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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS

ブラジル紹介

2017/06/18 22:20:00 1808年から二百九年、1908年から百九年

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted by住田 育法
 1908年6月18日に, 移住者781名を乗せた日本からの移民船「笠戸丸」がブラジルのサントス港に到着したことを記念して, 日本では「海外移住の日」, ブラジルでは「日本人移民の日」と呼んでいます。
 来年の2018年にはブラジルでは大統領選挙が予定されていますが, 日本人移民到着110周年にあたります。そこで改めて歴史を振り返ってみると, 8で終わる年に, ブラジルでは大きな変革を経験していることに気が付きます。
 
 植民地時代
 1578年 アルカセル・キビールの戦いで宗主国ポルトガルの国王, 戦死。
 1808年 ナポレオン軍から逃避したポルトガルの王室, ブラジル到着, 開港。

 独立以後
 1888年 ブラジルの黒人奴隷制廃止令に皇女イザベル署名。
 1908年 日本人のブラジル移住開始。
 1938年 ブラジルで移民同化政策が始まり, 日本語学校閉鎖。
 1958年 ボサノヴァ誕生
 1968年 軍政令第5号布告。軍政による暗い時代です。
 1988年 民主的な新憲法公布。民政移管後の明るい時代です。

 未来
 2018年 1988年憲法による民主的な大統領直接選挙の予定

 植民地のブラジルの運命を変えることになった本国ポルトガルの転換期を招いたのが, 1578年と1808年の出来事でした。
 前者の国王戦死の悲劇によって, ポルトガルは支配者を失い, スペインに併合されます。ところが, 新世界のスペイン領とポルトガル領の境界線が曖昧となり, ポルトガルの入植者は内陸部深くに開発を進め, 1750年のマドリッド条約で, ポルトガル領ブラジルは, 今日に近い領土を確保します。世界における展開では, アジアの支配を失ったポルトガルが, 植民地ブラジルに力を入れるようになり, ブラジル開発に拍車がかけられました。
 後者のポルトガル王室のブラジル逃避によって, 独立運動の地であるミナスジェライスに関係無く, ブラジルが帝国として独立を果たす, というきっかけを与えたのです。
 帝政時代の1888年は, 黒人奴隷社会のブラジルが, まったく新しい近代的な自由労働の社会に生まれ変わった年です。この変化の重要性を強調したブラジルの歴史家のセルジオ・B・デ・オランダは, ブラジル人の国民性には, ポルトガルから受け継いだ「真心」の姿勢があると述べています。民族的にも地域的にも多様な異種族混淆の国民から成るブラジル社会において, この寛容な姿勢こそが, 国民の間の悲惨な争いを避け, 平和な国民の統合と調和を保つための背景となっていると理解できるのです。
 1908年の日本移民の始まりの歴史を見ると、この寛容な姿勢が, ブラジルのその後の独裁政権においても示されていることが分かります。つまり, 北米のような「排日」ではない対応だったのです。
 2018年はどのような変革の年になるか分かりませんが, 2002年に貧困階層から登場したルーラ元大統領が, 次期大統領選に出馬を表明しています。社会的格差の是正が求められるブラジル社会において, 貧者の味方として再選される可能性もあるでしょう。
 1908年から110年目の来年の移民の日を思い, 「真心」の民, ブラジル人とのさらなる友好を祈ります。
  • 1808年から200年目に出版された歴史書の表紙
  • ボサノヴァ50周年記念のCD
  • 日本人移民100周年のブラジルの記念切手

2016/12/30 17:50:00 南米ブラジルのフロンティアの西進(5)

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted by住田 育法
 ブラジルのフロンティアの西進は1960年のブラジリア遷都によって最大の展開を迎えました。しかしその歩みは、さらに西のマトグロッソに向けて続きます。ボリビアの国境線の手前の大湿原のパンタナルの開発です。掲載の地図の白枠で囲った箇所が私が訪問したパンタナルの空間でした。ラプラタ水系です。

 26年前の1990年9月12日(水)朝7時45分に、私は妻とサンパウロのグアルーリョ空港でクイアバ行きの国内線の飛行機を待っていました。初めてのパンタナル訪問直前の高揚した気分を今も覚えています。

