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■■■予備知識
■「発見」のまえ
▼トルデシリャス条約
コロンブスの新大陸「発見」から2年後の1494年、ポルトガルとスペインはトルデシリャス条約を結んで、「発見」される異教徒の世界を二分した。当初、カーボ・ヴェルデ諸島から西100レグア(1レグアは約5.6キロ)の経緯に定められたが、ポルトガル国王ジョアン2世の異義申し立てによって、西370レグアの経線に変更された。この決定によって、経線は西経46度37分で、東西を二分することになる。
▼ヴァスコ・ダ・ガマの航海
コロンブスの「発見」に焦ったポルトガル王マヌエル1世は、インド航路の発見を急がせた。1497年7月、ヴァスコ・ダ・ガマの船団はリスボンを出港、カーボ・ヴェルデを出ると南西に大きく迂回してブラジル沖を通過したのち、進路を南東にとり、喜望峰を越えて、1498年5月22日、インドのカリカットに到着した。
■「発見」のとき
▼カブラルの航海
ヴァスコ・ダ・ガマがインドから帰国すると、マヌエル1世は13隻からなる大船団を組織し、この航海をペドロ・アルヴァレス・カブラルに任せた。1500年3月9日にリスボンを出た船団は、4月22日にブラジルを「発見」した。到着したのは、南緯17度、今日のバイア州の南部であった。カブラルは、「真の十字架の日」(5月3日)が近いので、発見の地を「ヴェラ・クルスの島」と命名した。
▼住民との出会い
4月23日に、発見の地の住民に接触した。彼らはのちに、インディオと呼ばれることになる。出会いは友好的であった。カブラルの一行は10日ほどブラジルに滞在し、土地の占有を意味する十字架を立ててミサを行い、インドに向った。これによって、ブラジルはトルデシリャス条約に従ってポルトガルの領土となる。
▼カミーニャの書簡
ブラジル「発見」の様子は、カブラルに同行したペロ・ヴァス・デ・カミーニャの書簡に詳しく述べられている。
「どの男も肌は小麦色で全裸のうえ、恥部を覆うようなものもまったく身につけていませんでした。手には弓を持ち、矢もそれぞれ持っていました。(略)なかの一人が彼に長い鳥の羽根でつくった被りもの(ソンブレイロ)をくれました。それには鸚鵡の羽根に似た赤い色の羽根やくすんだ色の羽根でつくった小さな山(コパ)がついていました。」(池上岑夫訳「ペロ・ヴァス・デ・カミーニャの書簡」『ヨーロッパと大西洋』大航海時代叢書第II期第1巻、岩波書店、1985年。190-191ページ)
■「発見」のあと
▼開発の始まり
ポルトガル王マヌエル1世は、1502年、フェルナン・デ・ロローニャを代表とする改宗ユダヤ教徒の商人団に、ブラジルの開発権を譲渡した。フェルナン・デ・ロローニャは、年間100レグアの海岸線を探検・開発するという条件のもとに、赤い染料がとれるパウ・ブラジルを伐採し、これをヨーロッパに輸出しはじめた。
▼ポルトガル領アメリカ「ブラジル」の誕生
当初、ヴェラ・クルスないしはサンタ・クルスと命名された「発見」の地は、やがて、「パウ・ブラジルの地」、そして、たんに「ブラジル」と呼ばれるようになった。16世紀の前半はこのパウ・ブラジルの伐採が盛んに行われ、1570年代まで続いた。この時代は「パウ・ブラジルの時代」という。
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I O N
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