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The aim of NET-GTAS, the Network of Translators for the Globalization of the Testimonies of Atomic Bomb Survivors, is to express and diffuse the experiences of Atomic-Bomb victims through video interviews with the survivors. In order to overcome the language barriers, as most survivors speak only Japanese, the interviews are being translated into as many different languages as possible by NET-GTAS volunteers.
Thirteen professors from Kyoto University of Foreign Studies, the University of Tsukuba and Yokohama National University formed the nucleus of this project and subsequently, in January 2014, we established NET-GTAS thanks to an expanded co-operation of regular members and supporters comprised of professors and translators involved in language education.
Since 2014, NET-GTAS has been started to work on translating the video interviews of Atomic-Bomb survivors produced by the Hiroshima National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims (http://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp) into English, Chinese, Korean, German and French. The interviews will be posted on the HP of our internet site Global Network HP (http://www.global-peace.go.jp), which is produced with the National Peace Memorial Hall for Atomic Bomb Victims in Hiroshima and Nagasaki.
NET-GTAS is working on not only translating, but also University seminars, which is included various fields such as linguistics, pedagogy and sociology related to the project, and collecting the documents and the other materials on the study of Hiroshima and Nagasaki.
This project has started with 40 members (including office members) and currently, (February 2017) it has more than 160 participants in total : approximately 70 from overseas and 90 Japanese. The office (net-gtas@kufs.ac.jp) is located at Kyoto University of Foreign Studies. NET-GTAS has been supported to develop our by a lot of supporters who are young researchers and students.

The Office of NET-GTAS
Address: 615-8558, Kyoto University of Foreign Studies, International Research Institute for Studies in Language and Peace, Saiin Kasame-cho 6, Ukyou-ku, Kyoto
Phone: 075-322-6054 (ext.6755), From overseas: +81-75-322-6054
Email: net-gtas@kufs.ac.jp
Open: Monday~Friday from 10 a.m. to 4 p.m.
Representative: Kunihiko NAGATANI

被爆者ものがたり

2015/07/29 12:40:00 被爆者ものがたり⑤ 濱 恭子さん <下>

  • Category被爆者ものがたり
  • Posted by榊原 恵美子

被爆者ものがたり特別編 濱 恭子さん <下>


~ 母の想いは娘・鳥羽洋子さんへ、そしてフランスでの連帯へと続く~


~A mother and daughter’s shared hopes for peace

led them on a journey to France

and a deep sense of solidarity with the French people~


大阪大空襲と広島での原爆投下を経験した恭子さんが終戦を迎えたのは、19歳の時だった。その後、戦火に怯えることもなくなって、恭子さんは家庭を持ち、娘の洋子さんが生まれた。

洋子さんは子どもの頃から日々の生活の中で祖母の被爆体験を聞いて育ったという。自分が被爆二世ということも、ありふれた日常の中で普通に受けとめていた。そんな洋子さんが自分自身について強く意識するようになったのは1975年、大阪の府立高校で社会科教師となった年のこと。他校の男子生徒が白血病で亡くなっていたことを知り、衝撃を受けたのだ。男子生徒の母親は長崎で被爆し、彼の妹も、その二年ほど前に白血病で亡くなっていた。

ふたりの子どもを続けて失った母親の辛さと、次世代の子どもの『生きたい』という願いさえ踏みにじる核兵器への怒りと恐ろしさを実感した洋子さんは、二度とそのような死を繰り返してはならないという思いから、授業でこの男子生徒や核の問題について取り上げるようになった。

そうして80年代には、洋子さんが顧問を務める新聞部の生徒たちが8ミリドキュメンタリー「ヒロシマ」を完成させる。そこには、かつての恭子さんや祖母の避難経路を巡る記録が収められている。また、95年には海外の核実験に抗議し、ひとり校門でプラカードを持つ生徒に触発され、有志の同僚教師とその年の文化祭で反核平和展を開催した。ここで展示した文集(「祖父母に聞く戦争体験」)で初めて恭子さんの被爆体験が紹介された。ちょうど戦後50年目のことだった。

2005年、恭子さんは洋子さんの授業で被爆体験を語り始め、これが母子での活動のはじまりとなった。授業には小学生も参加し、『もし自分がそこにいたらどうしようと思った』との感想に洋子さんはハッとしたという。この想像力と感性こそが大切だ、と洋子さんは訴える。

