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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS

ブラジルのニュース

2018/05/29 11:50:00 ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督の思い出(2)

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  • Posted by住田 育法
 2010年5月に来日し、京都や奈良を訪問したネルソン・ペレイラ監督は、20世紀中葉の冷戦期、ハリウッド映画への強烈なアンチテーゼを示した「新しい映画」の旗手でした。とくに同監督最初の長編映画『リオ40度』(1955年)は、国際観光都市リオのファヴェーラで生活する黒人の子どもたちの日常生活を取りあげたことで、1960年代に起こる「新しい映画」誕生に息吹をもたらしたのです。
 ちょうどその時代は、黒澤明監督が登場し、当初、日本では高い評価が得られなかったものの、「世界のクロサワ」として国際的な注目を浴びていました。ともに人間の複雑な心のひだに分け入った、魅力溢れるドラマを提供しています。

 この黒澤明監督とネルソン・ペレイラ監督の代表作を、年にそってを並べてみましょう。

 1950年クロサワ
 羅生門1950年 ヴェネツィア映画祭金獅子賞

 1954年クロサワ
 七人の侍1954年 ヴェネツィア映画祭銀獅子賞

 1955年ネルソン・ペレイラ
 リオ40度 (Rio, 40 Graus) 1955年

 1961年クロサワ
 用心棒 1961年 ヴェネツィア映画祭主演男優賞(三船敏郎)

 1963年ネルソン・ペレイラ
 乾いた人生 (Vidas Secas) 1963年 原作グラシリアーノ・ラモス ※第17回カンヌ国際映画祭 コンペティション部門OCIC賞受賞

 1965年クロサワ
 赤ひげ 1965年 キネマ旬報1位、ヴェネツィア映画祭サン・ジョルジュ賞、ヴェネツィア市賞、国際カトリック映画祭事務局賞、モスクワ映画祭映画労働組合賞

 1980年クロサワ
 影武者 1980年 カンヌ映画祭グランプリ、英国アカデミー賞監督賞・衣装デザイン賞、セザール賞外国語映画賞、ベオグラード映画芸術賞・作品賞・美術賞

 1983年ネルソン・ペレイラ
 監獄の記憶 (Memórias do Cárcere) 1983年 ※第37回カンヌ国際映画祭FIPRESCI賞受賞

 1985年クロサワ
  1985年 アカデミー賞衣装デザイン賞、ニューヨーク批評家賞作品賞、全米批評家賞作賞・撮影賞、英国アカデミー賞外国語賞

 1993年ネルソン・ペレイラ
 第三の岸辺 (A Terceira Margem do Rio) 1993年第44回ベルリン国際映画祭コンペティション部門

 『監獄の記憶』は1984年8月にリオのニテロイの映画館で鑑賞しました。ブラジル史のヴァルガス革命に関心を持つ筆者には映像で楽しめる大変興味深い作品でした。

 八年前にネルソン・ペレイラ監督といっしょに、私もカメラを片手に京都や奈良を歩きまわり、そのとき監督が、「撮影は太陽の出ているときでなければ駄目だ。ちょうど、農夫が雨の日は仕事をしないのと同じ」と語った言葉が懐かしく思い出されます。筆者は映像ではなく、もっぱら動かない写真ですが、晴天と太陽光線の具合を確認しながら、都市や農村の風景をカメラにおさめています。
  • 2010年5月に奈良の東大寺で奥様を撮影するペレイラ監督
  • 太秦映画村で黒沢明監督の写真をみつめるペレイラ監督
  • 1983年の作品『監獄の記憶』のポスター

2018/05/21 00:00:00 ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督の思い出(1)

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  • Posted by住田 育法
 いまから八年まえの2010年5月15日の葵祭の土曜日、世界のペレイラ監督が奥様と入洛されました (写真)。そして、それから八年目のいま、悲しいニュースがブラジルから届きました。ブラジル時間の4月21日土曜日の夕刻 5時、リオの病院で肝臓癌で亡くなられたのです。時差12時間の日本で私が知ったのは、22日の日曜日の朝でした。
 ブラジルを代表する世界的に知られた監督ですが、本学が1974年以来交流協定を締結しているフルミネンセ連邦大学に映画コースを創設し、映画人として多くの若者を指導してきましたので、私の世代の教授たちのグループと、特にこの八年間は、仲間として親しくさせていただきました。グラシリアーノ・ラモスの文学作品の『乾いた人生』(1963年)や『監獄の記憶』(1984年)などの映画化を行っていた関係から、文学部の教授たちと深い繫がりを持っていました。ペレイラ監督と親しい、私にとっても留学時代からの友人であったブラジル文学アカデミー元会長の言語学者ドミーシオ・プロエンサ教授といっしょに親交を深めていました (写真)。

 訃報は、ドミーシオ・プロエンサ先生からメールで届きました。
 ペレイラ監督夫人にお悔やみ言葉をメールで送りました。

 Foi com profunda tristeza que recebemos a notícia do falecimento do nosso amigo e o grande cineasta Professor Nelson Pereira dos Santos. Eu, Sumida, em nome da minha família, venho por meio desta mensagem expor todo o nosso sentimento pela nossa perda recente.

