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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS


2020/02/19 10:50:00 南蛮空間石見(IWAMI)銀山を歩く (2)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 永い開発の歴史をもつ巨大な銀山跡(写真参照)を歩くことで、私が心配したのは、水俣病で知られる水銀汚染のことでした。古くは水銀を用いない方法で銀を抽出した石見銀山だったのですが、徳川家康の時代には製錬の工程に水銀を使い始めたようです。
 鉱石から金や銀を抽出する方法には、① 鉛を利用する灰吹法と ② 水銀に溶け込ませるアマルガム法があります。石見銀山は古くは前者でした。
 江戸時代の徳川幕府黎明期、家康の側近としての財政再建を担った「大久保長安」の時代になると、ペルー副王領のポトシ鉱山のように効率の良いアマルガム法を取り入れたようです。ところが徳川幕府期の銀山の繁栄は長くは続かず、自然に配慮した遺跡が今に残ったのです。
 ともあれ、筆者は南蛮の時代に注目しています。そして、石見銀山資料館と石見銀山世界遺産センターの説明に基づいて、環境にやさしい灰吹法をもう少し紹介しましょう。

 銀の製錬工程―灰吹法
吹屋(ふきや)とは製錬所のこと。
 工程1 鏈拵(くさりこしらえ)
 銀鉱石を「要石(かなめいし)」の上に載せてかなづちで砕き、その後、水の中でゆすりながらより分けます(写真参照)。
 工程2 素吹(すぶき)
 細かな銀鉱石に鉛とマンガンなどを加えて溶かし、浮き上がる鉄などの不純物を取り除き、貴鉛(きえん:銀と鉛の合金)を作ります。
工程3 灰吹・清吹(はいふき・きよぶき)
 貴鉛を「灰吹床」で加熱して溶かし、鉛を灰へ染み込ませて、灰の上に銀だけが残るよう分離させます。その後、同様の作業を行い、灰吹銀の純度を上げます。(写真参照)

 水銀を用いない灰吹法では、掘り出した鉱石は細かく砕かれ、金属部分の多い部分がより分けられます。これにマンガン・鉛などの添加物を加えて排出物を作り出すことで不要な部分を取り去ります。科学的調査は、この排出物について科学分析機器を用いて状態の観察や成分を分析し、得られたデータを蓄積、解析することで、戦国時代、江戸時代はどのように製錬していたのかを解明したそうです。技術が途絶えたため謎とされてきた往時の製錬技術について、その工程を科学的に解明した成果は世界的にも貴重と評価されていると石見銀山世界遺産センターが述べています。

 最後に同遺産センターの案内で締めくくりましょう。
 石見銀山遺跡が世界遺産として評価されている理由の1つに、16世紀からすでに環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行っていたことがあげられます。石見銀山での銀の採掘から製錬までの作業は、すべて人力・手作業・小規模で、燃料確保のために植林がされるなど、現地の自然が大幅に改変されることはありませんでした。
  • 龍源寺間歩の「ひおい坑・鉱脈を追って掘った坑道」の跡(筆者撮影)
  • 女性が作業をする吹屋。銀鉱石を要石の上に載せてかなづちで砕き、その後、水の中でゆすり分ける(石見銀山世界遺産センターで筆者撮影)。
  • 灰吹法が石見銀山に導入された当初は鉄鍋を使っていたことが発掘調査によって明らかに。鍋の中に付着した灰から、科学分析により、鉄・マンガン・鉛・カルシウムなどが検出(遺産センターで筆者撮影)。

2020/02/10 17:40:00 南蛮空間石見(IWAMI)銀山を歩く (1)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 2020年2月の立春、世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」を訪れました。

 松江駅から特急スーパーまつかぜに乗って山陰本線を西へ走り、大田市駅で下車。この駅前からバスで世界遺産の大森町銀山地区へ向かいました。バス停に近い石見銀山資料館(大森代官所跡・写真参照)に立ち寄ります。
 この資料館を出て、まず石見銀山世界遺産センターへ行き、銀山についての丁寧な説明を受け(写真参照)、はるか大航海時代に時空の想像を巡らせながら銀山ゾーンを歩きました。龍源寺間歩では、古い坑道を通り抜けて(写真参照)石見銀山を出発点としたグローバルな「銀の道」に思いを馳せました。