2012年、恭子さんと洋子さんはフランスの市民集会に招待され、3つの都市で証言活動を行った。恭子さんが日本語で体験を語り、洋子さんがフランス語に翻訳する。母語で聞く証言はフランスの人々の胸を打ち、言語の壁を越えた連帯が生まれた。

この旅のほかに、日本でもフランスとの連帯が生まれていた。2002年、洋子さんが京都で偶然声をかけたフランス人作曲家 ルネ・マイヤー氏との出会いから連帯の心は芸術へと形を変え、フランスで実を結んだ。マイヤー氏は洋子さんがフランス語に翻訳した恭子さんの体験記に感銘を受け、「広島を生きぬいて」と言う名のカンタータを作曲する。その後、作詞家のモニク・シャルル氏が体験を歌詞で表現し、2013年にはパリでの初演が行われた。

「広島を生きぬいて」には、恭子さんが体験した過酷な状況と共に、憎しみや戦争にあらがい生きぬく強さこそ世界が一つになるための導きとなる、との希望のメッセージも謳われている。
母から娘、そして日本からフランスへと受け継がれた平和への願い。この曲が、多くの人の心に届くことを、洋子さんと恭子さんは願っている。
 (榊原 恵美子 =事務局職員)
  • 3.21市民・学生の集いで、濱恭子さん(右)と鳥羽洋子さん(中央)

2015/07/13 14:30:00 被爆者ものがたり④  濱 恭子さん <上>

  • Category被爆者ものがたり
  • Posted by榊原 恵美子

(第3回までは、国立広島平和祈念館の証言ビデオでNET-GTASが翻訳した被爆者の紹介でした。今回は、特別編として、3月21日の市民・学生の集いに登場した濱恭子さんを上下2回に分けて紹介します。)



■被爆者ものがたり特別編 濱 恭子さん(89歳)の<上>

~ 大阪空襲の後、避難先の広島で被爆。今も戦争の悲惨さを語り続ける~



       
Ms. HAMA Kyoko was evacuated from Osaka to Hiroshima following
         
the Osaka Air Raids. There she was exposed to the Atomic bombing
        
of Hiroshima. She shares the story of her wartime experiences.
  

 濱恭子さんは1925年生まれ。6歳の時に満州事変が起き、翌年には上海事変、そして12歳の時には日中戦争開始、と戦争へと向かう時代の中で幼少期を過ごした。18歳となった年には日本軍の真珠湾攻撃によりアメリカとの戦争が勃発。戦況は激化し、1945年3月13日、恭子さんの住む大阪も大規模な空襲を受けた。

 後に「大阪大空襲」と呼ばれたその空襲は、274機のB29による油脂焼夷弾攻撃が行われ、大坂の街は炎に包まれた。当時、母子ふたり暮らしだった恭子さんと母は、家からとっさに持ち出したコタツ布団を何度も防火水槽の水に浸けてかぶり、降りかかる火の粉の中を逃げまどった。「生き地獄」と恭子さんは当時を語る。あまりの恐怖で頭が真っ白になり、焼け死んだ人が転がる光景を目にしても怖さや気の毒な感情はわかなかったという。

 恭子さんの家も焼かれ、叔母のいる広島へ母と身を寄せた。その後、恭子さんはひとり従兄の住む島根へ疎開する。だが、広島で機銃掃射が行われるようになったと聞いた恭子さんは心配でたまらなくなり、母と祖母を迎えに行くため、広島へと向う。1945年7月のことだった。

 その翌月、よく晴れた8月6日の8時15分─。青白い閃光を感じると同時に家が崩れ落ち、恭子さんは母、祖母ともにがれきの下敷きとなった。何とかはい出した3人は大阪での火の海を思い出し、直ぐにその場から逃げた。途中、「助けて」という裏の家の住人の叫び声が聞こえたが、どうすることもできなかった。

 その後、恭子さんが目にした光景は大阪の空襲でも見たことのないものだった。全身黒焦げとなった丸裸の人たちが、皮をズルっとぶら下げフラフラと夢遊病者のようにあちこちから押し寄せる様子は、この世のものではなかった。

 恭子さん自身もガラスが左半身に百数か所刺さる負傷をしたが、母と祖母の必死の手当てに支えられ、広島の町を逃げ歩いた。その後、雨が降り出したが、棒の上に乗せたトタン板の下で恭子さんは雨をしのいだ。棒は母と祖母が両手で支えていた。そして、その日降ったのは放射能が含まれる「黒い雨」だった。