 ところで、八年前のペレイラ監督の公開講座としての講演と映画上映のための来日にあたっては、複数の幸運な支援を受けることができました (ポスター)。
 その一つは、当時のブラジル政府が映画をはじめとするブラジル文化のグローバルな普及に積極的であったことです。監督夫妻の移動と宿泊について、ブラジル文学アカデミーとブラジル政府からの助成がありました。
 二つ目は、アテネ・フランセ文化センターの支援を頂戴できたことです。ペレイラ監督の作品は2000年に大島監督の推薦によって、東京で紹介されていました。京都での2010年の上映は、東京のアテネ・フランセ文化センターが保管しているそのときの35mmフィルムを無料で利用できたのです。
 第三には、京都文化博物館の貴重な援助でした。作品には若干のフィルムの劣化も見られ、これを修正して上映する技術は、幸いにも京都文化博物館にあり、これを無償で引き受けていただけたのです。博物館が会場となって行った映画上映は、監督の講演に命を吹き込む貴重な恵みとなりました。
 そして、これがもっとも重要なことですが、ブラジルリオのフルミネンセ連邦大学と本学が交流協定を締結していることによって、学術交流のレベルで招へいできたことです。
  • 2010年5月15日に葵祭の行列を観覧するペレイラ監督ご夫妻
  • 2017年8月14日にペレイラ監督夫妻 (左から二人目と三人目)、ドミーシオ教授夫妻とリオでいっしょに
  • 八年まえの講演会と映画上演のポスター

2017/11/28 02:00:00 日本人医学生、ブラジルの先住民村で医療活動 その4

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  • Posted by住田 育法
 33年前の1984年9月に、私はアマゾン河流域のマナウスを訪問しました。小舟から眺めた一面の水と森の風景が懐かしく思い出されます(写真)。

 21世紀になった2017年8月、慶應義塾大学医学部国際医学研究会 (IMA)第40次派遣団の皆さんがマナウスを訪問しました。

 以下は派遣団のブログの内容です。

 2017年8月24日(木)
 マナウスでは本研究会が長年活動している「巡回診療船」に同乗させていただきました。アマゾン河流域には「コミュニティ」と呼ばれる村が多く存在し、その村には医師がいないことがほとんどです。そういった人々のため「巡回診療船」を政府が運営し、医師、歯科医師、看護師、薬剤師、調理師などが無医村地域を船で移動し診療を行います。
 まず、アマゾン河巡回診療船同乗実習の前に巡回診療船を運営するマナウス市保健局を訪問しました。そちらでは、巡回診療のスケジュールや巡回する村についてご説明を受けました。
 その後、買い物を済ませ、診療船の出発地である港へ向かいました。遂に私達がずっと夢見てきたアマゾン河での活動が始まることに胸を踊らせている内に船も出発しました(写真)。
 朝起きると最初の活動地である村に到着していました。そこに広がるアマゾン河に一同感動し、これから行う活動に向けてより一層気持ちが高鳴りました。
 医師による問診、診察は基本的に村の学校などで行い、船内では尿検査、血液検査、歯科処置、ワクチン注射、薬剤の説明・受け渡し、外科処置などが行われていました。また、停泊する村以外に住まれている方や高齢などを理由に学校まで来れない人には、徒歩や小型のボートを使用し患者さんの家まで訪問診療を行いました(写真)。