 朝9時にクルゼイロ・ド・スル航空機484便の搭乗を終え、9時31分にグアルーリョを離陸。10時57分にカンポグランデに着陸し、11時32分に再度、離陸。約1時間後の12時25分、時差1時間の11時25分にクイアバに着陸しました。1990年は地球規模の環境問題が話題となった「エコ92」の前。飛行中の眼下には、いたるところで激しい山焼きの煙が立ち上っていました。空港で昼食を終えて13時21分に出発し、ジャクビーナ、カーセレを経て、途中、豪雨のため大幅に遅れて、17時10分ごろ、目的地のバランキーニョ牧場に到着しました。

 車はフォルクスワーゲンのゴルフでしたが、どしゃぶりの雨で遅れたため、牧場の主人たちが心配して、ジープで迎えに出発する準備をしていたそうです。

 大湿原パンタナル牧場の漆黒の静寂を経験し、13日(木)の朝を迎えました。朝の10時に小舟でジャウル川を遡り、40分ぐらいで折返し、11時20分ごろ牧場に。昼食のあと、13時15分に再度、川へ。途中、カピバラに遭遇。15時5分、牧場に帰還。15時20分から16時ごろまで、牧場を散策し、牛や馬を撮影。17時過ぎごろまで夕日を楽しみました。

 3日目の14日(金)も朝9時47分に牧場を小舟で出発し、ジャウル川を遡り、10時57分に折返して、11時49分に戻りました。食事のあと、14時39分に再度出発。パラグアイ川へ向かい、15時39分に折返し、16時38分に牧場の前を小舟で通り過ぎ、16時57分に陸に上がりました。夕食後、美しく晴れわたった夜空に、南十字星を見つけました。澄んだ天空を人工衛星も飛んでいて、南米パンタナルの雄大な自然に包まれて、感動のひとときを過ごしました。

 15日(土)朝、8時12分に牧場を出発、来たときと逆に草原を走り、9時33分にポリビアに通じるアスファルトで舗装されたBR070号線へ入りました。11時ごろ途中で昼食をとり、12時にクイアバ空港に到着。14時53分離陸、18時49分にサンパウロのグアルーリョ空港に着陸しました。時差1時間ですから、クイアバ時間では17時49分でした。
  • 26年前訪問したクイアバ市西部の大湿原パンタナル。白枠の部分です。
  • エンジン付きの小舟でパラグアイ川を遡る。下るとアルゼンチンのラプラタ川へ。
  • 澄んだ天空の南十字星や人工衛星を観測。南に向けてカメラのシャッターをしばらく開いたままに。

2016/12/29 03:10:00 『所さんのビックリ村』はブラジル先住民の村

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted by住田 育法
 2016年12月25日(日)、クリスマスの夜放送のテレビ番組『所さんの世界のビックリ村!~こんなトコロになぜ?~』 VTRの「監修」依頼の連絡が京都外国語大学ラテンアメリカ研究所経由で届いたのは12月9日(金)でした。取材地域はブラジルのカヤポ族の村です。ちょうど私担当の複数の授業で、ブラジル先住民の「ディアスポラ」、つまり新世界における「離散」と呼べるような先住民の「大移動」を取上げていましたので、先住民調査の経験はありませんが、私はお引受けすることにしました。

 カヤポ族はブラジルで一般的に知られているトゥピ語族とは異なるジェ語族の民族であり、悲しき熱帯の著者レヴィ=ストロースが調査した語族です。フランス人の人類学者である彼は、同じくフランス人の社会学者ロジェ・バスティードらと1934年創設のサンパウロ大学に1930年代に赴任してブラジルの若者たちにアカデミックな方法論を教えました。

 番組でミステリーサークルと呼んでいる円い村の形について、「ボロロ族の村は荷車の車輪に似ている。家族の住居は輪に当たるであろうし、小途(こみち)は輻(や)を、車輪の中央にある男の家は轂(こしき)を模(かたど)っていると言えるかもしれない。(略)ジェ語族のすべての種族に特徴的なもので、ボロロ族はおそらくその最も南方の代表なのである。しかし、北の方で最もボロロ族に近いカヤポ族は、ボロロ族と似たような遣り方で集落を作ることが知られている。」とレヴィ=ストロースは説明しています。

 今回の取材班は日本からまず飛行機でサンパウロ市に到着し、マト (マット) グロッソ州シノプからコリーデルに移動し、そこから車でアマゾン川支流のシングー川に向かい、岸辺から船で川を下り、その流域のカヤポ族の村に達しました。