 それから9日後の8月15日に終戦の日を迎え、恭子さんの戦火に怯える時代も終わった。だが、戦後60年を機に恭子さんはかつての出来事を語り始めるようになる。その理由を「ほんとうに生き地獄だった戦争の悲惨さを皆さんにお話しして、今後どうして生きていくか考えてほしい」と語る。また、「決して戦争を望んだ訳ではないのに、戦争のるつぼにもっていかれたのです」と当時を振り返り、「戦争へと引き込まれないよう、皆で力をあわせないといけない」と訴える。その思いは海を越えたフランスでも語られ、国境を越えた共感と連帯を生んだ。<つづく>
       (榊原 恵美子 =職員)
  • 3.21市民・学生の集いで、濱恭子さん(右)と鳥羽洋子さん

2015/02/23 16:50:00 被爆者ものがたり③ 朝長 民子さん

  • Category被爆者ものがたり
  • Posted by長谷 邦彦

NET-GTASによる初めての翻訳作品である5人の被爆者ビデオ
から、それぞれの証言を手短に紹介します。

We introduce you each lives of five survivors the NET-GTAS
translated into foreign languages for the first time



朝長 民子さん

 

(16歳で被爆。撮影時74歳、熊本市在住)


Ms.TOMONAGA Tamiko (16 years old at the time of bombing. Filmed at 74 years, living in Kumamoto-city)


 16歳、広島の赤十字病院看護婦養成所の学生で、爆心から1.5キロの看護婦寮にいて被爆した。比較的軽傷で、倒壊した寮の下敷きになった学生らの救護に奔走。約200人の学生のうち、夕方歩いて集合できたのは36人のみだったという。
 「窓の外に黒い線が見えるので何かと思ったら、男か女かもわからない、髪もなく鼻も取れて黒焦げの人たちが、着物も着ずに群れをなし病院に向かって歩いて来るのです。病院の前まで着いて安心したのか、ぱっと倒れてそのまま動かなくなるのです。恐怖を感じました。」
 被爆者の苦しみや不安は「その日」以来延々と続く。「1週間ぐらいして、ほとんどの人が歯茎から血が出て髪の毛が抜けました。宮崎から来た友だちが朝、髪を結っていたら、バサッと音がして全部落ちました。彼女はワーッと泣きました」。
 10日余り救護活動をしたあと、故郷の宮崎へ。「障害児や小頭症の子が生まれたというニュースを聞き、そういう子孫を残してはいけない、結婚はするまい、と思いました」。
 たまたま自衛隊に入り巡り合った男性と結婚するが、夫は入市被爆で、1993年、肝臓がんで急死。「残留放射能をたくさん浴びていたのだと思います」。
 夫の存命時、子どもを産むにあたっては「2人で非常に心配し、健康だったのでうれし泣きしました」。
 朝長さん自身は、「坐骨神経症みたいで足が痛む。骨に異常があると言われる。(夫を亡くし、)きょうだい6人と母と私、8人の生活を守るのが精一杯でした」。
 そうした暮らしの積み重ねから、核時代の不条理を見つめる朝長さんの目は厳しい。「あの時の状況を目にしていれば、どんな人間でも、今のように競い合って核を抑止力に使うようなことはしなかったと思います」「私たちが行動し、叫び続けても少しも良い方向には向きません。しかし決してあきらめてはいけない。今までの歴史を考えても、いろいろな意思を持って動いた人たちがいます。その当時は何も報われないように見えたことでも100年経った後でも、それが必ず報われるという事実を見聞きします。命ある限り叫び続ければ、いつか実ると信じたいです」   (長谷 邦彦)
  • 被爆の身で戦後を生きる苦しみや不安を語る朝長民子さん(国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館のサイト映像から)

2015/02/15 14:30:00 被爆者ものがたり② 田村サワ子さん

  • Category被爆者ものがたり
  • Posted by長谷 邦彦
NET-GTASによる初めての翻訳作品である
5人の被爆者ビデオから、
それぞれの証言を手短に紹介します。

>We introduce you each lives of five survivors the NET-GTAS
translated into foreign languages for the first time

田村サワ子さん

 

(21歳で被爆。撮影時79歳、徳島県松茂町在住)


Ms. TAMURA Sawako (21 years old at the time of bombing. Filmed at 79 years, living in Matsushige-cho, Tokushima Prefecture)