 診療したそれぞれの村には、マラリアに感染し今回が10回目の感染であった患者、ハンセン病患者、ロボミコーシスの患者など日本では見ることのできない多くの症例があり、非常に貴重な経験を多く積むことができました。一方、どの村にも糖尿病患者や高血圧患者はいらっしゃり、中には糖尿病が進行し片足が壊死している患者さんもいらっしゃいました。
 処置室には、鼻の中に自分で石を突っ込み取れなくなってしまった子供や、果物を木に向かって投げたところそれが跳ね返り自分の頭に直撃し縫うことになってしまった子供もいました。
 アマゾンでの活動は毎日が非常に刺激的で充実しており、1日1日があっという間に過ぎて行きました。夜は疲れのせいか気づかぬ内に一同ぐっすり眠ってしまいました。
 日本の大学病院とは違った環境での医療現場の様子、診療船での活動で出会った方々との思い出、そしてアマゾン河の広大な風景。多くの方々の支えのもとで、この活動でしか得ることのできない貴重な経験をたくさんすることができました。将来、私達が医師となってからも、この体験は一生忘れることはないと思います。
  • 33年前の1984年9月、筆者住田はマナウスを出てジャングルの中を小舟で静かに進みました。(筆者撮影)
  • 診療船の出発地である港へ。ずっと夢見てきたアマゾン河での活動が始まることに胸を踊らせている内に船も出発。(派遣団活動記録ブログより)
  • 医師による問診、診察は基本的に村の学校などで。船内では尿検査、血液検査、歯科処置、ワクチン注射など。 (派遣団活動記録ブログより)

2017/11/22 21:30:00 日本人医学生、ブラジルの先住民村で医療活動 その3

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  • Posted by住田 育法
 慶應義塾大学医学部国際医学研究会 (IMA)の第40次派遣団の活動を紹介していますが、今回の内容は、2010年にも同研究会のブログで、9回目の訪問と記録されているシャバンテ(Xavante)族の村についてです。
 マトグロッソ州東部に居住するジェー() 語族のグループで、ポルトガル人がブラジルに最初に着いたころに広く沿岸地帯を支配していたトゥピ (tupi) 語族ではありません。レヴィ=ストロースが調査したボロロ族がジェー語族ですね。
 
 さて、慶應義塾大学医学部国際医学研究会第40次派遣団の2017年のシャバンテ族の村の訪問の様子を紹介しましょう。

 シャバンテ族の村は、舗装された道から逸れて30分ほど行った森の中にありました。途中の道は、座席に座っていられないほどの凸凹道で、文字通り「車に揺られて」やっとの思いで到着しました。村は中央の広場を囲んで約15軒の家が散在し、82人が暮らしているとのことでした。私たちは村の奥手にある学校の一室をお借りし、そこで生活しました。 
 村に到着後まず、日本から持参したTシャツ、鉛筆、歯ブラシを配布しました。Tシャツは主に子供たちに配布し、嬉しそうにその場で着てくれる姿を微笑ましく見ておりました。
 またクレヨン、スケッチブック、日本のおもちゃ(紙風船、縄跳び、竹とんぼ、こま)を子供たちにプレゼントしました。私どもが見ていると、恥ずかしがってなかなか絵を描いてくれず、遠くから見守っておりました。おもちゃは、竹とんぼと縄跳びを特に気に入ってくれたようで、翌日も夢中になって遊んでくれていました。


 私は過去、都市研究の現地調査のために数回、リオデジャネイロ州ニテロイ市の低所得者層共同体、所謂ファヴェーラを訪問したことがあります。そのときも必ず、こどもたちのために歯ブラシやクレヨンなどをお土産に持参しました。友人の大学教授がソーシャルワーカーを置いて、低所得者への社会支援を行っていましたが、今では繋がりが無く、訪問することはありません。

 さて、先住民の村の話に戻りましょう。

 村の医療の現状を調査しました。村長と、村の伝統医療を担う「パジェ」という職業の方にインタビューさせていただきました。村では、病気になるとまずパジェに相談し、木の根などから作った薬を飲ませてもらいます。
 それでも軽快しない場合には、尖らせた竹で身体に傷を付けることで、病気で汚れた血を外に流します。こうした治療でも良くならない場合には、街の病院に行くそうです。
 このように伝統医療の後に西洋医療という順で治療しますが、いずれも同等に信頼しており、距離的な問題から伝統医療が優先されるだけだとお聞きしました。
 こうした調査活動に加え、シャバンテ族たちの生活にも密着して参りました。ある日には彼らの魚釣りに同行しました。場所は森の中を1時間歩き、途中で川を越え、ようやくたどり着いた流れの緩やかな川辺でした。茹でた豆や米粒を針に付け、糸を垂らして魚を釣る彼らに倣い、1時間半ほど釣りをしました。しかし、大量の小さな虫に苦しめられ、私どもは釣果なしに終わりました。
 また村にはシャワーがなかったため、毎日川で水浴びをしました。水浴び場は村のすぐ裏手にあり、村人と共に岸から飛び込むと、冷たい水が非常に気持ちよく感じられました。
 最終日の朝には、村長やパジェの一家と朝食を共にする機会に恵まれました。メニューはマンジョーカ、小さな芋、街で買ったチーズ、手作りのお茶でした。どのような朝食かと不安もありましたが、存外美味しいメニューで、お腹一杯食べてしまいました。


