒人と白人の混血
● José do Patrocínio. Fluminense (1853-1905)。奴隷解放主義者のリーダー。
● Francisco de Paula Brito. Carioca (1809-1861)。印刷業、作家。
● André Pinto Rebouças. Baiano (1838-1898)。エンジニア、作家。
● Luis Gonzaga Pinto da Gama. Baiano (1830-1882)。ジャーナリスト。
● Theodoro Fernandes Sampaio. Baiano (1855-1937)。エンジニア。
MULATO 混血と混血の間、あるいは混血と白人の間の混血に対する呼称
● Afonso Henriques de Lima Barreto. Carioca (1881-1922)。著述家。
● General Glicério (Francisco Glicério Cerqueira Leite). Paulista (1846-1916). 弁護士。
● Machado de Assis. Carioca (1839-1908)。黒人奴隷制下の首都に生まれ、父方の祖父母は黒人の解放奴隷、ブラジルを代表する作家に。
2020/01/05 10:10:00 アフロ・ラテンアメリカを語る(9)
- ブラジル紹介
- 住田 育法
ブラジルのフルミネンセ連邦大学教授ニレウさん(写真)がやって来ます。
演題 ブラジルの黒人エリート層―ブラジル奴隷制期に黒人(写真)や混血(写真)に対して公文書で用いられた分類
Elite negra no Brasil: as classificações usadas nos documentos no período da escravidão no Brasil, para pretos e miscigenados
講師:Nireu Oliveira Cavalcanti(ニレウ・オリヴェイラ・カヴァルカンティ)
フルミネンセ連邦大学教授
日時 2020年1月11日(土)午後1時55分~3時15分
場所 京都外国語大学161教室
通訳 住田育法
※ 参加は自由です。皆様、ふるってご参加ください。
ニレウさんから届いた歌のメッセージです。
トム・ジョビン国際空港 (o Aeroporto Internacional Tom Jobim, anteriormente chamado Aeroporto Internacional do Rio de Janeiro, também conhecido como Aeroporto do Galeão) から関西国際空港経由で京都にやって来ます。
Samba do Avião
Minha alma canta
Vejo o Rio de Janeiro
Estou morrendo de saudades
Rio, céu, mar
Praia sem fim
Rio, você foi feito prá mim
Cristo Redentor
Braços abertos sobre a Guanabara
Este samba é só porque
Rio, eu gosto de você
A morena vai sambar
Seu corpo todo balançar
Rio de sol, de céu, de mar
Dentro de mais um minuto estaremos no Galeão
Copacabana, Copacabana
Cristo Redentor
Braços abertos sobre a Guanabara
Este samba é só porque
Rio, eu gosto de você
A morena vai sambar
Seu corpo todo balançar
Aperte o cinto, vamos chegar
Água brilhando, olha a pista chegando
E vamos nós
Pousar
演題 ブラジルの黒人エリート層―ブラジル奴隷制期に黒人(写真)や混血(写真)に対して公文書で用いられた分類
Elite negra no Brasil: as classificações usadas nos documentos no período da escravidão no Brasil, para pretos e miscigenados
講師:Nireu Oliveira Cavalcanti(ニレウ・オリヴェイラ・カヴァルカンティ)
フルミネンセ連邦大学教授
日時 2020年1月11日(土)午後1時55分~3時15分
場所 京都外国語大学161教室
通訳 住田育法
※ 参加は自由です。皆様、ふるってご参加ください。
ニレウさんから届いた歌のメッセージです。
トム・ジョビン国際空港 (o Aeroporto Internacional Tom Jobim, anteriormente chamado Aeroporto Internacional do Rio de Janeiro, também conhecido como Aeroporto do Galeão) から関西国際空港経由で京都にやって来ます。
Samba do Avião
Minha alma canta
Vejo o Rio de Janeiro
Estou morrendo de saudades
Rio, céu, mar
Praia sem fim
Rio, você foi feito prá mim
Cristo Redentor
Braços abertos sobre a Guanabara
Este samba é só porque
Rio, eu gosto de você
A morena vai sambar
Seu corpo todo balançar
Rio de sol, de céu, de mar
