2021/07/16 10:00:00 「温故知新と英語の不思議」「日本語の文化と英語の文化」
教員ニュース
英米語学科
英米語学科ブログの「教員ニュース」では、教員に関する、または教員発信の情報を紹介します。「教員ニュース」第2号は、言語学専門の藤本幸治先生から、英語の歴史と異文化理解に関するお話です。
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温故知新と英語の不思議
英語の学習といえば、読む、聞く、書く、そして話す、を中心とした語学の運用面に焦点が当たりがち。そしてその実用能力を語学試験(TOEICや英検)で腕試しすることが通例となっていますね。しかし、英語を学習すればするほど、不思議で納得のいかない現象に出会うのも常。例えば、不定冠詞の「a」。「一つの」という意味を持ちますが、それはなぜなのでしょうか。アルファベットの一番初めに来るから?それじゃ、「b」は2番目なので、「2つの」という意味になりますか。I have b books. いや、違いますよね。
実はこれ、昔の英語(Old Englishといいます)までさかのぼれば、謎が解けてきます。英語で、「1」は、「one(ワン)」、これを弱形で発音してみると「アン(an)」となります。つまり、かつては、anが基準になり、その語、母音以外で始まる名詞の直前の「n」が発音されなくなりました。中学生のころ、冠詞a(1つの)は、母音で始まる名詞の前では、「n」を付けますよ、と習ったことは実は順序が真逆なのです。こういったことを知るためには、現在の英語ばかり見て(共時的研究(synchronic approach))いるだけではだめなのです。歴史を通じた通時的研究(diachronic approach)を知る必要があります。その面白さは他にもあります。例えば、今度は単数形ではなく、複数形の場合、通例、複数形を表す接辞(affix/接尾辞(suffix))は、「-(e)s」を語末に用いますね。そうすると、dog→dogs、book→books、adult→adultsとなります。しかし、childはchildsとはなりません。どうしてでしょう。Childrenのrenが複数を示すのでしょうか。-renを用いた複数形なんて、children以外見たことないですよね。
しかし、現代の英語においても、ox(雄牛)の複数形は、oxenとなります。そして、なんとbrotherの複数形に、brothersだけではなく、brotherenという形があるのです。つまり、[n]が複数形を表していると考えられるのです。では、[re]はどうなのでしょうか。実はこれも古英語の時代には、[re]は現在の接辞「es」と同じように、複数を表していたのです。
でもちょっと待って。それでは、childrenは複数接辞がダブっていることになりますよね。ところがこれは、日本語にも当てはまる現象で、例えば、「女ども」、「野郎ども」の「ども」は複数を示します。では、「子ども」はどうでしょうか。そう、複数を示してます。しかし、「子ども達」というふうに複数を示す「達」を並べて使うことができてしまいます。
いかがでしたか。言葉はいい加減であり、またいい加減に見えて、そこには、変化の理由が隠されているのです。そのためには、目に見えてている「現在」だけではなく、現在に至るまでの過去からの歴史をさかのぼる必要があります。まさに「温故知新」、故きを温ねて新しきを知る、です。
日本語の文化と英語の文化
時間というのは、人間にとってとても大切なもの。限られた人生の長さを有意義に生きなくてはなりません。そして、時間はすべての人に共通で、平等に与えられているものです。しかし、文化が異なれば、時間の感覚が異なることもあるのです。これはいったいどういうことでしょう。
例えば、あなたが明日友達の家での誕生日パーティーに招かれたとしましょう。パーティーの開始時間は午後3時です。さて、あなたは何時に友達のおうちに向かうでしょう。午後3時前、あるいは午後3時を過ぎて行きますか。日本人の場合、おそらく、開始時間を(ましてや意図的に)過ぎて、遅れて到着することはまずはないでしょう。それは、「相手を待たせてはいけない」という相手に対する配慮です。
しかしながら、欧米では、パーティーに遅れてくる人はざらにいますし、ことによれば、それがマナーだとさえ考えられています。私たち日本人にはにわかには信じがたいことです。しかし、そこには彼らなりの理由があるのです。そして、それは私たちと同様、相手に対する「思いやり」の心なのです。いったいどういうことでしょうか。
もし仮に、あなたがパーティー会場に開始時間より前(10‐15分前)に到着したとしましょう。もしかしたら、パーティーのホストは、ぎりぎりまで料理や飾りつけの準備をし、最後の仕上げとして、シャワーを浴びてドレスアップしようとしている最中かもしれないですよね。そんなときに、すでにあなたが到着したとなれば、相手は焦りますし、あなたもさぞかし居心地が悪くなるでしょう。そういった状況を回避するためにも、相手に十分な時間の余裕を与えることが相手への配慮だと考えるのです。なるほど、ですね。
つまり、言葉によるコミュニケーションだけではなく、その言葉が使われる国や地域の風習やものの考え方、つまり、異文化に対する理解を欠いてしまうとせっかくのコミュニケーションも失敗に終わります。言葉と文化はコインの裏と表。どちらも欠くことはできません。