 マトグロッソ州南部パンタナルの森の中の観光牧場に私は1990年に宿泊したことがあります。川は南に流れるラプラタ水系でした。山を1つ北へ越えるとアマゾン川の支流となります。中西部はブラジル高地を覆うアマゾン水系とラプラタの水系の接する地域です。
  • 村に到着後まず、日本から持参したTシャツ、鉛筆、歯ブラシを配布。(派遣団活動記録ブログより)
  • 村の医療の現状を調査。村長と、村の伝統医療を担う「パジェ」という職業の方にインタビュー。(派遣団活動記録ブログより)
  • 最終日の朝、村長やパジェの一家と朝食を共に。メニューはマンジョーカ、小さな芋、街で買ったチーズ、手作りのお茶。美味しいメニューで、お腹一杯食べる。(派遣団活動記録ブログより)

2017/11/22 00:10:00 日本人医学生、ブラジルの先住民村で医療活動 その2

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  • Posted by住田 育法
 慶應義塾大学医学部国際医学研究会 (IMA) 第40次派遣団の活動報告の紹介を続けます。派遣団は、ブラジルの中西部 (Centro-Oeste) 地域マトグロッソ州に位置し、その面積は日本の国土の約半分という非常に広大なブラジル政府公認の先住民族保護区、シングー国立公園 (Parque Indígena do Xingu, antigo Parque Nacional Indígena do Xingu) において実施されているProjeto Xinguという活動に参加しました。
 
 以下は派遣団のブログの内容です。

 Projeto Xinguとは去年発足したNGO団体の活動であり、シングーインディオ国立公園内の先住民族 = Indioに対して眼科検診や歯科検診、巡回診療を行うプロジェクトです。
 まずはクイアバ (Cuiabá) よりカナラナ (Canarana) まで夜行バスで移動しました。所要時間は約13時間、日本ートロント間以上に時間がかかりましたが、バスの車内はなかなか快適で、第40次最高身長を誇る白石団員も足が伸ばせるフルフラットタイプのバスでした。
 カナラナ到着後、飛行機に乗り換えて公園内の活動拠点へ更に約1時間かけて移動します。小型飛行機のため揺れは激しかったですが、空からの眺めは最高でした。上空からは公園内に点在する村を見ることができ、これからの活動に胸が高鳴るばかりでした。
 今回はProjeto Xinguの活動の一環である”Yawalapiti Expedition”に参加しました。6日間の検診活動において4つの村に暮らす4部族に対し、眼科検診や巡回診療を実施します。
 拠点から各村までの移動手段は様々で、車やバイク、ときにはボートを使って移動したこともありました。
 村には眼科機器を持ち込み、学校や空き家などを借りて簡易診療所を設営して診察活動を行いました。
 この検診をカマユラ (Kamaiurá ou Kamaiyurá) 村、ワウラ (Waurá.) 村、カラパロ(Carapalo) 村、ヤワラピチ (Yawalapiti) 村の計4つの村で行いました。診察は時には順番待ちの列もできるほどで、最終的に計476人の診察を行うことができました。今回の診察で白内障が見つかった人の内、希望者には9月から11月頃にかけカナラナの病院にて手術を実施することとなっており、今回の診察活動はこうしたスクリーニング (screening) の意味合いも有りました。


 医療の専門に関わる活動内容ですが、もう少し続けて紹介しましょう。

 精密検査や問診は現地の眼科医が担当し、私たち (第40次派遣団) は視力検査やオートレフケラトメーターによる検査を行いました。言葉が通じない中でいかにコミュニケーションを取り診察業務を行うかが非常に難しいところでした。診察を受ける側の立場になって診察方法の伝え方を考えるなど、医療者を目指す上でとてもよい経験になりました
 今回訪れた各村に住む民族はそれぞれが全く異なる部族であり、話す言葉も文化も異なります。皆靴を脱いで入ってくる村もあれば、検診に興味を示しつつなかなか受けに来ない人が多い村もありました。
 同じ地域に住んでいながらこのように村ごとに異なる言語や文化が残っている様子は非常に興味深く、先住民族の皆さんの医療との関わり方だけでなく、こうしてXingu地域における生活や文化にも触れることができ非常に有意義な活動を実現することができました。
  • カナラナ到着後、飛行機で活動拠点へ移動。上空から点在する村を見る。(派遣団活動記録ブログより)
  • 村には眼科機器を持ち込み、学校や空き家などを借りて簡易診療所を設営して診察活動。(派遣団活動記録ブログより)
  • 受付を済ませた後は、まず視力を測定。(派遣団活動記録ブログより)

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