Dentro de mais um minuto estaremos no Galeão
Copacabana, Copacabana
Cristo Redentor
Braços abertos sobre a Guanabara
Este samba é só porque
Rio, eu gosto de você
A morena vai sambar
Seu corpo todo balançar
Aperte o cinto, vamos chegar
Água brilhando, olha a pista chegando
E vamos nós
Pousar
2019/12/31 18:20:00 アフロ・ラテンアメリカを語る(8)
- ブラジル紹介
- 住田 育法
2020年1月11日のニレウ・カヴァルカンティさんの講演会の予習です。
肌の色について、19世紀の帝政時代にはどのように理解されていたかを考えることになります。21世紀のリオデジャネイロでアフロ系の人々と共存する講師のニレウ・カヴァルカンティさんの厳しいなまざしを講演で知ることになるでしょう。
まず、黒人奴隷制下の首都リオデジャネイロに生まれ、父方の祖父母は黒人の解放奴隷であったにもかかわらず、ブラジルを代表する作家となったMULATOのマシャード・ジ・アシス(Machado de Assis. Carioca: 1839-1908、参照:写真)に注目しましょう。父親はMULATOのフランシスコ・ジョゼ・ジ・アシス(Francisco José de Assis)、母親は白人のポルトガル人マリア・レオポルジーナ・ダ・カマラ・マシャード(Maria Leopoldina da Câmara Machado)です。MULATOは混血と混血の間、あるいは混血と白人の間の混血に対する呼称です。
2人目はPRETOS LIVRES (自由黒人)と呼ばれたパラグアイ戦争(1864 – 1870年)の英雄のオバー王子二世(Príncipe Obá II)のカンジド・ダ・フォンセカ・ガルヴァン (Cândido da Fonseca Galvão、Baiano : 1834 - 1890参照:写真)です。自由なアフリカ人オバー王子一世 (Príncipe Obá I )ベンヴィンド・ダ・フォンセカ・ガルヴァン(Benvindo da Fonseca Galvão).の子です。
3人目はPARDO、つまり黒人と白人の混血であった奴隷解放主義者のリーダーのジョゼ・ド・パトロシニオ(José do Patrocínio、Fluminense: 1853 - 1905参照:写真)です。父親が白人司祭(padre João Carlos Monteiro: branco)、母親がアフリカのガーナ・ミナ出身の黒人でした。
最後にマシャード・ジ・アシスの年譜の一部をポルトガル語で紹介しましょう。太字が作家が生きた帝政時代の出来事です。
1939:
Nasce a 21 de junho, no Morro do Livramento (foto), no Rio de Janeiro, Joaquim Maria Machado de Assis, filho legítimo de Francisco José de Assis e Maria Leopoldina Machado de Assis. Seu pai foi Francisco José de Assis, um mulato que pintava paredes, filho de Francisco de Assis e Inácia Maria Rosa, ambos pardos e escravos alforriados. A mãe foi a lavadeira Maria Leopoldina da Câmara Machado, portuguesa e branca, filha de Estevão José Machado e Ana Rosa.
1840:
Maioridade de D. Pedro II.
1869:
A 12 de novembro, casa-se com Carolina Augusta Xavier de Novais, na capela particular da casa do Conde de São Mamede, no Cosme Velho.
1870:
Começa, a 23 de abril, a publicar no Jornal da Tarde uma tradução, logo interrompida , do romance Olivier Twist, de Dickens. Publica seu segundo volume de versos, Falenas, e Contos fluminenses. Termina a Guerra do Paraguai.
1888:
Lei do 13 de Maio. Desfila, a 20 do mesmo mês, no préstito organizado para celebrar a Abolição.
1890:
Viagem a Minas Gerais, visitando as cidades de Juiz de Fora, Barbacena e Sítio, atual Antônio Carlos.
1891:
Publicação em volume do romance Quincas Borba. Falecimento de Maria Inês, madrasta de Machado de Assis.
1899:
Publica Dom Casmurro e Páginas recolhidas.
1908:
Na madrugada de 29 de setembro, às 3h20m, morre em sua casa, à Rua Cosme Velho, 18.