 ポルトガル語圏を学ぶみなさんはぜひ、この地を訪問しましょう。素敵な感動を味わえること、請け合いです。

 石見銀山世界遺産センターが発信している世界と石見銀山との関係についてここで簡単に紹介しておきましょう。
 16世紀(1526年)、石見銀山では、中国から韓国を経て伝わった東アジアの伝統的な精錬技術である灰吹法(はいふきほう)を取り入れることによって銀の現地生産を軌道に乗せ、良質な銀を大量に生産しました。石見銀山で用いられた技術や生産方式は、この後国内の多くの鉱山に伝わり、日本史上まれな銀生産の隆盛をもたらしました。こうして日本で生産された大量の銀は、貿易を通じて16世紀から17世紀の東アジアへ流通しました。この大量の銀が、東洋と西洋の価値の交流に貢献したのです。
  • Teixeira map First published: 1595: Hivami(石見)とHizumi(出雲)の間にArgenti fodinae(銀鉱山)の文字。(石見銀山資料館・大森代官所跡にて筆者撮影)。
  • 石見銀山世界遺産センター解説コーナー壁面の地図。石見銀山から銀がマカオへ、マカオから生糸や陶磁器などが日本へ運ばれたことを表示。日本人にくらべて、中国人や南蛮人たちは「銀 (prata)」をより重宝。(石見銀山世界遺産センターにて筆者撮影)
  • 銀を掘った跡を間歩(まぶ)と呼びます。調査により約6,000カ所見つかっているそうです。その代表的なものが内部を見学できる龍源寺間歩です。(龍源寺間歩にて撮影)。

2020/01/14 22:00:00 アフロ・ラテンアメリカを語る(10)

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted by住田 育法
 20世紀初頭、ブラジルに黒人大統領が誕生!

 新春の1月11日 (土) 午後13時55分から15時30分まで本学161教室において「ブラジルの黒人エリート層―ブラジル奴隷制期に黒人や混血に対して公文書で用いられた分類」と題して、ブラジルのフルミネンセ連邦大学教授ニレウ・カヴァルカンティ(Nireu Cavalcanti)さん(写真参照)が講演をおこないました。

 この講演では、アフロ・ラテンアメリカを語る(7)~(9)でも紹介したように、アフリカ人とその子孫を分類するためにリオデジャネイロで使用されているカテゴリーをニレウさんが紹介しました。つまり、黒人 (preto) やネグロ (negro)、クレオール (crioulo)、カブラ (cabra)、パルド (pardo)、ムラート (mulato)、カフーゾ (cafuso)です。この分類は、ポルトガルの奴隷制度の歴史とその法律、特に条例に基づいています。

 ニレウ・カヴァルカンティさんの大きな指摘は次の3点でした。
 まず第一に、カトリックの宗主国ポルトガルの植民地として黒人奴隷制が始まり、混血が生まれましたが、ブラジルではその混血には複雑な分類がなされたことです。黒よりも白が良いとされ、今もその判断の影響が残っています。
 二つ目は、18世紀や19世紀において芸術や技能において天才的な能力を発揮したのは混血の人たちだったことです。特に、音楽や文学、建築学において際立っていました。
 第三は、人種の多様性の中でブラジル社会は「黒人」をもっとも差別したことです。未来に向けて人種のグループが対立するのではなく、共存の姿勢を示すことが大切です。混血社会のブラジルはその手本を示すことができるでしょう。カリオカの異種族混淆文化を主張する著名な人類学者のロベルト・ダ・マタさんはニレウさんの友人です。マタさんのインタビューも参考に。

 講演の終わりに、フロアから「未来のブラジルに米国のように黒人の大統領が生まれるでしょうか」と質問がありました。これに対してニレウ・カヴァルカンティさんは「すでにムラートの大統領はいます」とこたえ、「女性の大統領は出ましたが、黒人女性の大統領の誕生を期待します」と続けました。ムラートの大統領はニーロ・ペサニャ(Nilo Peçanha)です(写真参照)。

公式の分類
黒人
1) アフリカから直接到来した奴隷は、新奴隷 (escrevo novo)と呼ばれた。
 a) ギネー (GUINÉ)黒人。16世紀、17世紀に到来。
 b) 奴隷 (ESCRAVO), アフリカ生まれの黒人(PRETO): アンゴラ(Angola), カボヴェルデ(Cabo Verde), コンゴ(Congo), モンジョーロ(Monjolo), ミナ(Mina) など。
 c) 自由アフリカ黒人(PRETO AFRICANO LIVRE)。ブラジル英国間で交わされた独人奴隷貿易禁止の1830年以降。
2)
 a) クリオウロ(CRIOULO) = ブラジルで奴隷の母から生まれた者。
 b) 解放されたクリオウロ(CRIOULO FORRO = 自由を獲得した者 (alforriado)。
 c) 自由なクリオウロ(CRIOULO LIVRE) = 元奴隷の子、つまり自由人。
混血
3) パルド (PARDO) = 黒人白人間の最初の混血。
4) カブラ (CABRA) = パルドと黒人間の混血。
5) ムラト (MULATO) = パルドと白人間の混血。
6) カフーゾ (CAFUSO) = 先住民と黒人やパルド、カブラとの混血。