 21歳、長崎県大村市の海軍病院に看護婦として勤務中、長崎市上空にキノコ雲が立ち上るのを見る。夕方から被災者が続々収容されてきたため、救護活動にあたり、2次被爆。仕事柄、救護の現場の悲惨な状況を事細かに、具体的に証言している。
 押し寄せる被災者はみな、露出していた肌は焼けただれ、皮膚が垂れ下がっていた。その夜には100人ほどが死亡。病院の裏手の空き地を掘り返して土葬した。住所も名前もわからず、爪と髪の毛を切り紙袋に収め、表に人相と特徴を書き記し、安否確認に訪れる人々に
説明したという。
 担当の病棟が内科で比較的軽症の患者が多く、やけどの治療はまずクレゾール液で消毒。ガーゼにリパノール液をしみ込ませて患部に貼り付け、包帯をぐるぐる巻きにした。しかし、傷口にはウジがわき、血を吸う。表皮を切って消毒するが、翌日にはまた現れる。
 「3日後から、放射能症状として脱毛症状が出始めました。ばさっと髪の毛が抜ける。注射した後は黒紫になって腐ってくる。白血球の減少で抵抗力がなくなり、紫斑の症状が出ると、2,3日で亡くなりました」
 11月下旬まで看護し、その人たちの放射線を受け、その後、子宮筋腫にかかったり、骨がもろいと言われたりしたという。「子どもが小さいころは、自分が被ばくしているとは言えなかった。被爆者健康手帳を取得してからはだんだん世の中が認めてくれるようになり、それで話せるようになった。それまではひた隠しにしていた」。直接被爆したわけではないのに、健康不安と差別が戦後の生活に影響を与え続けるのだ。
 「あの悲惨さを絶対忘れません。あの時でさえあの悲惨さですから、今は威力が違いますから、(再度)使われたらもう、いっぺんに生きている人はいないと思います」「私は養護教員として高校に勤めていました。原爆の話をすると、子どもたちの目が輝き真剣に聞いてくれるのです。私が話しても、響くのかな、と思います」。表情はにこやかだが、体験を引き継ぐ決意は固い。(長谷 邦彦)
     

2015/02/12 00:00:00 被爆者ものがたり① 天野文子さん

  • Category被爆者ものがたり
  • Posted by長谷 邦彦

NET-GTASによる初めての翻訳作品である5人の被爆者ビデオから、
それぞれの証言を手短に紹介します。
We introduce you each lives of five survivors the NET-GTAS
translated into foreign languages for the first time



第1回・天野 文子さん

 

(撮影時80歳、東京都板橋区在住)


Ms. AMANO Fumiko (14 years old at the time of bombing. Filmed at 80 years, living in Itabashi-ku, Tokyo)

 14歳、高等女学校4年生の時、広島市近郊で勤労奉仕中に原爆が投下され、翌日、家族の消息を求めて、市内に入る。まだあちこちで煙が立ち上る焼け野原。自宅のあった場所の近くでは黒焦げの遺体が山と積まれていく。そのてっぺんに知り合いの女性を見つけた彼女は、遺体を引きずりおろそうとするが、周りの人と大やけどの身体同士がくっついて離れない。大人に引き止められた。
 それまで軍国少女だった彼女は「何だ、戦争なんて人殺しじゃないか。東洋平和のための戦争なんて、嘘よ」と気づく。「私にとっては、その日は戦争の終わった日、初めて戦争を知った瞬間なのです」。
 両親と兄弟と合流したものの、半身大やけどの兄は寝たきりで敗戦を迎える。この時、彼女は重体の兄に「負けた」と言えず「戦争が終わった。日本は勝ったよ」とうそを言ってしまった。被爆から13日後、兄は「痛い」とつぶやいて息を引き取った。
 兄に「負けた」と言えなかったことが彼女の戦後の生き方に大きな影を引きずらせている。「日本の侵略の中で殺され、傷ついたアジアの人たちの『痛い』が、兄の『痛い』に重なって私の心に刺さります。死ぬ人にはせめて真実を言えばよかった」。
 生き残った者に『忘却』は許されない、『沈黙』も許されない。そう考えて、彼女は証言の旅を続けてきた。アメリカでは、体験談を聞いた人から抱きしめられ、一緒に涙して「核廃絶のために一緒に闘おう」と話した。マレーシアでは「日本の平和憲法はあなたたちだけの憲法ではない。私たちアジア2000万人の血のあがないで作られたのです。大事にしてください」と言われたという。対話することこそ、未来につながる歴史を学び、和解の第一歩となる、と信じている。 (長谷 邦彦)
  • 「被爆者は忘却も沈黙も許されません」と語る天野文子さん(英語版映像から)

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