肌の色について、19世紀の帝政時代にはどのように理解されていたかを考えることになります。21世紀のリオデジャネイロでアフロ系の人々と共存する講師のニレウ・カヴァルカンティさんの厳しいなまざしを講演で知ることになるでしょう。
まず、黒人奴隷制下の首都リオデジャネイロに生まれ、父方の祖父母は黒人の解放奴隷であったにもかかわらず、ブラジルを代表する作家となったMULATOのマシャード・ジ・アシス(Machado de Assis. Carioca: 1839-1908、参照:写真)に注目しましょう。父親はMULATOのフランシスコ・ジョゼ・ジ・アシス(Francisco José de Assis)、母親は白人のポルトガル人マリア・レオポルジーナ・ダ・カマラ・マシャード(Maria Leopoldina da Câmara Machado)です。MULATOは混血と混血の間、あるいは混血と白人の間の混血に対する呼称です。
2人目はPRETOS LIVRES (自由黒人)と呼ばれたパラグアイ戦争(1864 – 1870年)の英雄のオバー王子二世(Príncipe Obá II)のカンジド・ダ・フォンセカ・ガルヴァン (Cândido da Fonseca Galvão、Baiano : 1834 - 1890参照:写真)です。自由なアフリカ人オバー王子一世 (Príncipe Obá I )ベンヴィンド・ダ・フォンセカ・ガルヴァン(Benvindo da Fonseca Galvão).の子です。
3人目はPARDO、つまり黒人と白人の混血であった奴隷解放主義者のリーダーのジョゼ・ド・パトロシニオ(José do Patrocínio、Fluminense: 1853 - 1905参照:写真)です。父親が白人司祭(padre João Carlos Monteiro: branco)、母親がアフリカのガーナ・ミナ出身の黒人でした。
最後にマシャード・ジ・アシスの年譜の一部をポルトガル語で紹介しましょう。太字が作家が生きた帝政時代の出来事です。
1939:
Nasce a 21 de junho, no Morro do Livramento (foto), no Rio de Janeiro, Joaquim Maria Machado de Assis, filho legítimo de Francisco José de Assis e Maria Leopoldina Machado de Assis. Seu pai foi Francisco José de Assis, um mulato que pintava paredes, filho de Francisco de Assis e Inácia Maria Rosa, ambos pardos e escravos alforriados. A mãe foi a lavadeira Maria Leopoldina da Câmara Machado, portuguesa e branca, filha de Estevão José Machado e Ana Rosa.
1840:
Maioridade de D. Pedro II.
1869:
A 12 de novembro, casa-se com Carolina Augusta Xavier de Novais, na capela particular da casa do Conde de São Mamede, no Cosme Velho.
1870:
Começa, a 23 de abril, a publicar no Jornal da Tarde uma tradução, logo interrompida , do romance Olivier Twist, de Dickens. Publica seu segundo volume de versos, Falenas, e Contos fluminenses. Termina a Guerra do Paraguai.
1888:
Lei do 13 de Maio. Desfila, a 20 do mesmo mês, no préstito organizado para celebrar a Abolição.
1890:
Viagem a Minas Gerais, visitando as cidades de Juiz de Fora, Barbacena e Sítio, atual Antônio Carlos.
1891:
Publicação em volume do romance Quincas Borba. Falecimento de Maria Inês, madrasta de Machado de Assis.
1899:
Publica Dom Casmurro e Páginas recolhidas.
1908:
Na madrugada de 29 de setembro, às 3h20m, morre em sua casa, à Rua Cosme Velho, 18.