 これまで、活字と写真のみで理解していたジェ語族の文化を、映像の「監修」という作業によって私はより身近に知ることができました。村のカースト上位の女の子が、前髪を剃り、体に絵を描くという、名前を付ける儀式は、彼女たちの髪が日本人に似た漆黒の直毛であるので、不思議な親しみをおぼえました。

 ブラジルの先住民には「ディアスポラ」に加えて、ポルトガル人による「ジェノサイド」、つまり大量虐殺の歴史があったことを、レヴィ=ストロースが指摘しています。「悲しく」苦しい過去を経験している先住民ですが、「所さんの番組」ではハウル村長自身の言葉を伝えて、奇習とも思える「毒バチと戦う男達の祭と女が主役の”落武者”祭」について番組をたくみに纏めています。
 
 強い決意を示して、村長が語ります。「現代文明がある程度入ってくるのは仕方がない。しかし、境界線を引いて、カヤポの文化に誇りをもって守っていかなければならない。だから、あのような祭を行っているんだ。」

 そしてナレーターが続けます。「アマゾンの先住民、カヤポ族。かれらは奇習ともいえる祭をあえて行うことで押し寄せる現代文明に飲み込まれないようにしている。カヤポ族独自の文化に誇りを持ち、守り続けていくために。落武者が笑う村を他に類を見ない祭を続けることで、かれらは独自の文化を未来に繋げていた。」

 なお、写真は「所さんの番組」のものではなく、ブラジルのネットから引用です。
  • マトグロッソの州都クイアバ (Cuiaba) の西はラプラタ水系のパンタナル。シングー川はアマゾン水系。
  • 2011年81歳でパリ名誉市民の称号を市長より受けるハウル村長
  • カヤポ族の村の”ミステリーサークル”

2016/11/19 11:30:00 南米ブラジルのフロンティアの西進(4)

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  • Posted by住田 育法
 南米大陸のフロンティアの西進は、20世紀中葉の1960年の遷都によって最大の展開を迎えます。建築に携わった労働者はカンダンゴと呼ばれる北東部からやって来た人たちでした。 

 しかし、何にもまして重要だったのは、ひとりの大統領の情熱でした。

 つまり遷都は、冷戦下の国際関係において、親米外交を進めた、ミナスジェライス出身のクビシェッキ大統領による中西部への前進に対する冒険的な挑戦の賜でした。セラードと呼ばれる大草原の真ん中に、超近代的な都市ブラジリアを建設し、実際に連邦政府の首都としてスタートさせたのです。

 歴史の偶然ですが、1960年のブラジルの大統領のジュセリーノ・クビシェッキの愛称はJK、翌1961年に就任し、ラテンアメリカとの経済協力関係を求める「進歩のための同盟」を唱えた北米のアメリカ合衆国大統領もJK、つまりジョン・ケネディでした。そして、ちょうど53年前の1963年11月に北米のJKは暗殺されますが、南米のJKも40年前の1976年8月の死は暗殺であったと伝えられています。

 さらに歴史を遡ると、ヒトをモノとして売買した黒人奴隷の完全解放によって、ようやく社会が旧から新への「チェンジ」を果たしたのは、わずか128年前の1888年だったのです。翌89年には帝政が崩壊し、政治が新しい共和政に移行します。そして1891年に、連邦共和制を定めた「ブラジル合衆共和国憲法(CONSTITUIÇÃO DA REPÚBLICA DOS ESTADOS UNIDOS DO BRASIL)を制定し、南米に「合衆国」が生まれます。フランスの「自由、平等、友愛」に、アメリカ合衆国の「民主主義」が加わったのです。

 北米の合衆国のように、南米の「大国」を目指していたブラジルが、本当にその目標を達成できるとは100年前には容易に想像できなかったでしょう。しかし、BRICSの一つとして、中国、ロシア、インドに並ぶ新興国として世界の経済地図を塗り替えようとしている21世紀の今は、未来においては「もしかすると南米に超大国ブラジルが誕生するかもしれない」と思えるかもしれません。それでも、政治、経済、教育など、北米の超大国の合衆国にははるかに及ばない多くの問題を抱えています。