リオデジャネイロで際立っていたアフリカ人の子孫たち
PRETOS LIVRES (自由黒人)
● Cândido da Fonseca Galvão. Baiano (1834-1890) Príncipe Obá II パラグアイ戦争(1864 – 1870年)の英雄。
● João da Cruz e Souza. Catarinense (1861-1898)。詩人。
● Hemetério José dos Santos. Maranhense (1858-1939)。著述家、文献学者。
● Antonio Raphael Pinto Bandeira. Niteroiense (1863-1896)。画家。
● Valentim da Fonseca e Silva (Mestre Valentim)。Mineiro (1744-1813)。建築家。 
PARDO 黒人と白人の混血 
● José do Patrocínio. Fluminense (1853-1905)。奴隷解放主義者のリーダー。
● Francisco de Paula Brito. Carioca (1809-1861)。印刷業、作家。
● André Pinto Rebouças. Baiano (1838-1898)。エンジニア、作家。
● Luis Gonzaga Pinto da Gama. Baiano (1830-1882)。ジャーナリスト。
● Theodoro Fernandes Sampaio. Baiano (1855-1937)。エンジニア。
MULATO 混血と混血の間、あるいは混血と白人の間の混血に対する呼称 
● Afonso Henriques de Lima Barreto. Carioca (1881-1922)。著述家。
● General Glicério (Francisco Glicério Cerqueira Leite). Paulista (1846-1916). 弁護士。
●  Machado de Assis. Carioca (1839-1908)。黒人奴隷制下の首都に生まれ、父方の祖父母は黒人の解放奴隷、ブラジルを代表する作家に。
  • 161教室でパワーポイントを使って講演をするニレウ・カヴァルカンティさん
  • 熱心に講演を聴く本学の学生や院生、教員、一般のブラジルに興味を持つ人たち
  • ブラジル最初の黒人大統領!ニーロ・ペサニャはリオデジャネイロ州出身のムラート。ペーナ大統領の死によって副大統領から昇格 (1909年6月~10年11月)。「インディオ保護局」を創設。

2020/01/05 10:10:00 アフロ・ラテンアメリカを語る(9)

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted by住田 育法
 ブラジルのフルミネンセ連邦大学教授ニレウさん(写真)がやって来ます。

 演題 ブラジルの黒人エリート層―ブラジル奴隷制期に黒人(写真)や混血(写真)に対して公文書で用いられた分類
Elite negra no Brasil: as classificações usadas nos documentos no período da escravidão no Brasil, para pretos e miscigenados
 講師:Nireu Oliveira Cavalcanti(ニレウ・オリヴェイラ・カヴァルカンティ)
フルミネンセ連邦大学教授
 日時 2020年1月11日(土)午後1時55分~3時15分
 場所 京都外国語大学161教室
 通訳 住田育法

 ※ 参加は自由です。皆様、ふるってご参加ください。

 ニレウさんから届いた歌のメッセージです。
 トム・ジョビン国際空港 (o Aeroporto Internacional Tom Jobim, anteriormente chamado Aeroporto Internacional do Rio de Janeiro, também conhecido como Aeroporto do Galeão) から関西国際空港経由で京都にやって来ます。
Samba do Avião

Minha alma canta
Vejo o Rio de Janeiro
Estou morrendo de saudades
Rio, céu, mar
Praia sem fim
Rio, você foi feito prá mim
Cristo Redentor
Braços abertos sobre a Guanabara
Este samba é só porque
Rio, eu gosto de você
A morena vai sambar
Seu corpo todo balançar
Rio de sol, de céu, de mar
Dentro de mais um minuto estaremos no Galeão
Copacabana, Copacabana

Cristo Redentor
Braços abertos sobre a Guanabara
Este samba é só porque
Rio, eu gosto de você
A morena vai sambar
Seu corpo todo balançar
Aperte o cinto, vamos chegar
Água brilhando, olha a pista chegando
E vamos nós
Pousar
  • リオ市研究の権威者ニレウさんが大西洋からグアナバラ湾に入る東西の二つの要塞の風景を背に撮影。
  • 著名なドイツ人画家ヨハン・モーリッツ・ルゲンダスが描いた19世紀ブラジルのアフリカ人たち。
  • ブラジルを代表する著名な混血作家マシャード・ジ・アシスの25歳の肖像写真。