2019/12/17 16:50:00 アフロ・ラテンアメリカを語る(7)
- ブラジル紹介
- 住田 育法
リオデジャネイロの歴史に詳しいニレウ・カヴァルカンティさんが講演をします。
ニレウさんの説明を利用すると、リオデジャネイロ市は、政治的、経済的、文化的そして都市的発展にとって非常に重要な意味を持つポルトガル国王からの二つの勅令による恩恵を受けました。一つは、バイアから分離して1752年に機能し始めた控訴院の創設であり、もう一つは、サルヴァドール市副王領(植民地ブラジル)の本拠地がリオデジャネイロに移されたことであります。そしてリオデジャネイロは1763年からブラジルの主都(1822年の独立後は首都と記す)になったのです。
このような 18世紀リオデジャネイロ都市研究を専門とするニレウ・カヴァルカンティさんが来日し、「ブラジルの黒人エリート層―ブラジル奴隷制期に黒人や混血に対して公文書で用いられた分類 ”Elite negra no Brasil: as classificações usadas nos documentos no período da escravidão no Brasil, para pretos e miscigenados”」について講演をおこないます。
詳しい日程はつぎのとおりです。
大西洋システムにおけるアフロ・ラテンアメリカ研究会講演
演題 ブラジルの黒人エリート層について
主催 京都外国語大学学内共同研究「大西洋システムにおけるアフロ・ラテンアメリカ研究会」
講師 ニレウ・カヴァルカンティ(Nireu Oliveira Cavalcanti)
フルミネンセ連邦大学教授
日時 2020年1月11日(土)午後1時55分~3時15分
場所 京都外国語大学161教室
通訳 住田育法
※ 参加は自由です。皆様、ふるってご参加ください。
カヴァルカンティ氏の日常
新聞に発表された内容の一部を引用しましょう。ポルトガル語です。
Um passeio pelo centro do Rio de Janeiro colonial
setembro 24, 2016 10:15
Arquiteto e historiador Nireu Oliveira Cavalcanti reconstitui em obra as grandes transformações que a cidade viveu ao longo de seus 450 anos
Um passeio por ruas, praças, largos, caminhos, rocios e becos do centro histórico do Rio de Janeiro é o que oferece o mais recente livro do arquiteto e historiador Nireu Oliveira Cavalcanti, o intitulado “Rio de Janeiro: Centro Histórico Colonial 1567-2015” (Rio de Janeiro, Andrea Jackobsson Estúdio Editorial/Fundação Carlos Chagas Filho de Apoio à Pesquisa no Estado do Rio de Janeiro, 2016), segunda edição revista e ampliada de “Rio de Janeiro: Centro Histórico — 1808-1998” (Anima/Dresdner Bank Brasil, 1998), fartamente ilustrado com fotos, aquarelas de Thomas Ender, imagens da Coleção Maria Cecília e Paulo Geyer do Museu Imperial e desenhos do próprio autor.
ニレウさんの説明を利用すると、リオデジャネイロ市は、政治的、経済的、文化的そして都市的発展にとって非常に重要な意味を持つポルトガル国王からの二つの勅令による恩恵を受けました。一つは、バイアから分離して1752年に機能し始めた控訴院の創設であり、もう一つは、サルヴァドール市副王領(植民地ブラジル)の本拠地がリオデジャネイロに移されたことであります。そしてリオデジャネイロは1763年からブラジルの主都(1822年の独立後は首都と記す)になったのです。
このような 18世紀リオデジャネイロ都市研究を専門とするニレウ・カヴァルカンティさんが来日し、「ブラジルの黒人エリート層―ブラジル奴隷制期に黒人や混血に対して公文書で用いられた分類 ”Elite negra no Brasil: as classificações usadas nos documentos no período da escravidão no Brasil, para pretos e miscigenados”」について講演をおこないます。
詳しい日程はつぎのとおりです。
大西洋システムにおけるアフロ・ラテンアメリカ研究会講演
演題 ブラジルの黒人エリート層について
主催 京都外国語大学学内共同研究「大西洋システムにおけるアフロ・ラテンアメリカ研究会」
講師 ニレウ・カヴァルカンティ(Nireu Oliveira Cavalcanti)
フルミネンセ連邦大学教授
日時 2020年1月11日(土)午後1時55分~3時15分
場所 京都外国語大学161教室
通訳 住田育法
※ 参加は自由です。皆様、ふるってご参加ください。
カヴァルカンティ氏の日常
新聞に発表された内容の一部を引用しましょう。ポルトガル語です。
Um passeio pelo centro do Rio de Janeiro colonial
setembro 24, 2016 10:15
Arquiteto e historiador Nireu Oliveira Cavalcanti reconstitui em obra as grandes transformações que a cidade viveu ao longo de seus 450 anos
Um passeio por ruas, praças, largos, caminhos, rocios e becos do centro histórico do Rio de Janeiro é o que oferece o mais recente livro do arquiteto e historiador Nireu Oliveira Cavalcanti, o intitulado “Rio de Janeiro: Centro Histórico Colonial 1567-2015” (Rio de Janeiro, Andrea Jackobsson Estúdio Editorial/Fundação Carlos Chagas Filho de Apoio à Pesquisa no Estado do Rio de Janeiro, 2016), segunda edição revista e ampliada de “Rio de Janeiro: Centro Histórico — 1808-1998” (Anima/Dresdner Bank Brasil, 1998), fartamente ilustrado com fotos, aquarelas de Thomas Ender, imagens da Coleção Maria Cecília e Paulo Geyer do Museu Imperial e desenhos do próprio autor.