 1990年に本学とブラジリア大学との交流協定締結のために来学した建築学が専門のホリ教授よると、ブラジル高地を流れる3つの大河の源流にあたるので、その地を首都に選んだそうです。まさに、広大な空間の要に「連邦区」である首都を築いたのです。

 「荒れ地に誕生した廃墟のような都市」、という過去によく聞かれた欧米やブラジルの都市住人による誤解や批判に耐えて、66年を経た今、南米の大国ブラジルの西進を支える首都として確かな歩みを続けています。
  • 国会議事堂、大聖堂などニーマイヤーの作品が並ぶプラーノピロット
  • プラーノピロットと衛星都市を結ぶ地下鉄の乗客
  • 2010年8月ブラジリア外務省を訪問しブラジル政治の現状について情報交換

2016/11/16 05:00:00 南米ブラジルのフロンティアの西進(3)

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  • Posted by住田 育法
 19世紀におけるブラジルのフロンティアの西進は、コーヒー栽培地で起こりました。それは、リオデジャネイロ(以下、リオと記す)からサンパウロに向けての前進でした。

 皆さんは冷たい草原を数日間、野営をしながら移動したことはありますか。夜が明けると、寝具を片付けて、火を熾し、湯を湧かします。このとき、お茶を飲むか、白湯(さゆ)で我慢するか、あるいは南米カウボーイのガウチョ(ブラジルではガウーショ)のようにマテ茶をすするか、それともコーヒーか。さてどうでしょう。私は今、アメリカ映画の西部劇のシーンを思い出しています。拳銃を腰に下げたアメリカ合衆国のカウボーイは、コーヒーですね。

 要するに、19世紀にアメリカ合衆国の人々が大量のコーヒーを飲み始め、地理的に近い南米ブラジルの南部で大量のコーヒーの生産が始まったのです。それも、桁外れの量でした。
 ある産業が劇的な発展を遂げるときには、投資のための豊かなカネ、労働のための大量のヒト、生産のための広大な土地が必要です。19世紀ブラジル南東部のリオのコーヒー生産には、このすべてが揃ったのです。カネを出したのは最初はジョアン六世の下で資金力を得たポルトガル商人や当時の世界の金融界を支配するイギリスの資本家たち、労働力は未だ続いていた奴隷制下の黒人奴隷、土地は熱帯の豊かな大西洋林を切り拓きました。そしてブラジル人の活躍もありました。独立した首都リオの企業活動家たちです。消費者は、お茶ではなくコーヒーを飲み始めた米国人たち。奴隷貿易停止問題の解決によって、19世紀後半におけるブラジルとイギリスの関係が修復し、鉄道を中心に商業、海運、保険、銀行などコーヒーに関連する種々の活動にイギリス資本が殺到したのです。

 北部のオランダ領ギアナ、現在のスリナムを経由して、1727年にコーヒーの苗木がブラジルに導入されました。以後、北部でわずかに栽培されていたコーヒーは、19世紀の初頭には主要な商品作物となり、同世紀後半にはブラジル経済を支える重要な輸出品となったのです。

 最初はリオであったコーヒーの栽培地は、やがて栽培に適した未開拓地を求めて、パライーバ川流域の渓谷に移動し、驚異的な発展を遂げます。しかし、リオの初期のコーヒー栽培地は、土地の疲弊や農業技術が低いために、衰退の兆候が見られました。やがて、新しい土地の開拓のために、隣接地域のサンパウロへと移動を始めます。サンパウロ西部の肥沃な地域に移動を続け、1870-71年にブラジルコーヒーの輸出量は、ブラジルの輸出総額の半分を占めるまでになります。

 こうした西の内陸部への前進をサンパウロが進めるとき、隣国のパラグアイは海への出口を求めて、軍事力によって東への展開を望み、ブラジルとパラグアイは軍事的な衝突を起こしたのです。これが、パラグアイの男性の80%が死亡した伝えられる、6年にわたるパラグアイ戦争(1864-70年)だったのです。歴史が不思議な事実を語っています。ナポレオン軍を目標とした当時南米最強と思われたパラグアイの精鋭の軍隊が、黒人奴隷やリオのならず者たちを主力に加えたブラジルの軍隊に大敗したのです。
  • リオのコーヒー栽培地ヴァソーラスの19世紀の鉄道の機関車
  • ヴァソーラスの過去のコーヒー業者の館
  • 第二帝政期のサンパウロ県の地図 1886年

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