2019/12/31 18:20:00 アフロ・ラテンアメリカを語る(8)

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted by住田 育法
 2020年1月11日のニレウ・カヴァルカンティさんの講演会の予習です。
 肌の色について、19世紀の帝政時代にはどのように理解されていたかを考えることになります。21世紀のリオデジャネイロでアフロ系の人々と共存する講師のニレウ・カヴァルカンティさんの厳しいなまざしを講演で知ることになるでしょう。
 まず、黒人奴隷制下の首都リオデジャネイロに生まれ、父方の祖父母は黒人の解放奴隷であったにもかかわらず、ブラジルを代表する作家となったMULATOのマシャード・ジ・アシス(Machado de Assis. Carioca: 1839-1908、参照:写真)に注目しましょう。父親はMULATOのフランシスコ・ジョゼ・ジ・アシス(Francisco José de Assis)、母親は白人のポルトガル人マリア・レオポルジーナ・ダ・カマラ・マシャード(Maria Leopoldina da Câmara Machado)です。MULATOは混血と混血の間、あるいは混血と白人の間の混血に対する呼称です。
 2人目はPRETOS LIVRES (自由黒人)と呼ばれたパラグアイ戦争(1864 – 1870年)の英雄のオバー王子二世(Príncipe Obá II)のカンジド・ダ・フォンセカ・ガルヴァン (Cândido da Fonseca Galvão、Baiano : 1834 - 1890参照:写真)です。自由なアフリカ人オバー王子一世 (Príncipe Obá I )ベンヴィンド・ダ・フォンセカ・ガルヴァン(Benvindo da Fonseca Galvão).の子です。
 3人目はPARDO、つまり黒人と白人の混血であった奴隷解放主義者のリーダーのジョゼ・ド・パトロシニオ(José do Patrocínio、Fluminense: 1853 - 1905参照:写真)です。父親が白人司祭(padre João Carlos Monteiro: branco)、母親がアフリカのガーナ・ミナ出身の黒人でした。

 最後にマシャード・ジ・アシスの年譜の一部をポルトガル語で紹介しましょう。太字が作家が生きた帝政時代の出来事です。
1939:
Nasce a 21 de junho, no Morro do Livramento (foto), no Rio de Janeiro, Joaquim Maria Machado de Assis, filho legítimo de Francisco José de Assis e Maria Leopoldina Machado de Assis. Seu pai foi Francisco José de Assis, um mulato que pintava paredes, filho de Francisco de Assis e Inácia Maria Rosa, ambos pardos e escravos alforriados. A mãe foi a lavadeira Maria Leopoldina da Câmara Machado, portuguesa e branca, filha de Estevão José Machado e Ana Rosa.
1840:
Maioridade de D. Pedro II.

1869:
A 12 de novembro, casa-se com Carolina Augusta Xavier de Novais, na capela particular da casa do Conde de São Mamede, no Cosme Velho.
1870:
Começa, a 23 de abril, a publicar no Jornal da Tarde uma tradução, logo interrompida , do romance Olivier Twist, de Dickens. Publica seu segundo volume de versos, Falenas, e Contos fluminenses. Termina a Guerra do Paraguai.
1888:
Lei do 13 de Maio. Desfila, a 20 do mesmo mês, no préstito organizado para celebrar a Abolição.

1890:
Viagem a Minas Gerais, visitando as cidades de Juiz de Fora, Barbacena e Sítio, atual Antônio Carlos.
1891:
Publicação em volume do romance Quincas Borba. Falecimento de Maria Inês, madrasta de Machado de Assis.
1899:
Publica Dom Casmurro e Páginas recolhidas.
1908:
Na madrugada de 29 de setembro, às 3h20m, morre em sua casa, à Rua Cosme Velho, 18.
  • 著名な写真家Marc Ferrez撮影の1890年のマシャード・ジ・アシスの肖像。ブラジル文学アカデミーの公式写真でも使用。従来の写真より肌の色が黒い。
  • パラグアイ戦争(1864 – 1870年)の英雄のオバー王子二世の写真。
  • 若い黒人女性と白人の司祭との混血であった奴隷解放主義者のリーダージョゼ・ド・パトロシニオの肖像。マシャード・ジ・アシスと同じくブラジル文学アカデミー会員に。黒人と白人の混血PARDO。

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