ちなみに、欧米では、パーティーの後の片付けの手伝いもあまり喜ばれないのです。相手の家事の手伝いをするということは、招かれたゲストのすることではなく、むしろ、勝手に片付けようとすると相手のプライバシーを侵害する可能性もあります。気を付けたいものですね。
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温故知新と英語の不思議
英語の学習といえば、読む、聞く、書く、そして話す、を中心とした語学の運用面に焦点が当たりがち。そしてその実用能力を語学試験(TOEICや英検)で腕試しすることが通例となっていますね。しかし、英語を学習すればするほど、不思議で納得のいかない現象に出会うのも常。例えば、不定冠詞の「a」。「一つの」という意味を持ちますが、それはなぜなのでしょうか。アルファベットの一番初めに来るから?それじゃ、「b」は2番目なので、「2つの」という意味になりますか。I have b books. いや、違いますよね。
実はこれ、昔の英語(Old Englishといいます)までさかのぼれば、謎が解けてきます。英語で、「1」は、「one(ワン)」、これを弱形で発音してみると「アン(an)」となります。つまり、かつては、anが基準になり、その語、母音以外で始まる名詞の直前の「n」が発音されなくなりました。中学生のころ、冠詞a(1つの)は、母音で始まる名詞の前では、「n」を付けますよ、と習ったことは実は順序が真逆なのです。こういったことを知るためには、現在の英語ばかり見て(共時的研究(synchronic approach))いるだけではだめなのです。歴史を通じた通時的研究(diachronic approach)を知る必要があります。その面白さは他にもあります。例えば、今度は単数形ではなく、複数形の場合、通例、複数形を表す接辞(affix/接尾辞(suffix))は、「-(e)s」を語末に用いますね。そうすると、dog→dogs、book→books、adult→adultsとなります。しかし、childはchildsとはなりません。どうしてでしょう。Childrenのrenが複数を示すのでしょうか。-renを用いた複数形なんて、children以外見たことないですよね。
しかし、現代の英語においても、ox(雄牛)の複数形は、oxenとなります。そして、なんとbrotherの複数形に、brothersだけではなく、brotherenという形があるのです。つまり、[n]が複数形を表していると考えられるのです。では、[re]はどうなのでしょうか。実はこれも古英語の時代には、[re]は現在の接辞「es」と同じように、複数を表していたのです。
でもちょっと待って。それでは、childrenは複数接辞がダブっていることになりますよね。ところがこれは、日本語にも当てはまる現象で、例えば、「女ども」、「野郎ども」の「ども」は複数を示します。では、「子ども」はどうでしょうか。そう、複数を示してます。しかし、「子ども達」というふうに複数を示す「達」を並べて使うことができてしまいます。
いかがでしたか。言葉はいい加減であり、またいい加減に見えて、そこには、変化の理由が隠されているのです。そのためには、目に見えてている「現在」だけではなく、現在に至るまでの過去からの歴史をさかのぼる必要があります。まさに「温故知新」、故きを温ねて新しきを知る、です。
日本語の文化と英語の文化
時間というのは、人間にとってとても大切なもの。限られた人生の長さを有意義に生きなくてはなりません。そして、時間はすべての人に共通で、平等に与えられているものです。しかし、文化が異なれば、時間の感覚が異なることもあるのです。これはいったいどういうことでしょう。
例えば、あなたが明日友達の家での誕生日パーティーに招かれたとしましょう。パーティーの開始時間は午後3時です。さて、あなたは何時に友達のおうちに向かうでしょう。午後3時前、あるいは午後3時を過ぎて行きますか。日本人の場合、おそらく、開始時間を(ましてや意図的に)過ぎて、遅れて到着することはまずはないでしょう。それは、「相手を待たせてはいけない」という相手に対する配慮です。
しかしながら、欧米では、パーティーに遅れてくる人はざらにいますし、ことによれば、それがマナーだとさえ考えられています。私たち日本人にはにわかには信じがたいことです。しかし、そこには彼らなりの理由があるのです。そして、それは私たちと同様、相手に対する「思いやり」の心なのです。いったいどういうことでしょうか。
もし仮に、あなたがパーティー会場に開始時間より前(10‐15分前)に到着したとしましょう。もしかしたら、パーティーのホストは、ぎりぎりまで料理や飾りつけの準備をし、最後の仕上げとして、シャワーを浴びてドレスアップしようとしている最中かもしれないですよね。そんなときに、すでにあなたが到着したとなれば、相手は焦りますし、あなたもさぞかし居心地が悪くなるでしょう。そういった状況を回避するためにも、相手に十分な時間の余裕を与えることが相手への配慮だと考えるのです。なるほど、ですね。
つまり、言葉によるコミュニケーションだけではなく、その言葉が使われる国や地域の風習やものの考え方、つまり、異文化に対する理解を欠いてしまうとせっかくのコミュニケーションも失敗に終わります。言葉と文化はコインの裏と表。どちらも欠くことはできません。
ちなみに、欧米では、パーティーの後の片付けの手伝いもあまり喜ばれないのです。相手の家事の手伝いをするということは、招かれたゲストのすることではなく、むしろ、勝手に片付けようとすると相手のプライバシーを侵害する可能性もあります。気を付けたいものですね。